第7話・厨房にて3
時計が15時近くを指しつつある頃、ようやく調理場には少しのゆとりが生まれ始めていた。
前菜、点心のひたすら長かった伝票はようやく5分の1程になったし、ひたすら鍋を振り続けていた花形達は、額の汗をタオルで拭えるくらいである。
ようやくひと段落か…。厨房内の誰もがそう思った。もちろん、それは精鋭達に指示を飛ばし、自らも鍋を振ったり料理を運んだりしていた谷原も例外ではない。
「よし、渡!」
「はいっ!!」
ようやく最後の一玉になったタァ菜を切っていた渡は、手を止めて大声を張り上げた。
「はいっ、じゃねえよ、こっち来い!!」
「はい!!」
もしかして怒られるのか!?びびりながら、渡は自分の中華包丁を慌てて手放し、走り寄る。傍から見れば熊とリスくらい違う気迫。
おもむろに、谷原はコックコートの胸元ポケットに手を入れると、渡に何枚かの紙幣を手渡した。
「これで全員分の飲み物買って来い」
「飲み物、ですか?どんなの買えば良いんでしょうか」
調理場の出入り口には、従業員用の自販機が何台か置いてある。谷原がそこで買え、と言っているのだろうことは判ったが、こんな事は初めてだった渡の思考は固まる。
ただでさえ、今日の谷原には怯えっぱなしだったので、谷原を前にして頭が飽和状態になっている。実際、動きが遅いと何度か蹴りも貰っていたのだ、無理もない。
「てめえで考えろ、こういうのはな、センスだセンス!」
「そうだぞ渡。てめえが気の利く奴かどうかこれで判るんだからな」
殺気だっていたのが少し和らいでる藤村が、蝦と野菜を炒めながら口を挟む。
「え、と、でも…」
「いいからちゃっちゃと行って来いや。蹴りあげんぞ!」
「すません!行ってきますッ!!」
まごつく渡に、谷原は蹴るポーズを取る。悲鳴のようなそれを上げて、渡は紙幣を握りしめて走った。
まだまだ厨房慣れしていない見習いを気配だけで見送って、谷原は藤村にだけ苦笑いを見せる。
「どうしようもねえな」
「しゃーねーッスよ」
応えながら、出来あがった蝦と野菜の塩炒めを皿に盛る藤村。
少しのゆとりが出てきた厨房に、谷原はやや落ち着いた声で語りかける。
「今は客席が埋まってるが、もう少ししたら一斉に空くからな。気ぃ引き締めて行けよ」
「オッス!」
今朝程の張りつめた空気ではない男達の声。一山を超えた所で、気が緩みつつある時だ。
「中島。夜の宴会の準備、今の内にしとけ。俺が代わる」
「ウッス」
ここまで花形のサポートとして、作る料理の食材を揃えてはデシャップに花形まで回させ続けていた中島は、少しホッとした顔を見せた。
「川瀬、やんぞ!気合いれろ!!」
「了解ッス!!」
1、2、3、5階、計4フロアある黄龍飯店の心臓である調理場。客席にいるホールスタッフからハンディーによって届くオーダーは、少しは流れが緩やかになったものの、それでも止まる気配など無い。
今のこの一時を終えたら、夕食時がやってくる。細々した予約はすでに入っているし、予約なくやって来る客も、予約客と同じ位、例年を考えれば来るはずだ。
そうして、5階フロア貸切の大宴会も並行して行わなければならない。それに向けてのエネルギーを得るにはこのタイミングだと谷原は見ていた。
「渡が飲みモン買って来たら、飯食える奴は今の内になんでも腹に入れとけ!オーダーミスの料理は洗い場ンとこに置いてある。中島、ついでにカレーも火にかけとけ!!」
「今火にかけてます!」
「さすがじゃねえか中島ァ!いいか野郎共ォ!へばってんじゃねえぞ!!」
「オオォ!!」
谷原の雄叫びにカレーの匂いが混じり、精鋭達はようやく腹が減っていることに気が付いたくらいだ。
彼らには、他の食事を作りながら自分の食事を考える時間すらない。ので、食べられるのは昨日大量に作っておいたカレーである。
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