Episode 12-22 誰がために

 ヘルムートの供廻りの仕事を終えてから、三日後。


 その日又三郎は、ナタリーと二人で教会の礼拝堂の清掃をしていた。庭の方からは、子供達が駆けまわり遊ぶ賑やかな声が聞こえてくる。


 脚立に登ったナタリーは毛ばたきを手に、女神像をそっと撫でて埃を払い落としている。女神像の背丈は又三郎よりも頭二つ分ぐらい高く、礼拝に訪れた信者達を慈しみの目で見降ろすような姿をしていた。これまで又三郎が目にしたことのある数々の仏像などとは異なり、女神像はより人に近い姿形で作られていた。


 礼拝者用の木製の長椅子を拭き上げていた又三郎は、ふとその手を止めてナタリーに尋ねた。


「ナタリー殿、一つお尋ねしてもよろしいか」


「はい、何でしょうか?」


 毛ばたきを動かす手を止めたナタリーが、にこやかに笑った。


「少し前に、ティナ殿と話をしていたことなのだが……本来はジェフ殿のように、正式な祭司が礼拝の務めなどを果たされるそうだが、現在はナタリー殿がその代役を担われている。いずれは新しい祭司殿が、この教会に来られるのだろうか」


 又三郎の問いに、ナタリーが不思議そうに首を傾げた。


「どうして急に、そんなことをお聞きになられるのです?」


 水を汲んだ桶に雑巾を浸して洗い、水を絞りながら又三郎が答えた。


「いやなに、もしもそうなった時には、それがし達の生活もこれまでのようにはいかぬのではないかと、ティナ殿と話をしていたものでな」


 ナタリーは少しの間、その言葉の意味を測りかねていたが、ややあってからようやく又三郎が言わんとしていることに気が付き、呆れたように被りを振った。


「それはマタさん達の考えすぎです。確かに街の神殿からも、この教会の祭司の扱いをどうするかについて時々話はされますが、新しい祭司の方をお迎えするつもりはありませんよ」


「では、ナタリー殿が新たな祭司になられるのか」


 又三郎の言葉に、ナタリーが小さく頷く。


「子供達のこともありますし、私はそのつもりなのですが……その為には三月みつき程の間、神殿で神の教えについて色々と学ばなければなりません。その間は私も勉学に専念する必要がありますから、この教会を空けることになってしまいます」


「ふむ」


「その時には、街の神殿のどなたかに祭司の仕事をお願いすることになりますが……その方に、子供達の世話までをお願いする訳にもいきません」


 そう言うと、ナタリーはやや気まずそうに苦笑した。


「そこで、いずれはマタさんにご相談願いたいと思っていたのですが……その間マタさんには、子供達の側に居ていただけたらなって考えていたのです」


 又三郎は手にしていた雑巾をかたわらに置くと、腕組みをして考え込んだ。


「まあ、その程度はお安い御用だが……そうなると、先立つものが少々不安になってくるな」


「ええ、まあ……でも、ここ一年程の間にマタさんやティナから多くの寄進をいただいたことで、何とかそのための蓄えも出来てきました。これもマタさん達お二人のおかげです、本当にありがとうございます」


 そう言ってナタリーは、深々と頭を下げた。だが、その拍子にナタリーは脚立の上で不安定な姿勢になり、足元の脚立がぐらりと揺れた。


「えっ、あっ、きゃっ!」


 又三郎が声をかける間もなく、ナタリーはその場にどさりと倒れ込んだ。


「大丈夫でござるか、ナタリー殿」


 慌てて駆け寄った又三郎が差し出した手を取ったナタリーは、打ち付けた腰の辺りをさすりながらゆっくりと立ち上がった。


「あいたたた……すみません、お恥ずかしい姿を見せてしまいました」


「なに、気になされることはない。痛みが引くまで、しばし休んでおられよ」


 又三郎はナタリーの手を引いて長椅子に座らせ、毛ばたきを手に取ると脚立の上に登った。又三郎の背丈をもってすれば、女神像の頭部は目線とほぼ同じ高さにあった。


「わあ、やっぱりマタさんは背が高いですね」


 ナタリーが笑顔で小さく両手を叩く。又三郎は少女のようなその仕草に苦笑しながらも、一つ咳ばらいをして言った。


「ところで、その、何だ……それがしの故郷くにでは、御仏に仕える身の者はその生涯を独り身で過ごさなければならないという教義があったのだが、エスターシャ殿にお仕えする者達も、はたして同様なのだろうか」


 何ともしかつめらしい顔で毛ばたきを動かす又三郎に、ナタリーが微笑して答えた。


「いいえ。そもそもエスターシャ様は豊穣を司る女神です。その教えに従う者達の婚姻を祝福することはあっても、それを否定することなどはあり得ません」


「ふむ……では御仏の教えとは異なるということか」


「えっと……ミホトケと言うのは、マタさんの故郷ふるさとの神様のことですか?」


 困惑するナタリーに、又三郎は毛ばたきを気ぜわしく動かしながら、曖昧に頷いた。


「それにしても、何故そのようなことをお尋ねになられたのですか?」


 毛ばたきを動かす又三郎の手が、ぴたりと止まった。


「先日ジル殿から、そなたの縁談のことをお聞きした」


「……はい?」


「お相手は見目も良く、なかなか裕福そうな若者だったように思えたが」


「えっと、あの……ひょっとして、どこかで見られちゃっていましたか?」


 耳まで真っ赤になったナタリーに、又三郎はぎこちなく笑ってみせた。


「あの話はですね、えっと、ジルさんに頼まれて仕方なく……」


 しどろもどろな様子のナタリーをよそ目に、又三郎は再び毛ばたきを動かし始めた。


「相手の若者がそなたを見初めたという話だったらしいし、それがしの目から見ても、なかなかの良縁ではないかと思うのだが」


「……ちょっとマタさん、本気で怒りますよ」


 又三郎を見上げるナタリーの目が、みるみる険しいものになっていった。そのあまりの気迫に押され、又三郎は思わず脚立の上でたじろぐ。


「そりゃあ、あの人は見た目もハンサムでしたし、なかなかのお金持ちだったみたいですけれども、私はあんな人とは絶対に結婚なんかしません!」


「それはまた、どうして?」


 恐る恐る尋ねた又三郎を、ナタリーがきっ、と睨み付ける。


「だってあの人、私のことだけでなく子供達のこともきっと幸せにしてみせるから、なんて言うから、どうするのかって尋ねたら一体何て答えたと思います?」


「……」


「自分がお金を出して、子供達が安心して暮らせる孤児院に入れるから、って言ったんですよ? 自分にはお店の商いのこともあるし、それが最善の策だとか何とか言って……あんまりにも腹が立ったから私、その場で言ってやったんです。私は私や子供達をような人とは結婚しません。私や子供達と一緒に、この教会で暮らしてくれる人とじゃないと絶対に嫌ですって」


 当時のことが余程腹に据えかねたのか、ナタリーは一気にまくしたてるように言った。そして、ややあって自分が発した言葉の意味にふと気が付き、思わず頬を染めて視線を逸らした。


「それはまた、何とも大変だったようでござるな」


「……」


 二人の間に、長い沈黙が流れた。


 しばらくの後、又三郎は脚立から降りて毛ばたきを置くと、ナタリーの隣へ静かに腰を下ろした。


 ナタリーが視線を逸らしたまま、小さな声で呟いた。


「何ですか?」


「……」


「そんなに黙ってばかりいないで、何とか言って下さい」


「……そうだな、では」


 又三郎は再び咳払いをし、ぼそりと言った。


、それがしが手を挙げてもよろしいか?」


「……はい?」


 余りにも突然の出来事に、ナタリーは呆気に取られた目で又三郎を見た。目の前の又三郎が、小さく笑った。


無貌むぼうを名乗る神の悪戯いたずらでこの世界に流され、ここ一年ほどの間に多くの出会いと別れを目にしてきた……その中でそれがしは、己の立ち位置が分からず、過ちを犯したことが何度もあった」


「……」


「その度に、己の歩んできた道を振り返ってみたが……どうしてもそれがしの心から離れなかったのは、この教会で助けられ目覚めた時に初めて見た、そなたの笑顔だった」


「えっと、あの」


 あたふたと戸惑うナタリーをよそに、又三郎は立ち上がって女神像を見上げた。


「この世界における『自分の生きる意味』は何なのか、がためにおのが剣を振るうのか……その答えが、最近になってようやく得られたように思う」


 先日酒場でシャーリィに「貴方に足りないただ一つのこと」と言われた光景を思い返しながら、又三郎はナタリーへと振り返り、出来るだけ平静を装って言った。


「ナタリー殿、そなたのことを心から愛おしく思う……それがしと、夫婦めおとになってはもらえないだろうか」


 深く澄んだ湖水のような目が、じっとナタリーを見つめていた。


 しばらくの間呆然としていたナタリーは、その言葉の意味にようやく気が付くと真っ赤な顔でうつむき、やがて蚊の鳴くような声でぽつりと言った。


「……はい、喜んで」

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