Episode 12-23 春の風に吹かれて

 ナタリーと夫婦めおとちぎりを交わす約束をしてから、一週間ほどがたった。その間、又三郎の周囲では更にいくつかの出来事があった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 七日に一度の教会の礼拝日。午前の礼拝が終わったところで、又三郎はジルに呼び止められた。


 開口一番、ジルがぼそりと呟くように言った。


「あの子から話は聞いたよ、おめでとうさん」


「うむ……まあ、そのような運びとなり申した」


 やや気恥しそうに、又三郎は頭を掻いて答えた。ジルの飼い犬が何やら嬉しそうに尻尾を振りながら、元気よくワンと鳴いた。


「まあ、ようやくってところだね。これでアタシも、後押しをしてみた甲斐があったというものさ」


 穏やかな笑みを浮かべたジルに、又三郎が尋ねた。


「あ、いや……その話の筋で行けば、むしろジル殿は縁談の話が流れて、骨折り損だったということにはならぬのか?」


 ジルは少しの間、じっと又三郎を見ていたが、やがて小さく息を吐いて被りを振った。


「馬鹿なことをお言いでないよ……アタシはあの子のことを、生まれた時から知っているんだよ? あの子の性格のことだって、よく分かっているつもりさ。あの子が今回の縁談を断ってくることだって、当初のアタシの予想通りじゃったよ」


「では何故なにゆえに、ナタリー殿に縁談の話を持ち掛けられたのか?」


 不思議そうに首を捻る又三郎の姿に、ジルが小さく鼻を鳴らした。


「アタシが背中の後押しをしたのはあの子のことじゃなくて、アンタの方さ。アンタ、今回みたいなことがなければ、これからもずっと変わらないままでおったじゃろう?」


「それは」


 言葉に詰まった又三郎に、ジルが言葉を続ける。


「あの子は一見大人しそうに見えて、あれで結構好き嫌いがはっきりとしていてね。アンタのことを気に入っていなければ、アンタは早々に教会を追い出されていたさ」


「……」


「それにしたって、ジェフが亡くなってからというもの、あの子があんなに嬉しそうな顔をしているのは見たことがなかったよ。あの子のこと、しっかり面倒を見てやっておくれよ」


 それだけ言い残すと、ジルは飼い犬を連れてゆっくりとした足取りで去っていった。又三郎はただ茫然と、その背中を見送った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「そうですか。それはおめでとうございます」


 ややしどろもどろになりながら、ナタリーとの顛末てんまつについて語った又三郎に対するイザベラの反応は、いつもと全く変わらなかった。


 一方、近くにいた耳ざとい男の冒険者達の何人かが、満面の喜色を浮かべてみせた。時折姿を見かけたケイトという名の受付嬢の姿は、今は見えない。


「それで、本日はどのようなご用件で?」


 カウンター越しに淡々と言葉を発するイザベラに、又三郎は懐から自らの認識票を取り出して言った。


「これはもう、必要が無くなってしまった。どうかお納め願いたい」


 実は冒険者ギルドへ立ち寄る前に、又三郎は衛士詰所でミネルバと会っていた。


 突然の来訪にミネルバは当初困惑していたが、街の衛士になるにはどうすれば良いのかと尋ねると、彼女は喜々としてそのための手続きについて教えてくれた。


 これらは全て、ナタリーと二人で話し合って決めたことだった。


「認識票の返納、ということですね……承知いたしました」


 イザベラは又三郎が差し出した認識票を受け取り、代わりに一枚の書類をカウンターの上に差し出した。


「こちらが当ギルドにおける登録抹消のための届出書です。各種必要事項へのご記入をお願いします」


 又三郎は言われたままに筆を取り、書類に必要事項を書き入れていく。その様子を眺めながら、イザベラがぽつりと言った。


「マタサブロウさんにはとても良いことですが、当ギルドにとっては、なかなかの痛手ですね……とても残念です」


 一瞬目線を上げた又三郎が、小さく笑った。


「まあ、そう言っていただけるのは大変有難い」


「マタサブロウさんのように、人柄がしっかりしていて腕が立つという人は、そうなかなかおられないのです……それに、先日の夕食の約束も果たされずじまいになりそうですし」


 思いも掛けなかったイザベラの一言に、又三郎は危うく手にした筆を滑らせそうになった。


「……あの話、本気だったのでござるか?」


「ほんの少しだけ、ですが」


 イザベラの口元が、心もちほころんだように見えた。


「私もナタリーさんにお会いしていなければ、もう少し期待をしていたかも知れませんけれど?」


「……イザベラ殿、からかうのは止して下され」


 渋面と共に又三郎が差し出した届出書に目を通し、内容に不備が無いことを確認したイザベラが柔らかく笑った。


「登録抹消の届出につきまして、確かに受理致しました。マタサブロウさんに関する当ギルドでの記録は、規則により今後一年間保存されます。この期間内であれば、当ギルドにおける再登録も可能となっておりますので……では、これまで数々の依頼をお引き受けいただき、誠にありがとうございました。またのご愛顧を、心からお待ちしております」


 イザベラの言葉には、まるで万感の思いが込められているようでもあり、一切の感情が排除された、ひどく事務的なもののようにも聞こえた。


 又三郎は姿勢を正し、静かにイザベラへと一礼した。


「ああ、こちらこそ色々と世話になった。感謝いたす」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 花束を手にした又三郎が街の共同墓地を訪れると、そこには先客がいた。


「あら、マタサブロウ。こんにちは」


 振り返ったジーナが、まぶしそうな目で又三郎を見た。その姿は、単調な景色が続く場の中に、まるで一輪の大きな華が咲いたようだった。


 辺りには他に人影が見えない。又三郎は気まずそうに、小さく頷いた。


「ああ、先日は色々と世話になり申した」


「うふふ……ところで、今日ここに来たのはどうして? いつも来てくれている日とは違うと思うのだけれども?」


 ジーナの問いに、又三郎はしばしの間言葉を発することが出来なかった。


「うむ……誠に急な話なのだが、実はそれがし、この度所帯を持つことになり申した」


「……」


「今日はウェンリィ殿に、その報告をするつもりで参った。ジーナ殿にも一度挨拶に伺おうと思っていたのだが、まさかここでお会いできるとは思ってもおらなんだ」


 ジーナは小さく息を飲み、しばらくは無言のままだったが、やがて優しい笑みを浮かべて頷いた。


「そう、そうだったの……それは良かったわね、おめでとう」


 その語尾は、微かに震えていた。少しの間、二人の間に沈黙が続いた。


 その沈黙を破って、又三郎が静かに言った。


「ジーナ殿には、色々と迷惑をかけてしまったな」


「……駄目よ。どうか謝らないで、マタサブロウ」


 ジーナは右手でそっと又三郎の左肩に触れ、静かに被りを振った。


「貴方の幸せは、私の幸せ……全く辛くないといえば嘘になるけれども、ようやく貴方の心の迷いが晴れたというのなら、私もとても嬉しいわ」


 ジーナのその言葉は、又三郎の胸の内を小さく抉った。又三郎はかたわらの小さな墓石に目を向け、呟いた。


「ジーナ殿も……ウェンリィ殿と同じことを申されるのだな」


「えっ?」


 ジーナが小さな驚きの声を上げた。又三郎の言葉の語尾もまた、微かに震えていた。


「お二人のご厚意に報いるすべを持たない、己の身を恨めしく思う」


 そう言って背を向けた又三郎にかける言葉を、ジーナはなかなか見つけ出すことが出来なかった。


 その代わりに、ジーナは又三郎の背中にそっと己の身を寄せた。又三郎の背中が、微かに震えた。


「貴方が謝ることなんて、何もないのよ……貴方の大切な人を、どうか幸せにしてあげて」


「……」


「そして、私やあの子ウェンリィのことを、どうか忘れないで……時々で良いから、また顔を見せてね。約束よ」


 そう言い残したジーナは静かに身を離し、優雅な足取りでその場を去っていった。しばらくの間、又三郎はただその場に立ちつくしていた。


 やがて又三郎は手にしていた花束を、静かに墓前へと供えた。目の前の墓石と二つの花束が、少し滲んで見えた。辺りに全く人影がなかったことが、今の又三郎にはとても有難かった。


「そなたにも、本当に世話になった……心から感謝いたす」


 ようやく絞り出した言葉は、弱々しい鼻声になっていた。


 目の前の墓石が、言葉を返すことは無い。又三郎は目元をぐいと指で拭い、目を閉じて両手を合わせる。


 それから、どれぐらいの時間がたったのだろうか……又三郎は目を開け、合掌を解いた。


「また時々、そなたに会いに来る」


 墓石をそっとひと撫でした又三郎は、背中を丸めるようにしてその場を後にした。柔らかい春の香りを乗せた一陣の風が、その背中を優しく押すように吹き抜けていった。

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