第2話 麓の温泉
半日ほども歩いただろうか、ミリエルとリトが断崖の麓近くまで来る頃には日も傾き、空も暗くなり始めていた。
断崖に近づくに連れて山の影で暗がりが増え、麓の様子が分かりづらくなってきたので、二人は松明に火を着けた。
「そろそろ今夜一晩を過ごす場所を決めないといけないな」
松明を持って前を歩いているリトが言った。
「そうだな」
ミリエルは彼の斜め後ろから着いてきている。
空は曇っているのだろう、月が全く見えないため松明の光だけが頼りだった。
リトは松明を高く掲げて周囲を照らしながら見回し、
「松明だけじゃろくに見えねえな。月が出てればなぁ……月明かりのありがたさが身に染みるぜ」
と、独り言のようにつぶやいた。
「もう少し先まで見えてくれたら…
…ん?」
リトは立ち止まって前方に目を凝らした。
「これは……煙か……?」
松明が照らす狭い空間に煙りのようなものがたなびいているのが見えた。
すると、後ろにいたミリエルがハッと息を吸いこむのが聞こえた。
「これは……!」
そう言いながら、リトを追い越したミリエルは足早に断崖の方向に向かっていった。
「おい、ミリエル、どうしたんだよ?」
リトも足を早めてミリエルを追っていこうとした。
すると、
「ん……?なんか匂うな……」
と、リトが空気中に漂う匂いに気がついた。
「なんだか卵が腐ったような……」
リトが顔をしかめる。
「硫黄の匂いだ」
前方からミリエルが応える。
「硫黄?なんで硫黄が……」
「ああぁぁ…………!」
と、ミリエルが低く叫ぶ声が聞こえた。
「どうしたミリエル!」
ミリエルにしては珍しい、というより冷静沈着が服を着て歩いているような彼女の叫び声に驚き、リトは一気に警戒を強め彼女に駆け寄ろうと踏み出した。
「ああぁぁ……やっと……!」
ミリエルがため息混じりにそう言いながら屈みこむ姿が松明の灯り越しに見えた。
「どうしたんだ、ミリエル!具合いでも悪いのか?」
普段とは違うミリエルの様子に不安を覚えたせいか、リトも普段のおちゃらけた態度が消し飛んでしまい、表情や口調からもミリエルを深く案じているのが明らかだった。
「そうではない、これだ」
しゃがんだミリエルが指差したのは松明の灯りがキラキラと反射している水溜まりだった。そして水面には湯気がたっている。
「それは湯気か?ってことは……」
リトが言うとミリエルが後を継いだ。
「そう、水ではなく湯だ。温泉だ!温泉だぞ!!!」
ミリエルは胸の前で手を組み合わせ、まるで神に祈りを捧げるがごとく、目を閉じ歓喜の表情で湯気が立ち上っていく夜空を仰いだ。
「これが温泉ってやつか。話には聞いたことがあるが実際に見るのは初めてだな」
リトは温泉の泉の縁で松明を掲げた。広さは差し渡し10歩ほどだ。
リトは
「あちっ!風呂としちゃ、ちと熱いな」
「それは私にまかせろ」
そう請け負うとミリエルは右手をまっすぐ上にあげた。
「氷!」
すると空中に拳ほどの大きさの氷がいくつも現れ、ミリエルが上げた手をサッと下ろすと湯溜まりに落ちていった。
「これでどうだ?」
ミリエルが問うとリトが湯に、今度は慎重に、手を入れてみた。
「うん、ちょっと熱めだけどいいんじゃないか?」
すると、それまでずっと曇っていた空が晴れ、ほぼ満月に近い月が現れた。
「おお!月が出てきたぞ」
リトが歓喜の声を上げ、
「それじゃ、月見風呂といくか」
と言いながら、リトは早くも服を脱ぎ始めた。
「ば……ばか、いきなり脱ぎ始めるな!」
あわててミリエルが制止する。
「ん?」
リトは脱ぎ始めた手を止めてもの問いたげにミリエルを見た。
「ああ、そうか。こういう時はレディファーストだな」
そう云うとリトは服を脱ぐ手を止めて、腕を組んでミリエルをじっと見つめた。
「なんだ?」
眉根を寄せるミリエル。
「いや、ミリエルが温泉に入ってる間、俺がしっかり見張っていてやろうと思ってな」
リトはわざとらしい真剣な表情で言った。
「不要だ」
落ち着いた表情で素っ気なく応えるミリエル。
「いや、そうは言ってもだな……どんな危険があるかわからないし、俺がこの目でしっかりと……」
「不要だと言っている」
リトにすべてを言わさずにミリエルがさっと手を振ると、地面から蔦が現れてリトの手足だけでなく、体から顔までがんじがらめにした。
「ぬお、なんてことするんだぁぁーー!これじゃ何も見えないじゃないかぁぁーー!」
鼻と口を除いて蔦でミノムシのようにされたリトが訴えた。
「しばらくそうしていろ」
そう冷たく言い放ってミリエルは手をもう一振りしてリトの口も蔦で覆い、ゆっくりとローブを脱ぎ始めた。
「……モゴモゴ……」
リトはなにか言いたげだったが口を塞がれてはどうしようもなかった。
温泉に浸かりながらミリエルは月明かりに照らされた周囲を見渡した。
温泉は荒野を囲む断崖の麓に位置していた。昼間に遠くから見たときには分からなかったが、こうして近くで見ると麓には低木が生えており、全くの不毛の地というわけでもないことが分かった。
予言書にあった森なんてどこにあるのかと思っていたが、麓にたどり着いた時、断崖に狭い峡谷があるのが松明の灯り越しにぼんやりと見えた。
(あの峡谷を抜けていけば境界の森とやらに行けるのかもしれないな……)
困難ではありそうだがなんとか歩いて進めなくもなさそうだ。
とはいえ、ミリエルは湯に浸かりながら、断崖の隙間とも言える狭い峡谷を辿る行程の困難さを考え暗澹たる気持ちになった。
(まあ、仕方ない。予言書に書いてある以上はやらないわけにはいかないのだから)
温泉で
「ぷはぁーー……まったくひどいことをするなぁ、ミリエル」
緩まった蔦を体から引き剥がしながらリトが言った。
「さっさと湯に浸かって汚れと疲れを落としてこい」
と、何事もなかったかのようにミリエルが言った。
「私が野営場所を探して準備をしておいてやる」
「おお、夕飯を作ってくれるのか?」
「精霊の木の実だ」
「そうか……そろそろ温かい食事が欲しいところだけどな」
「贅沢を言うな。食材もないのに何が作れるというのだ」
「それもそうだな。まあ、森とやらに行けば何かみつかるんじゃねえか?」
「であればいいがな」
「まあ、なんとかなるさ」
そう言いながらリトが湯に飛び込む音がひびいた。
そしてミリエルは、月明かりを頼りに一晩の野営ができそうな場所の物色を始めた。
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