第16話 Em7-5

「じゃあ、今日はありがとうございました。本当に嬉しかったです」


 両手鍋とお皿、スプーンにフォークを持って、私は靴を履いた。

 草深さんは玄関まで見送りに来てくれた。


「こちらこそご馳走様。これからはインターフォンには気をつけろよ。戸締りも」


(また一緒にご飯食べても良いですか?)


 なんて言えるはずもなくて、ありがとうございますとだけお礼を言って私は玄関のドアを閉めた。

 春とは言えまだ寒い4月の夜は、アパートの廊下に静けさを残していて、冷たい風だけがたまに耳のそばで音を立てた。

 部屋の鍵を開けて、鍋をコンロの上に戻す。

 キッチン横のシロツメクサは廊下の光で電灯浴をしていて、その隣に草深さんから預かった小さいガラスの瓶を置くと、小さくカーブしたガラスの曲面が廊下の光を広げて優しく輝いた。

 

 今日は何だか色々なことがあって疲れてしまって、エプロンを外して部屋に入ると私はベッドの上に倒れ込んだ。


(そう言えば、嘘とは言え、彼女って言ってくれたな)


 私を守るための優しい嘘。

 眠りに落ちるまでの間、枕に顔を埋めていると聴こえてきたのは、窓の外で春の風を纏った優しいギターの音色だった。

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