第4話 A7

 食べ終えた食器を下げながら、先ほどのウエイターが微笑んだ。


「稜生大学?僕は獣医学科6年の草深くさふか だんって言います。君は?」


 食器を重ねて器用に左腕に乗せると、草深さんは尋ねた。


「あ、はい。私は真咲まさき 蒼依あおい。環境科学科の1年です」


 コーヒーカップをテーブルに置いて、草深さんの方を見た。

 草深さんは少し茶色がかった髪をしていて、まつげの長い、端正な顔立ちをしていた。


「そうなんですね、あまり会うこともないかも知れないけど、宜しくお願いしますね。コーヒーはお代わりいりますか?」


「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 接客の一環といえばそれまでだけど、上京したばかりで知り合いのいない私にとってその笑顔はあまりにも眩しすぎた。

 

 カフェの外は相変わらず人に溢れていたが、それでも、空腹を満たしてエネルギーを充填した私は大きな荷物を抱えながら駅へ足を向けた。


(草深暖さんか。他学科の6年生じゃもう会うこともないかな)


 まだ明るい外の景色を、近くは一瞬、遠くは徐々に、電車のスピードが切り替えていく。

 明日からはオリエンテーションが始まるので、今日の内に部屋の片付けをある程度進めておかなければ。


 最寄駅から歩いて15分の私の家までは桜並木が花を咲かせていた。


(これは、きっとソメイヨシノだな)


 春の暖かな風が吹くたびに八分咲きとなった枝を揺らして、桜の花がひらひらと優しく散っていった。

 歩道の脇を、落ちた桜の花びらが積み重なるように縁取っていて、一部茶色く変色したその姿がどこか物悲しく感じた。


 ダンボールとの格闘は4時間ほど続いた。

 最低限の荷物にしたはずなのに、なぜだか手放せなかったぬいぐるみや、陸上部引退時の寄せ書きの色紙、つい読み返してしまう卒業アルバムなど私の作業を妨げるものがたくさん入っていた。


 見覚えのないダンボールには母からの手紙と、可愛らしい桜の封筒に包まれた3万円が入っていた。

 早くもホームシックになりそうな心の向きを切り替えるように、私はまだ新しいカラーボックスの中のファイルにそっとそれらをしまった。


(今の時間だとお母さん、まだ仕事してるかな。夕ご飯を食べ終わったら電話しよう)


 きっと今、声を聞いたら泣いてしまう。

 心の奥でか細く揺れるそんな気持ちの火が燃え上がらない内に、私はキッチンに続くドアを開いた。


 夕飯は肉じゃがを作って簡単に済ませた。

 おばあちゃんが教えてくれた得意料理で、隠し味に白味噌を少し入れるとコクが深まっておいしくなると、優しい声で笑っていた台所を思い出す。

 懐かしい味が私の孤独感を高めていって、この殺風景な台所をどうにかしなければと思いながら、残りの肉じゃがを明日の夕飯にするために冷蔵庫に入れた。


 テレビのないこの部屋は、一人で過ごすには静寂がうるさすぎる。

 こう静かだと隣の部屋の音が聞こえてきそうなものだったが、少なくとも私が起きている時間帯はいつも静かだった。

 真下の部屋への挨拶はもう済んだけれど、隣の部屋への挨拶は相手が不在で結局まだできていない。

 角部屋なので隣は1部屋だけなのだが、いつ尋ねてみても留守なのだ。


 私はまたイヤホンをつけて、いつものお気に入りの曲をかけた。

 歌詞を覚えてしまうほど聞いた昔の外国の歌。


 気持ちを落ち着かせたところで、母に電話をかけた。


 数コールの後、数日前まで飽きるように聞いていた声が携帯電話のスピーカーから聞こえた。


「もしもし?蒼依ー?」


「うん、お母さん、元気?」


「元気にしてるよ。そっちはどう?もう一人暮らし慣れた?ちゃんとご飯食べてるの?」


 1つの文章でいくつも質問をするのは昔からの母の癖だった。

 実家にいた頃はそんな母の言い回しがなぜか気に触ることもあったが、今では懐かしさが上回った。


「元気だよ。ご飯もさっき食べた。肉じゃが作ったよ」


「あーあなた得意だったもんねー、上手にできた?寒くない?」


「うん。おいしかったよ。そっちに比べてたら暑いくらいだよ」


「そう、それならよかったわー。明日から学校?今日は早めに休むんだよ?」


「うん。お母さん、あのね、ダンボール開けたよ。手紙と、お金、ありがとうね」


「あーいいのよー。何か美味しいものでも食べなさい」


「ありがとう。ゴールデンウィークにはそっちに帰るから」


「そうね、楽しみにしてるわよ。それじゃあね」


「うん、おやすみ」


 再び部屋に静寂が戻った。

 じっとしていると寂しさに飲み込まれそうになる。


(洗い物しないとーー)


 重い体をなんとか奮い立たせて、私は食器を持ってキッチンへと向かった。

 流しにお皿を置いてスポンジを手に取った時、外の階段を登ってくる音が聞こえた。

 足音はそのまま私の部屋を通りすぎて、隣の部屋のドアの前で止まると鍵を開ける音がして扉が開くとすぐに閉まる音がした。


(やっと挨拶ができる!)


 私は洗い物を途中で止めて、すぐに準備をした。

 冷蔵庫の上に置いておいた挨拶の品と母から持たされたお土産を手に取り、急いで玄関を開けて隣に向かった。


 隣の部屋は少しだけ開いたキッチン横の窓から珍しく明かりが漏れている。

 私は深く深呼吸をしてからインターホンを押した。

 ベルの音が窓の隙間を通して思ったよりも夜の住宅街に響いたので、私は近所迷惑じゃなかったかなと少し不安になった。


「はーい」


 部屋の中からくぐもった声が聞こえる。きっとキッチンにはいないのだろう。


「あの、隣に引っ越してきました、真咲です。引っ越しのご挨拶に伺いました」


 部屋の中で勢いよくドアを開く音がして、玄関の扉が開いた。


「うわ!俺、昼にカフェで会ったの!覚えてる?」


 4月の夜の冷え込みは思いの外強くて、間接照明が照らすその部屋の中はとても暖かそうに見えた。

 

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