第3話 Em7-5

 曲の始まりはギターの音から。

 金属製の弦が震えてアコースティックな優しい音色が私を包むはずだったのに、聴こえてきた音は携帯のスピーカーを通してひび割れていた。

 せっかくのお気に入りの曲が台無しだった。


(コンポも買おうかな、やっぱり実家から持ってくればよかった)

 

 朝食を食べ終えてすぐ、私はイヤホンを取り出して耳にはめてもう一度初めから再生する。


 携帯よりも小さなこの機械がどうしていい音を響かせてくれるのか私には想像もつかないが、両耳から心地よい弾き語りのメロディーが流れて鼓膜を震わせて、この小さな部屋から私を連れ出してくれた。


 音楽は素敵だ。


 長距離のトレーニング中に聴いていた曲、受験勉強をしながら聴いていた曲。

 音楽を聴くだけで何故だかその時の情景まで頭に浮かんでくる。

 途端に上京して一人きりの今の状況が寂しくなってきてしまい、私は感傷を振り切るように部屋を出ることにした。

 

  玄関のドアを開けると春の日差しで目が眩んだ。

 おかげでアパートの階段を踏み外しそうになったが、かろうじて手すりに捕まってことなきを得る。


 階段を降りる度に金属音が鳴らす一定のリズムは、12回鳴った所で砂利を踏む音に変わった。

 

(明日から授業が始まるから、今日中に買い物を済ませておかないと)


 大学を通り越して駅まで歩き、私は電車に揺られて街に出ることにした。


 雫石の冷たい春と違って、こっちの日中はもう暖かい。

 場所によって人によって、「春」という単語から想像する空気や風景、温度感は違いがあるのかもしれない。

 産まれる場所は選べないだけに、「標準語」という東京を基準に構成される言葉が少し腹立たしくも感じた。


 電車に揺られて9分の街で私は自動改札に捕まった。

 ICカードの残高が足りなかったらしく、すぐに精算機でチャージをして駅員さんに近い改札を通る。


 すごく恥ずかしかったが、この街では私のことを気にとめる人は誰もいなかった。

 まるで川の急流みたいに流れる人混みの中で、私は慣れない街の地図を眺めた。


(ここが今私がいる駅で、雑貨屋さんは…このビルの中ならあるかな)


 ふと辺りを見ると、誰も彼もが、当たり前のように人とぶつからずに器用に歩いている。

 都会だと思っていた盛岡駅とは比べ物にならない音量の雑踏を、身にしみて感じた。

 みんながみんな急いでいるわけでもないだろうに、私とこの街の人たちの歩く時速は明らかに違っていた。

 私はなるべく行き交う人たちの邪魔にならないように、コンコースの隅を歩くことにした。


 どうにか一通り買い物を済ませた頃にはお昼になっていたので、私はせっかくだしおしゃれな通り沿いのカフェに入ってみることにした。

 

 路地裏の通り沿いにあるそのカフェの入り口には「MONOCHROME CAFE」と立て看板にチョークで書かれていた。

 店内はアンティーク家具で統一されていて、賑やかな街の騒がしさとは程遠い、ジャズピアノのBGMが静かに流れている。

 私は窓際の席に通されて、細かい装飾の施された椅子に座ると自然と深くため息をついた。

 ランチメニューはそれほど種類が無く、私は渡り蟹のクリームパスタセットを注文した。

 私はうっすらとレモンの味が薫る水を口にして一息ついて視線を窓の向こうに向けると、通りには沢山の人が行き交っていた。


 コップを両手で持ちながら窓の外を眺めていると、これからこの街で暮らしていくのに私に必要なのは、生活雑貨ではなく人との関わり合いのように思える。

 

 ピントが合わないカメラみたいに、窓の外を見ているのにどこにも焦点が合っていなくて、街の風景はただの雑踏として私の脳が処理しているようだった。

 

 「お待たせいたしました。渡り蟹のクリームパスタセットです」


 色鮮やかなサラダと一緒にパスタを運んできたのは、若い男性のウェイターだった。

 歳はきっと私より少し上で、少し長めの前髪をかき上げてセットしていた。

 白いシャツに黒いギャルソンエプロンが店のインテリアとのコントラストを作っていた。


 目の前に運ばれたパスタよりも私はそのウェイターの手が気になってしまった。

 細い綺麗な指と対照的に、生々しい傷が手の甲に刻まれていたのだ。

 ウェイターは料理をサーブすると爽やかに笑って店の奥へと戻っていった。


 レタスと玉ねぎのサラダの上には、紫キャベツのマリネが乗っていた。

 見た目に美しいだけでなくて、特製のドレッシングがマリネの酸っぱさとよく合っている。

 渡り蟹のクリームパスタは甲羅が上に被さっていて、フェットチーネとアメリケーヌソースがよく絡んでカニの濃厚な旨味が口の中に広がっていった。


 食後のデザートはアフォガードだった。

 濃厚なバニラアイスの上にかけたエスプレッソの苦味が中和されて、私は食べ終わるのがもったいなくて少しずつ少しずつ食べた。

 

 食後のコーヒーにミルクを入れる。

 円を描くようにスプーンを動かすと、ミルクが少しずつコーヒーと混じって焦げ茶色の液体は薄い茶色に変わった。

 湯気の立つまだ熱いその液体を、火傷をしないように慎重に1口だけ口に運んだ。


  コーヒーを飲みながら、私はシラバスを確認していた。

 冷たい口内が熱いコーヒーで温められていくと、満腹で少し眠くなった私の頭は、苦さのせいかカフェインの効果か分からないが少し冴えてきた。 

 にも関わらず、どの授業を履修するかはまだ全然決められなかった。


 環境科学科を選んだ理由は、持続可能な社会を目指す世の中の流れとマッチしているように感じたから。

 それなのにどこか都会の雰囲気に憧れて、早速おしゃれなカフェでランチをしている。

 我ながら矛盾しているようだが、特段これがやりたいという夢があるわけではなくて、自分の学力と就職先に困らなそうという期待に折り合いがついたのが今の学科だったというだけだった。


 シラバスを閉じてテーブルの上に置き、少し冷めたコーヒーに手を伸ばす。


「あれ?うちの大学?新入生ですか?」


 コーヒーを口に含んだ瞬間、左斜め後ろからやや低めの声が聞こえた。

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