第8話 C7








loveもlikeもcrazyも、今の私には縁のないことだった。

 

 





 時間の流れは誰にでも平等なんて嘘だと思った。

 とにかくやることが多すぎて、今の私は寂しさを感じる余裕なんて少しもなかったが、あれほど不安だった大学生活は順調に滑り出している。

 友達と言える友達は相変わらず詩帆だけだったが、会えば挨拶をして世間話をする程度の知り合いは少しずつ増えてきた。


『人見知りが通用するのは学生まで』


 どこかの偉い人がそんなことを言ったという記事を読んだが、まだ学生だし、生まれ持った性分なんだから仕方ない。

 中学、高校と違ってクラスという概念がない大学は人間関係という分子の密度が希薄な様に思えた。

 何より、別れの際に、


「お疲れ」


 と言うのが初めはどうしようもなく違和感があったが、今考えると高校時代は何て言って別れていたかをあまり思い出せない。

 

「じゃあね」「バイバイ」「またね」? 


 気がつけば私も、


「お疲れ」


 と口にするようになっていた。


 それでも、詩帆と一緒に過ごすキャンパスライフは楽しかった。

 レポートに追われて時間が光のように過ぎていって、いつのまにか桜並木が葉桜に変わっているのにも気が付かなかった。


 4月も2週が過ぎた頃、私はバイトが決まった。

 大学の近くのスーパーに入っているパン屋さんにアルバイト募集の張り紙があって、勇気を持って連絡したところトントン拍子で採用が決まった。

 小さい頃はパン屋さんになりたいと思っていた私にはうってつけの仕事で、焼きたてのパンの声を聞きながら、オーブンから出たばかりの香ばしい香りに包まれて働くのは、仕事というよりも私にはむしろご褒美だった。

 大学からも近いし、何よりも売れ残りのパンを持って帰っても良いという暗黙の了解があって食費を浮かせることができた。

 私はダブルチーズフォンデュという外はカリカリのチーズ、中にはトロトロのチーズが入っているハードパンがお気に入りだった。

 初めて食べた時にはその美味しさについ声が出てしまって、パートのおばさんに笑われてしまった。


 学業にアルバイトに精を出している間に、今度の日曜日に詩帆と遊ぶことになった。


 いつもの街に出かけて、詩帆に案内されて服や雑貨を見て回った。

 詩帆は私から見てもおしゃれな女子大生で、持ち物一つとってもどこかセンスが良い。

 私は洋服といえば盛岡駅のフェザンで買うことしか知らなかったのだが、詩帆はいくつも古着屋さんや小さい服屋さんを知っていて、お店に入るたびコンセプトの違いがあって服を買わなくても見ているだけで十分楽しかった。


 お昼時になり、ご飯でも食べようとなった時に詩帆が言った。


「そうだ、蒼依の部屋の隣の人が働いてるカフェ行ってみようよ!」


 はっきり言って気乗りのしなかった私だが、確かにあそこのランチは美味しかったし、せっかく詩帆が乗り気になっているのに水をさすのも悪いと思った。

 少し坂になった細い道を取り留めのない会話をしながらそのカフェの前まで歩く。

 4月も中旬になるとだいぶ暖かくて、昼ごろになるとジャケットを着ていると少し暑いくらいだった。


「MONOCHROME CAFE」


 白黒の喫茶店と題されたそのカフェは、通りに面した側は全てガラス張りになっているが、ガラスの種類によるものなのか外からはあまり中の様子が見えなかった。

 立て看板には今日もチョークで書かれたランチセットのメニューと食事の絵が描かれている。

 木製のアンティークなドアを開けると、ウィンドチャイムのような心地よい音色が店内に響いた。


「いらっしゃいませ」


 白いシャツに黒のギャルソンエプロンをかけた、茶髪でショートカットの若い女の子がとびきりの笑顔を私たちに向ける。

 そのまま席に通されて、私たちはメニューを渡された。

 詩帆は私が前回食べて美味しかったと伝えた渡り蟹のクリームパスタセットを、私はボンゴレロッソのセットを注文した。

 ホールスタッフの女の子はハキハキとした丁寧な喋りで注文を受け、厨房へオーダーを伝えに言った。


 サーブされた水を口に含むと、微かに香るレモンの風味が歩き疲れた体に染み渡っていく。

 窓越しの景色は今日も様々な人で溢れていて、春らしい色とりどりの洋服が彩る風景はずっと見ていても飽きなさそうだった。


「ねぇ、蒼依の隣人さんいないのかな?最近どうなの?」


 詩帆が店内をキョロキョロと見渡す。


「どうだろうね、私も滅多に会わないから。あの人いつも帰ってくるの遅いみたいなんだよね。私が寝る前に帰ってきてることあまりないんじゃないかな」


「そうなんだ、私たちも学年が上がって研究室入ったら忙しくなるのかなー憂鬱ー」


 詩帆は前かがみになってテーブルに体をもたれて、手の上に顔を乗せながらぼやいた。


「3年生からだよね。詩帆は何の研究室入るか考えてたりする?」


「いやーまだ全然何もー。蒼依は?」


「私は地域環境政策研究室に興味あるんだ。こないだ授業でやってたSDGsについてもやってるみたいだから」


「地域環境かー、ねぇ、蒼依の地元ってどんなところ?」


「雫石ってとこなんだけど、本当田舎だよ。特に何もないよ」


 地元を卑下するわけではないが、本当に何もない。

 私は多少自嘲気味に話した。


「えー何かあるでしょー?観光スポットとか」


「慰霊の森っていう有名な心霊スポットがあるよ」


「え、心霊とか無理無理!他には?」


「うーん。あ!小岩井農場があるよ。小岩井農場知ってる?」


「小岩井農場?聞いたことないなぁ」


「ミルクコーヒーとか売ってるよ」


 私は携帯で検索をして詩帆に説明をした。


「あぁ!これ!飲んだことある!おいしいよね、これ、小岩井農場で作ってるの?」


「うーん、詳しくは知らないんだけど、そうなんじゃない?」


「そちらの商品は小岩井乳業という会社が作っていますよ。他にもヨーグルトやチーズ、乳製品はほとんど網羅していてどれも美味しいですよ」


 話を遮るように、ランチが運ばれてきた。

 今日のサラダは和風味噌ドレッシングで和えられたグリーンサラダの上に赤パプリカ、黄パプリカのピクルスが乗っていて鮮やかな配色だった。


(げ、草深暖…)


「お待たせいたしました。こちら渡り蟹のクリームパスタセット、ボンゴレロッソセットになります」


 食事をテーブルの上に並べ終えて、カトラリーの音がしないように丁寧に置きながら、とびきりの営業スマイルで説明がなされた。


「どうも、こんにちは。ありがとうございます」


「どういたしまして、そちらのお友達はこの間もご一緒でしたね。僕は草深暖です。お名前は?」


 猫が喉を鳴らすような心地よい周波数の声で、草深暖は詩帆に微笑みかけた。


「私、蒼依の友達で同じ学科の前里詩帆です。草深さん、詳しいんですね」


「一応獣医学科ですから。それではごゆっくり」


 丁寧に頭を下げて私の隣を通り過ぎる時に、小さな声で囁いたのを私は聞き逃さなかった。


「ごゆっくり、ニャン丸」

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