第57話 B♭

 ……でも待って。

 今、「つもりだった」って言った?


「だけど、やめたって。でも、アメリカの獣医療を経験するのは夢だったから、今回アメリカ行くんだって言ってた。それで諦めるって」


 紗有美さんは段々声のトーンが落ちてきて、下を向いて寂しそうにしていた。


「どうして?」


「…あなたのせい」


 下を向いたままの紗有美さんの目からは、まるで真珠みたいに綺麗な涙が流れた。


「あなたと離れたくないって!蒼依は寂しがり屋だから、離れられないって」


 嬉しいというより、ショックだった。

 私が暖さんの人生の可能性を小さくしているなんて。


「何より、暖自身が蒼依と離れたくないって。蒼依がいないと耐えられないって」


 紗有美さんは泣きじゃくりながら、私の方を一切見ずに続けた。


「暖はそんなこと言うタイプじゃなかった。去年私と別れた時だって、今は夢を叶えるために時間が必要だから、別れようって。もちろん私は嫌だった。アメリカなんて行かないでって何度も泣いた。でも、暖の決意は固くて何を言っても無駄だった。勝手なこと言ってごめんって悲しそうな声で言うくせに、瞳の輝きは失ってなかった。だから私は暖のために身を引いた。夢を叶えて欲しくて。でも、私じゃ暖を支えられないんだって思って死ぬほど悲しかった」


 悲痛な言葉の海に飲み込まれそうになった。

 膝を抱えこんで座る姿はこの部屋に来た時の様な傲慢さは微塵も感じられなくて、怖い夢を見た幼い少女のように震えていた。


「なのに、今はあなたの為に夢を捨てようとしてる。あなたが寂しがり屋で弱いからなんかじゃない。暖にはあなたが必要なの。あなたが暖を弱くしたの!」


 私は暖さんのことを何も分かっていなかった。

 私たちは、「ずっと一緒にいようね」だなんて、軽く口約束を交わすだけの中学生の年齢ではなかったのだ。

 紗有美さんの涙に濡れた声はこの狭い部屋の中を反射して、行き場がなかったのかベッドの上のギターの穴の中で響いた。

 少しだけ反響した声が、チューニングがずれたままのギターの弦を鳴らして音を立てた。

 

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