女と子供


 スマホに翔太からの着信が入っていたので、仕事から帰って電話を掛けた。

『久しぶり』

「あ、翔太、えっと、その、久しぶり」

『おう』

 微妙な沈黙。この微妙な間が愛おしい。私にとっては数年だって微妙な間だって言えるけど、やはり直接会話をしている途中の、この何も言わない沈黙の時間が、とても贅沢で好きだ。とはいえ好きな時間というのは長くは続かない。でも、沈黙を破る声でさえ好きだ。

『で、有栖ちゃんのことなんだけど』

 私でもちゃん呼びされたことないのに。

「うん」

『いやうんって、めっちゃ落ち着いてるじゃん。今俺んとこ来てんだよ?』

「でも翔太なら信頼できるから……」

 自分で計画したこととはいえ、明確に騙すのは気が引けるので適当に濁す。

『いやそういうんじゃないんだけど……。まあいいや、明日は仕事ないの?』

「うん、休み」

『じゃあ有栖ちゃんを迎えに来るついでにちょっと喋らない? いろいろ聞きたいことあるし』

 やった! と叫びかける口を慌てて押さえて、極めて冷静な口調で「いいよ」と言った。

『てか今どこ住んでるの? 都内で待ち合わせとかで大丈夫?』

「沼袋だから私はぜんぜん平気だよ」

『……引っ越してなかったんだ。そしたら中野の南口に十三時とかでいい?』

 引っ越すわけないじゃん、という言葉をぐっと呑み下す。

「楽しみにしてる」

 そう言ってから、子供を迎えに行く母親の発言としてはおかしいことに気づいたので、楽しみってどういうこと、と言われる前に電話を切った。



 簡単な話だ。子供をきっかけに縒りを戻そうってだけ。

 私は翔太のことが好きだから、別れたがっているのを察して、死ぬほど困った。別れなかったら好きな翔太が苦しむわけだし、別れたら別れたで翔太を好きな私がつらい。いっそ死のうかとも思ったが、両方つらいだろうから止めた。

 あまりに困り果てた私は、神様に選んでもらうことにした。

 大事な話があるから会いたいと翔太から言われたので、会う場所を私の部屋にして、別れる前に一回だけ、と安全日と偽って泣きついた。これで妊娠しなければ素直に諦めようと思っていたけれど、打率何割とも知れないこの博打に勝ってしまった。

 正直、こんなジャックポットが当たるとは思っていなかったが、その後私は肝心なところで外れくじを引くことになる。女だったのだ。

 最初は、この子を翔太の代わりに愛でて生きていこうと思っていたのだ。しかし、育てても育てても翔太にはならない。髪を短く整えても、男の子用の服を着せても、翔太とはどこか違う。高い声で喋るからだ、と気付いて、口を利くなと命じたらだいぶ翔太っぽくなった。でも最後の最後でどこか違う。翔太は食べ物をぼとぼとこぼしたりしない。翔太はくだらないことでいちいち喚いたりしない。

 でも、勝手にどこかに行こうとする時の顔だけは本当にそっくりで、あまりに腹が立つので家から出られないよう鎖で繋いでおくことにした。鎖をつけてからは聞き分けも良くなり、手間がかからなくなってとても助かっている。


 だいぶ従順になり、勝手に逃げ出したりはしないだろうと思ったので、この子供を翔太の部屋に行かせることにした。私と翔太の子である、と子供の口から聞けば、翔太は私に連絡を取りに来るだろうと思ったのだ。それに、子供を迎えに行くという名目ができれば、翔太の現住所を公式に教えてもらえるかもしれないし、なにより翔太に会えるかもしれない。


 そして、その計画はついに実行に移され、二三九八日ぶりに翔太と会えることになった。今頃あの子はお風呂にでも入っているだろうか。今月に入ってからは一度も殴っていないはずだし、たんこぶやら青痣やらはほとんどないはずだ。

 今から死んでしまいそうなほど楽しみで仕方ないけれど、しっかり寝ないとお肌に響くので、睡眠薬を一錠口に放り込んだ。




 待ち合わせの数分前に改札をくぐると、一人の目に麗しい青年が、子供の頭を撫でていた。翔太だ。なんて愛おしいんだろうか。しかし、どさくさに紛れてしれっと翔太に密着している有栖に腹が立った。あとでおしおきだ。

 とはいえ、公衆の面前、そしてなにより翔太の前では普通でいなきゃ。笑顔を咬み殺して声をかけた。

「久しぶり、翔太。あれ、なんかあったの?」

「若いおにーさんとぶつかっちゃって。まあ怪我はないっぽいから一応大丈夫そうだけど」

「そっか。だいぶ懐いてるみたいね」

「うーん。懐いているというか、おにーさんが派手な格好してたから怖がってるだけじゃないか」

 六年前と同じいつもの場所で待ち合わせて、行きつけのファミレスに向かって歩き出す。何も変わらない。六年前と何も変わらない、最高の時間だ。


「で、電話で言った聞きたいことの話なんだけど」

「うん」

「有栖ちゃん、本当に俺の子なのか?」

「間違いないと思う。翔太が協力してくれるなら、遺伝子検査しようと思う」

「まだはっきり分かってるわけじゃないんだ」

「うん、でも私は翔太以外の男とは付き合ってないから」

 それに、とトーンを落とす。

「別れた日の前夜だと思う、その月末の検査薬でわかった子だから……」

 翔太は、そっか、と息を吐いた。

「とりあえず、そういうことなら遺伝子検査はしよう。この子の父親がわからないままじゃかわいそうだし」

「ありがとう」

「で、俺の子だって結果が出たら、認知もしようと思ってる。女手一つで自分の子を育てさせるってわけにはいかないし、養育費も……」

「あの」

 遮るならここだ。

「あの、そう言ってくれるのはありがたいんだけど、それよりも先にお願いしたいことがあるの」

「お願い?」

「また有栖と遊んであげて欲しいなって。翔太の部屋にお泊りしてきて、今日はとっても楽しそうだから」

 翔太のこと好きだよね、と問いかける。有栖はこくこくと頷いた。何度も練習させた成果が出ている。

「お金のことは私が週六で働けば何とかなる話だけど、この子を翔太と遊ばせてあげるのは私ひとりじゃどうにもできないから……」

「もちろん。約束するよ。有栖ちゃんも、いつでもうちにおいで」


 それから、六年間の話をしているうちに、日はとっくに暮れていた。仕事でこんなことがあったんだとか、大学時代のふたりの先輩だった誰それが結婚したとか、六年で変わっていった周りの話は、五時間ちょっとでは一向に尽きる気配もない。そのまま夕食も食べて行くことにして、もう少しだけ話した。



「今日はそろそろ帰るか」

 二十時を少し過ぎたころ、翔太はそう提案した。

「え。久々に〇時一分の電車に乗れると思ったのに」

「有栖ちゃんもいるんだから早く帰らないと。それに明日も仕事でしょ」

「そうだけど……。始発乗りたいし……」

「まだ言ってたんだそれ。なんでそんなに中野始発に乗りたいの?」

「座れるし……」

「座るって言っても高田馬場で乗り換えでしょ? ……まあいいけどさ」

 翔太がスマホを開く。

「えっと……。あ、土日の一九時以降はぜんぶ中野始発らしいよ。始発乗れるじゃん」

 これ以上翔太に説得をさせ続けても悪い気がしたので、帰り支度をはじめた。

 終電間際まで粘るには駅との近さが絶好のファミレスだが、今回ばかりは憎らしい。五分もしないうちにホームまで辿り着いてしまった。当駅始発の東西線はまもなく出発いたします、というアナウンスが鳴る。

「気を付けて帰りなよ」

「今日はありがとう。楽しかったよ」

「お、おう。有栖ちゃんも気を付けて帰ってね」

 バイバイ、と翔太が私に手を振ったところで発車ベルが鳴る。そそくさと電車に乗り込んだ。


 中野駅始発の東西線は、翔太が毎朝通勤に使っている電車だ。ということは、今乗っているこの電車に、十時間後に翔太が乗るのだ。もちろんお気に入りの座席の場所も知っている。実質、翔太と一緒に帰っているみたいなものだ。プライベートだけじゃなく、仕事に行く翔太も独り占めしているような気がして、付き合ってた頃からこれだけはやめられないでいる。

 次はいつこの子を行かせようか。

 次はいつ会えるかな。

 いっそこの子を翔太の部屋に住ませれば、私も通いつめる口実になるかしら。

 今度こそ、どこかに行っちゃう前に籍まで入れなきゃね。


 日曜の夜の電車なんて滅多に乗らないが、夢が膨らんで案外いいものだ。



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男と女 せっか @Sekka_A-0666

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