第10話 C/E

 草深暖だった。


「何って、新聞の契約ですよー。邪魔しないでもらえます?」


 こういう事態にも慣れているのだろう、男は突然の事態にもそれほど動じていないようだった。

 

「あ、そう。勝手に玄関に上がり込んでそれはねーだろ。朝読新聞?販売店どこ?連絡するから」


 男が首から下げていた販売員証を手に取ると、スマホに番号を入力してコールを始めた。


「お前さ、この子と関係あんの?邪魔すんなよ」


「俺の彼女だから。あーもしもし?朝読新聞さんですか?そちらの販売員の勧誘がしつこいんだけど」


 電話越しに冷静に対応しながらも、草深暖は私とその男から決して目を離さなかった。


「分かった分かった。もう来ねーよ!」


 男はそう言い残して、草深暖にぶつかって廊下に出て行き乱暴にドアを閉めると、苛立ちを表すかのように必要以上に大きな音を立てて階段を降りていった。

 夜の街にその音が響いて消えていくと、辺りはまた元の静けさを取り戻した。


 私は腰が抜けたまま立ち上がれずに、玄関に座り込んでいた。

 草深暖は隣に座ったかと思うと、鍋が吹きこぼれているのをみて、膝立ちのままコンロの火を止めてくれた。

 私は突然涙が溢れて止まらなくて、心臓がずっと強く脈打っていて、まるで200mを全力で5セット続けて走ったみたいだった。

 体が痺れて指先にも力が入らない。

 お礼の言葉を言わなくてはと思っているのに声も出なかった。


 涙を止めるにはどうしたらいいのか、誰か私に教えて欲しかった。

 

「おい、蒼依。大丈夫?怖かった?」


 草深暖は隣に座って、私の頭を軽く叩いてどこまでも優しい声で言った。

 いつものからかうような調子でもなく、カフェでの営業用の口調でもなく、心の底から出てきているであろうその言葉は私の胸の中に真っ直ぐに落ちていった。

 嗚咽を止めようと深く息を吸ってゆっくりと吐く。

 エプロンで涙を拭くと、いつもの笑顔の猫忍者ニャン丸と目が合った。


「あり、がとうございま、す。草深さ、ん」


 しゃっくりで途切れ途切れになりながら、私は何とかお礼の言葉を伝えた。

 まだ泣き止まない私のそばで、草深さんは何も言わずに頭を優しく一定のリズムで叩いてくれていた。




 どれくらいの時間が経ったのか、鍋からポトフの匂いがあまりしなくなったのできっと冷めてしまったんだと思った。

 その間も、草深さんはずっと隣にいてくれた。

 ポトフの匂いがしなくなると、微かに薫る香水の香りに気が付いた。

 深い森の中のような、澄んだ香りがいつの間にか私を包み込んでくれていた。


 ロマンチックな出来事とは裏腹に私はお腹が鳴ってしまって、顔を埋めていた腕を急いでお腹に当てると、隣で草深さんが笑った。


「腹減った?俺も腹減ったよ、夕飯、何作ったの?」


 笑い方ひとつ取ってもこの人は絵になるななんて、こんな状況なのに不謹慎ながら思った。


「ポトフです。お礼に、よかったら食べて行きますか?」


 私は恥ずかしさを隠すために、なるべく照れないようにして言った。


「お、マジで?じゃあご馳走になろうかな、上がっていいの?」


「あ、お皿とか、一人分しかなかったです…」


 暮らしなのだから当然といえば当然なのだが、来客が来たらどうするつもりだったのか、私はどこか抜けている。


「そうしたら、鍋持って俺の部屋来てよ、食器とかあるから」


 草深さんはそう言い残して、立ち上がると玄関の扉を開けて廊下へ消えた。

 扉が閉まったかと思うとまたすぐに開いて、


「すぐ来てね、腹減ってるから。またなニャン丸」


 私ではなく私のエプロンに向けて手を振って、いつもからかうみたいに笑った。

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