男と女

せっか

男と子供

「じゃがりこ好きなの?」

 五、六歳くらいの子供はちいさく頷いた。

「俺も一本貰っていい?」

 何も言わず、こくんと頷く。

 彼女の右手に握られた緑色のカップから一本拝借する。口に咥えて煙草を吹かす真似をしてみると、彼女は少しだけにこっとした。



 この子は有栖と言うらしい。髪はだいぶ短く、声を聴くまで男の子か女の子かもわからなかった。今日の昼過ぎに、いきなり俺の部屋に訪ねてきたのだ。本人曰く、六年ほど前に別れた優子と俺の間の子だそうだ。

 確かに、数年前に優子から「有栖という子を産んだ」という旨の連絡はもらったが、誰の子とは聞いていなかった。しかし結婚したという報告も受けていないし、確かに自分の子である可能性もゼロではない。可能性がゼロでないと言ってしまうくらい俺がどうしようもないクズなのは、ちゃんと自覚している。しかし、当然にわかには信じ難く、子供を使った詐欺とか強盗の線をまだ拭いきれていない。

 とはいえ、別に家の中を荒らし回る様子もなく、部屋の隅で申し訳なさそうにちょこんと正座している。まさに幼気、というやつだ。こんな子が犯罪者の手先という風にはどうしても見えなかった。



「ひとりで来たの?」

 こくりと頷く。

「ママにはなんて言って来たの?」

 ちいさく、今度は申し訳なさそうに、首を横に振る。

「そっか……」

 とりあえず優子に電話を掛ける。少なくとも有栖ちゃんは自分の口で優子の名前を言ったわけだし、本当に彼女が優子の子供であるなら、一刻も早く連絡を取らなければならない。優子の声を聴くのも何年ぶりになるだろうか、と感慨のようなものを抱いて彼女が出るのを待ったが、程なくして呼び鈴は留守電用の音声へと変わる。土曜の昼間だってのに。仕事か用事かわからないけど、うちに有栖ちゃん来てるからとりあえず暇ができたらすぐ折り返してくれ、とメッセージを残して通話を切った。


 さて、とスマホを降ろして有栖ちゃんの方を振り返る。彼女は申し訳なさそうに縮こまった。

「じゃがりこ、まだまだあるから好きなだけ食べな」

 近所のスーパーで安売りしていた時に、酒のつまみで買い込んだのがたくさんある。買い込んだはいいものの、そもそもあまりスナック菓子は好きじゃないので、一回食べたっきり放置していたのだ。あまりに減らないので職場の同僚にでも配ろうかと考えていたところだったが、まあ食べてくれる人間がいるのは良いことだ。

 しかし、有栖ちゃんは勧めても自分から手に取ろうとはしない。あんまりお気に召さなかっただろうか、と思った矢先、お腹のぐう、と鳴る音が聞こえた。

「なんだお腹空いてたんだ。俺だけじゃこれ全然食べきれないからさ、好きなだけ食べて」

 有栖ちゃんは非常に申し訳なさそうな顔をしながら、ぎりぎり聞き取れるかどうかというほどちいさい掠れ声で「ほんとうにありがとうございます……」と呟いた。

「いいよいいよ、全然気にしないで。むしろ食べてくれた方が助かるし」

 有栖ちゃんは必死にこくこくと頷くと、じゃがりこの詰められたビニール袋におそるおそる手を伸ばすと、ひと箱手に取って、ばくばくと食べ始めた。

「じゃがりこ好き?」

 彼女はこくこく、と何度も頷いた。



 優子からの連絡は来ないうちに、すっかり日が暮れた。どうしたものか。

「今日は泊まっていく?」

 有栖ちゃんは下を向いて、ほんとうにすみません、と実にちいさな声で呟いた。

 こちらから既に連絡は入れているのに、親から返事が来ないのだ。まだ残暑の季節とはいえ外に放り出すわけにもいかないし、連絡が来ないうちは泊めるしかないだろう。まあ、しばらく寂しい独り身生活を送っていたので、子供の世話をするのも新鮮で、悪い気はしない。今日はカップ麺の予定だったが、せっかくなので冷蔵庫に残っているものを片っ端から使って、豪華に自炊した。有栖ちゃんは昼間に結構な量のじゃがりこを食べていたのに、夕食もたくさん食べていた。成人女性くらい食べていたんじゃなかろうか。子供の食欲には驚かされる。


 夕食を終え、食器を下ろした流し台の前に立つと、有栖ちゃんが歩いてきて、「あの……あらいます……」と言った。例によって、とてもちいさな声だ。

「いいよいいよ、気にしないで」

「でも……」

「あ、じゃあ先にお風呂入ってきてよ。俺も後で入らなきゃいけないからさ」

「すいません……」

 幼気というか、健気というか。お風呂はこっちね、でバスタオルはこれ使って、と案内すると、彼女は何度もすいませんすいませんと繰り返しながら、脱衣所に入っていった。


 そういえば彼女は荷物を一切持ってきていなかった。子供ならリュックに水筒は必須装備な気もするが、身一つでここまでやって来たのだろうか。荷物がないなら着替えもなかろう。夕食の洗い物をさっさと終え、なにか貸してやれそうな服を探す。とはいえ、そもそも女児の衣類など用意してあるはずもない。とりあえず今日は俺のTシャツを寝間着にしてもらって、明日以降も泊まるようなら買い物に行けばよいだろうか。棚からTシャツを数種類引っ張り出した。


「洗濯機の上にTシャツ何枚か置いとくから、好きなのをパジャマにしてね~」

 脱衣所から浴室へ呼びかける。返事は特にないが、きっとドアの向こうではこくこくと頷いていることだろう。子供とはいえ女の子なので、ドアを開けて確認するのはやめておいた。

 とはいえ子供だ。身体はちゃんと自分で拭けるのだろうか。髪は乾かしてやったほうが良いのだろうか。どこまで世話を焼いてやるべきなのかを測りかねる。

 まあ聡そうな子だし、なにかあればその時に手伝ってやればよいか、と考えのんびりくつろいでいると、有栖ちゃんが脱衣所から出てきた。使い終わったバスタオルを綺麗に畳んで大事そうに抱えている。

「ほんとうにありがとうございます……」

 やっぱりちいさな声だ。

「あ、洗濯カゴの場所言ってなかったか、ごめんごめん」

 バスタオルを受け取って洗濯物を入れてある籠に放り込む。

「Tシャツ長袖の方にしたんだ。さすがに袖余り過ぎない? 大丈夫?」

 彼女はまたこくこくと頷く。明らかに大丈夫ではなさそうだが、本人が気に入って選んだようなので、良いことにする。



 彼女が寝た後、優子から電話が掛かってきた。

「久しぶり」

『あ、翔太、えっと、その、久しぶり』

「おう」

 微妙な沈黙。数年話していなかった相手と急に電話しているのだ。しかもそれが別れた元カップルともなれば、会話に詰まるには十分すぎるほどの気まずさだ。一度沈黙に呑まれると二度と喋り出せなくなってしまう気がしたので、さっそく本題に切り込んだ。

「で、有栖ちゃんのことなんだけど」

『うん』

「いやうんって、めっちゃ落ち着いてるじゃん。今俺んとこ来てんだよ?」

『でも翔太なら信頼できるから……』

「いやそういうんじゃないんだけど……。まあいいや、明日は仕事ないの?」

『うん、休み』

「じゃあ有栖ちゃんを迎えに来るついでにちょっと喋らない? いろいろ聞きたいことあるし」

『…いいよ』

「てか今どこ住んでるの? 都内で待ち合わせとかで大丈夫?」

『沼袋だから私はぜんぜん平気だよ』

「……引っ越してなかったんだ。そしたら中野の南口に十三時とかでいい?」

『楽しみにしてる』

 楽しみって、と言おうとしたときにはもう電話は切れていた。




 翌朝、八時くらいに目を覚ますと、有栖ちゃんは昨日の長袖長ズボンに着替えて部屋の端っこで正座していた。

「おはよう有栖ちゃん。早いね」

 彼女はか細い声で、おはようございますと言った。

「今日ママが中野まで迎えに来てくれるって。朝ごはん食べたら行こっか」

 有栖ちゃんは少し寂しげに、一回頷いた。子供なら誰でもお泊りイベントの終わりは寂しい顔をするものだ。妙に礼儀正しくて大人びていたぶん、彼女がそんな顔をするのが意外だった。



 身支度を終えたらすぐ家を出てきてしまったので、待ち合わせの時間より早く中野に着いてしまった。

 毎朝通勤で使ってはいるが、乗り換えだけで滅多に改札を出ないので、中野駅での待ち合わせは本当に久しぶりだ。それこそ最後は六年くらい前になるだろうか。

 改札を出ると、日曜ということもあって結構な数の人がいる。邪魔にならないよう有栖ちゃんの手を引いて壁際に寄ろうとしたとき、彼女の背中に誰かが軽くぶつかってきた。振り返ると、いかにもチャラそうな金髪の青年が首と腰回りの鎖をジャラジャラさせて立っていた。

「ごめんねお嬢ちゃん! お父さんもすいません!」

 見た目に反してちゃんと謝るタイプだったか、とか呑気なことを考えながら、いえいえ、と返した。

「こちらも改札前でもたもたしてしまって。有栖ちゃん大丈夫?」

 ふと左手の先に目を落とすと、彼女はひどく怯えていた。青年が「お嬢ちゃんごめんね」と言いながらしゃがみこむと、彼女はさらにひどく怯えて、俺の左足にしがみつく。

「あっ、ジャラジャラこわいよね、ごめんね。もう行くからだいじょぶだからね」

 青年は、ほんとすんませんでした! と頭を下げると、さっさと立ち去っていった。


 有栖ちゃんは青年が去った後も俺の足にしがみついているので、こわかったね、と彼女の頭を撫でて慰める。そうしているうちに優子がやって来た。

「久しぶり、翔太。あれ、なんかあったの?」

「若いおにーさんとぶつかっちゃって。まあ怪我はないっぽいから一応大丈夫そうだけど」

「そっか。だいぶ懐いてるみたいね」

「うーん。懐いているというか、おにーさんが派手な格好してたから怖がってるだけじゃないか」

 そんなことを言い合いながら、落ち着いてきた有栖ちゃんの手を取って、ファミレスに向かって歩き出す。何も変わらない。ちいさな女の子がひとりいる以外、六年前と何も変わらなかった。


「で、電話で言った聞きたいことの話なんだけど」

「うん」

「有栖ちゃん、本当に俺の子なのか?」

「間違いないと思う。翔太が協力してくれるなら、遺伝子検査しようと思う」

「まだはっきり分かってるわけじゃないんだ」

「うん、でも私は翔太以外の男とは付き合ってないから」

 それに、と優子はトーンを落とす。

「別れた日の前夜だと思う、その月末の検査薬でわかった子だから……」

 そっか、といったん息を吐く。

「とりあえず、そういうことなら遺伝子検査はしよう。この子の父親がわからないままじゃかわいそうだし」

「ありがとう」

「で、俺の子だって結果が出たら、認知もしようと思ってる。女手一つで自分の子を育てさせるってわけにはいかないし、養育費も……」

「あの」

 優子が遮った。

「あの、そう言ってくれるのはありがたいんだけど、それよりも先にお願いしたいことがあるの」

「お願い?」

「また有栖と遊んであげて欲しいなって。翔太の部屋にお泊りしてきて、今日はとっても楽しそうだから」

 優子が、翔太のこと好きだよね、と問いかけると、有栖ちゃんはこくこくと頷いた。

「お金のことは私が週六で働けば何とかなる話だけど、この子を翔太と遊ばせてあげるのは私ひとりじゃどうにもできないから……」

 優子はぐすっ、とすすり泣いている。

「もちろん。約束するよ。有栖ちゃんも、いつでもうちにおいで」

 有栖ちゃんはすこしだけ嬉しそうな顔で、こくこくと頷いた。


 それから、六年間の話をしているうちに、日はとっくに暮れていた。仕事でこんなことがあったんだとか、大学時代のふたりの先輩だった誰それが結婚したとか、六年で変わっていった周りの話は、五時間ちょっとでは一向に尽きる気配もない。そのまま夕食も食べて行くことにして、もう少しだけ話した。



「今日はそろそろ帰るか」

 もう二十時をとっくに回っている。

「え。久々に〇時一分の電車に乗れると思ったのに」

「有栖ちゃんもいるんだから早く帰らないと。それに明日も仕事でしょ」

「そうだけど……。始発乗りたいし……」

「まだ言ってたんだそれ。なんでそんなに中野始発に乗りたいの?」

「座れるし……」

「座るって言っても高田馬場で乗り換えでしょ? ……まあいいけどさ」

 時刻表を調べる。

「えっと……。あ、土日の一九時以降はぜんぶ中野始発らしいよ。始発乗れるじゃん」

 優子はまだ不満そうだったが、俺の説得にしぶしぶ折れて帰り支度をはじめた。

 会計を済ませて店を出れば、駅は目と鼻の先だ。五分もしないうちにホームまで辿り着いた。当駅始発の東西線はまもなく出発いたします、というアナウンスが鳴る。

「気を付けて帰りなよ」

「今日はありがとう。楽しかったよ」

「お、おう。有栖ちゃんも気を付けて帰ってね」

 バイバイ、と手を振ったところで発車ベルが鳴る。そそくさと電車に乗り込む二人の後ろ姿を見送って、俺は反対側にやって来た電車に乗り込んだ。



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