第5話 Dm

 偶然にしては出来過ぎだと思った。

 

「俺、草深暖!カフェのウエイター!」


 それはもちろん分かっているのだが、突然の事態をすぐに飲み込めなくてうまく言葉が出てこない。


「はい、あの、真咲蒼依です。昼間は、どうもーー」


「そう蒼依ちゃん!覚えてるよ可愛いから。いやーこんなことってあるんだな、運命?ねぇ、料理してたの?」


 私が何を言ってるのかと不思議そうにしていると、隣人は私の胸を指差して微笑んだ。

 ふと視線を下ろしてみると、エプロンをつけたままだった。

 しかも小学生の時に家庭科の授業で作ったエプロン。猫のキャラクター、猫忍者ニャン丸のエプロンだった。


「夕飯何作ったの?」


 昼間の丁寧な姿勢とは打って変わった軽薄さに私は嫌悪感を覚えた。

 とにかく挨拶だけは済ましてしまおうと思い、


「あの、これ、引っ越しの挨拶の品です。それと、これはうちの母が持たせたものですけど、よかったら召し上がってください」


 私は無愛想にそう言い放って、半ば無理やり手渡してお辞儀をして自分の部屋に戻った。


 部屋に戻ると私はエプロンを外して、ニャン丸を優しく撫でてから畳むと、小学生の家庭科の授業を少し思い出した。

 よく見ればステッチの荒い部分が目立って、ニャン丸のプリントも少し色褪せてきている。


(何なのあの人、昼間とは全然別人じゃん)


 でも、当然と言えば当然だと思った。

 仕事中の態度をプライベートにも求めるのは図々しいのは分かっている、だけど、それにしてもあの変わりようは何?

 昼間の私のちょっとしたときめきを返して欲しかった。


 そんなことをしていたら何だか1人感傷にふけるのが馬鹿らしくなってきて、お風呂に入って今日はもうさっさと寝てしまおうと思った。


 この部屋は家賃の割にバストイレ別なところが気に入っている。

 湯船にお湯をためて、母が持たせてくれた実家でよく使っていた入浴剤を入れる。

 入浴剤がゆっくりと拡散していくと、湯船は乳白色に染まった。

 足を伸ばすことはできないけど、1日の疲れを癒すのには十分な広さだった。

 バスルームには湯船からのミストが充満して、電球の周りが虹のように色味がかって見える。

 蒸気で曇った鏡には、ぼやけた私の顔の輪郭だけが写っていた。

 たまにシャワーから垂れる水の音が響いて、その音に合わせて指でお湯を弾いてみたりした。

 弾いたお湯が鏡にかかって、流れる水滴となって曇りを取っていくと、細い線の中に写った私の瞳は不思議と微笑んでいた。


 脱衣所のないこの部屋で、私はバスタオルを体に巻いたまま冷蔵庫で冷やしておいたミネラルウォーターを1杯飲んだ。

 お風呂上がりに飲む水は最高だった。

 冷たい水が体に広がっていって、少しのぼせた頭の熱を取ってくれる。


 部屋着に着替えて、ドライヤーで髪を乾かしてからベッドに倒れこむ。

 布団の中で、私は今日一日のことをぼんやりと思い出していた。

 買い物もしたし、カフェの食事も美味しかった。

 肉じゃがもうまく作れた。

 隣の部屋の人は……さっきの出来事をまた思い出しそうになって無理やり頭から追い出す。

 明日からの新生活を考えると不安で少し気分が暗くなるが、ここ数日のドタバタの疲れのせいか私はいつの間にか眠りについた。



 

 遠くでギターの音が聞こえた気がした。

 聞いたことのある曲。

 でも何だか違うアレンジ。

 レム睡眠の間に私の脳が勝手に作っているメロディーかも。

 



 柔らかい音色に揺られていると、不快な電子音が大きくなってきた。

 無意識に右手を伸ばして携帯の画面を見る。


 4月4日(月)6:00


 実家とは違うベッドの寝心地にまだ慣れない私の体はなんとなく疲れがまだ残っている気がした。


 まだ眠気の取れない頭を抱えて、私は朝の支度を整えた。

 朝食には、外国映画に憧れて昨日街で買った輸入食品のシリアルを食べてみたが、甘くて食べられたものじゃなかった。

 すぐにヤカンをコンロにかけて、母がくれた紅茶を淹れて口直しをする。

 

 ワンピースにジャケットを羽織って、少し早いけど6時50分には家を出ることにしたのは、なんとなく、昨日の桜並木が気になって歩いてみたくなったから。


 玄関を出ると同時に、202号室の扉も開いた。

 

「お、ニャン丸!おはよう!」


 子供みたいに無邪気な笑顔で挨拶をされた。


(げ、草深暖。朝から最悪。てかニャン丸?)


 私は眉をしかめそうになるのを必死でこらえて、作り笑いをして挨拶をした。


「おはようございます。草深さん」

 

「お隣なんだし暖さんって呼んでよ。あ、南部煎餅、ごちそうさま。うまかった。ニャン丸岩手出身?」


 13段の階段を先に降りる草深暖は横目で後ろを見ながら話した。

 デニムジャケットを颯爽と羽織ってこれ以上ないくらいに爽やかなのに、この不愉快なほどの軽さはどうにかならないのか。


「岩手です。はどちら出身なんですか?」


「俺は埼玉。お礼に今度草加煎餅でもあげるよ。俺は越谷だけど」


 正直埼玉の地名を言われてもピンとこないが、草加煎餅は有名なので知っている。


「ありがとうございます。学校ですか?早いですね」


「あぁ、研究室、今日から授業だろ?頑張ってな!」


 朝日をバックにとびきりの笑顔を残して、階段下の車輪の小さい折りたたみ自転車に乗ると草深暖は大学へと向かった。


(研究室か、学年が上がると忙しいんだな)


 大学まで歩いている間、私も早く自転車を買わなくちゃとぼんやり思った。

 朝の桜並木は桜の花もまだ眠たそうで、私は鳥の鳴き声を聞きながら少し背伸びをした。

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