第9話 F







花が散ってしまったとしても桜の木には違いないはずなのに、もう誰も桜を話題にすることはなかった。






 

 規則的な包丁の音が、6.5畳1Kの狭い部屋に響いている。

 私はキッチンでキャベツを千切りにしていた。


(何なのあの人。二重人格なんじゃない?)


 あの後カフェで食事をしながら、私は腹の虫がおさまらなかった。

 詩帆はパスタを食べながらあいつのことをかっこいいだなんて言うし、ボンゴレロッソは思いの外辛かったし。

 デザートのリンゴのシブーストはパスタの辛さの後なのもあってすごく美味しかったので、ようやく少しイライラが引いた。

 食後のコーヒーを持ってきたのは初めの女の子のウエイターで、心地良い笑顔で私の怒りを多少なりとも鎮めてくれた。


 

 包丁を握る手に力が増していく。

 コンロに載せた鍋の中ではポトフがコトコト音を立てて煮込まれている。

 キャベツの千切りを終えると、私は腹いせに今日食べたサラダのドレッシングを再現しようとして、オリーブオイルに黒胡椒、砂糖と味噌を足していく。

 小指で舐めてみると少し酸味が足りない。

 少しだけお酢を足してみると味が締まったので、私はだいぶ満足した。


 食事の準備も終わったし、これから食べようかと思った時に外の階段を乱暴に登ってくる音がして、突然私の部屋のインターホンが鳴った。


 キッチンに鳴り響く音が思いの外大きいのでびっくりしたが、私はすぐそばの玄関のドアを開けた。

 ドアを開けると帽子をかぶった中年の男がニヤニヤと笑いながら立っている。

 しわくちゃのウインドブレーカーにサイズの合っていないだるだるのボトムスを履いて、無精髭を生やしたままで一見して危ない人だと思った。

 

「どうもー、朝読新聞ですー、新聞とってくれませんかー」


 語尾を伸ばす不愉快な言葉遣いと、気だるそうな態度が気に障る。


「いやーえっとー、大丈夫です。失礼します」


 玄関のドアを閉じようと思ったが、足でドアをロックされて閉じられない。


「大丈夫なんですねー、じゃあここにサインをお願いしますー」


 男はボードに挟んだ契約書とボールペンを勢いよく私に突き渡した。

 一瞬意味が分からなくて固まってしまったがようやく思考が追いついた。


「あの、大丈夫ってそう言う意味じゃなくて、必要ないっていう意味です」


 私が契約書を受け取らないと、


「あぁ?それは困るなー、大丈夫って言ったら契約するって意味でしょ。それに大学生は新聞くらい読まないとダメだよー」


 男は相変わらず語尾を伸ばしているが目は座っていて、口調は明らかに荒くなっていた。


「ほら洗剤もつけますよー、はいここにサインねー」


 換気扇が無機質に回る中で、コンロの上では鍋の中でポトフがコトコトと音を立てている。


「ほら!早くここにサイン!こっちは忙しいんだよ!」


 男は契約書をバンバン叩きながら大きな声を出すので、私は怖くてその場に座り込んでしまい、もうどうしたらいいか分からなかった。

 すると男の後ろから声が聞こえた。


「おい!お前何やってんだよ!」


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