Episode 12-17 醜態

 又三郎がヘルムートの供廻ともまわりに就いて、四日目の朝。


 固いベッドの上で目覚めた又三郎は、目の前に見える天井の風景に思わずはっとなり、慌てて身を起こした。その瞬間、ずきりと頭に痛みが走った。


 これまで何度も夢に見た、この部屋の風景。昨夜の酒が、どうやらまだ残っているらしい。鈍く痛む頭を微かに振りながら、又三郎はようやく自分が今いる場所を思い出した。


 細長く狭い部屋の中には、酒精アルコールの匂いが充満している。部屋に唯一ある小さな窓を開けて、朝の新鮮な空気を部屋の中に入れると、頭にかかったが幾分晴れてきた。


 部屋の空気の入れ替えが終わったところで又三郎は窓を閉め、ベッドの上を整えると傍らに立てかけていた大小の刀を腰に差して部屋を出た。あいにく手拭の持ち合わせがなかったので、洗顔は諦めた。


 「夢の狭間亭」の朝は、ほとんど人影が見られない。従業員のほとんどが、まだ眠っている時間帯だ。一階の酒場に降りたところでようやく女を一人捕まえ、ヘルムートはどこにいるだろうかと尋ねてみたところ、又三郎の顔を見てクスリと笑った女からは、おそらくターシャの部屋にいるのではないかとの答えが返ってきた。馴染みの上客が来店した時に、ターシャは相手を自室へと招き入れて談笑することがある。


 のっそりとした足取りでターシャの部屋の前に向かうと、扉の向こうから聞き覚えのある剛毅ごうきな笑い声が聞こえてきた。部屋の扉をゆっくりと二度叩くと、中からターシャのくぐもった声が聞こえた。


「開いてるよ、入っておいで」


 又三郎がターシャの部屋に入ると、そこにはターシャとヘルムートの他に、ジーナの姿があった。ターシャは憮然とした表情で、ヘルムートは苦笑をかみ殺したような表情で、それぞれこちらを見ている。


 思ってもいなかった組み合わせの面々に又三郎が呆然としていると、ジーナが柔らかい笑みを浮かべて言った。


「あら、マタサブロウ……おはよう」


 ジーナの平服姿を目にするのは初めてだったが、薄い化粧を施し、長く艶やかな黒髪を後ろで束ねたその姿は、どことなく彼女の妹分ウェンリィによく似た優しい雰囲気をたたえていた。


「ああ……おはよう、でござる」


 ぼんやりとその場に立ちつくす又三郎の様子に、ジーナは困ったような笑みを浮かべてソファから立ち上がると又三郎の側へと歩み寄り、又三郎の襟元に白く細い両手を伸ばした。


「もう、マタサブロウったら……貴方、ネクタイが緩んでいるわよ」


 おそらくは昨夜眠っている時、無意識のうちで襟元に手を掛けていたのだろう。鏡すら見ることなく部屋を出てきた又三郎だったが、仮に服装の乱れに気が付いたところで、そもそも今の衣装の着付け方を知らなかった。


 ジーナは又三郎の首元にぶら下がる襟締ネクタイの緩みを手早く正し、その襟元を右のてのひらで優しく二度ほど撫でると、ターシャとヘルムートに一礼して部屋を出て行った。


 その様子を見ていたターシャは憮然とした表情を崩して思わず苦笑し、ヘルムートは部屋中に響くような声で呵々大笑かかたいしょうした。


「何とも良き身分じゃな、マタサブロウよ。まるで初々しい夫婦めおとのようなやり取りじゃて」


「ヘルムート殿、からかうのは止して下され」


 ヘルムートの大声が、ずきずきと頭に響く。又三郎は右のこめかみの辺りを右手で押さえながら、そっと被りを振った。ターシャがいぶかしげに尋ねた。


「何だいアンタ、ひょっとして二日酔いかい?」


「……昨日口にしたとかいう酒が、まだ少し残っているようだ」


「やれやれ、だらしないねぇ……アンタ、いろんな意味でご主人様の爪の垢でも煎じて飲ませてもらうべきだね」


 呆れて被りを振るターシャの様子を見た限り、昨夜彼女が見せた怒りはどうやら治まっているようだ――むしろ何やら、こみ上げてくる笑いを必死にこらえているようにすら見える。


「ところで……お三方はここで一体何の話をされていたのか?」


 陰鬱いんうつそうな又三郎の問いに、ヘルムートが唇の端を歪めて笑った。


「そりゃもちろん、お前さんの未熟さを皆で笑っておったところよ」


「……」


「お前さんは何とも、生真面目を通り越して愚直に過ぎるきらいがある。我が息子コンラートよりも、更にたちが悪い。もうちょっとこう、己のこだわりを捨てて、他者の心の機微きびにもっと目を向けるべきじゃな」


 ヘルムートの言葉に同意するかのように、ターシャが小さく鼻を鳴らした。


「全くだよ。アンタのご主人様がいきな男だったから良かったようなものの……」


「……」


「でもまあ、アンタもあれからちょっとは変わっていたってことなのかね」


 何もかも見透かしているかのような目で、ターシャが唇の端を上げた。又三郎はヘルムートに尋ねた。


「ところでヘルムート殿、朝食はもう済まされたのか?」


「ああ、さっき軽く喰わせてもらった。なかなかに美味かったぞ、お前さんも喰わせてもらうか?」


「いや、食欲がござらん……で、今日のご予定はどうなされる?」


「そうじゃのう、まずは一度屋敷に戻って衣服を改めようか……って、お前さん、何をそんなに慌てる必要がある?」


 又三郎の意図を見透かしたヘルムートの笑みを横目に、ターシャがくくっと喉を鳴らした。


「まあお互いに、いつまでもこうしているって訳にもいかないしねぇ……それじゃあ二人とも、気が向いたらまた顔を出しておくれよ。ただし」


 最後にターシャは、じろりと又三郎を睨んだ。


「アンタ、次に昨日の晩みたいなことをやらかした時には、絶対に許さないからね。そこのところ、よく覚えておきな」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 コンラートの屋敷へと戻る馬車の中、どんよりとした目つきで窓の外を眺めていた又三郎へ、ヘルムートが不意に言った。


「紳士道の勉強として、お前さんにひとつ教えておいてやろう」


「……何でござるか?」


 やや青ざめた顔でゆっくりと振り向いた又三郎に、ヘルムートはニヤリと笑った。


「こればかりは女子おなごの前で指摘するのも気の毒じゃったから、さっきは言わなんだが……女子の手の甲に口づけする時には、実際に唇をつけるものではないぞ?」


「……は?」


 呆気に取られて目を丸くしている又三郎を横目に、ヘルムートは言葉を続けた。


「元々あの作法は、騎士が自らの仕える女に対する敬愛や忠誠心を示すためのもの。挨拶として行う時には唇はつけず、差し出された相手の手を取って、その甲に口元を寄せるだけで良い」


「……」


「あと、相手の手を自ら取って行うというのは、本来であればマナー違反じゃ。まあ、騎士でもない儂は、その辺りのことはあまり気にしとらんが」


「……もしも唇をつけてしまった場合は?」


 恐る恐る尋ねた又三郎に、ヘルムートは再びニヤリと笑った。


「それぐらいは、己の頭で考えてみよ……まあ、あの娘の先程の様子を見ておれば、結果はおのずと分かろうものじゃが」


 又三郎は己の顔を右の掌で被い、小さく呻き声を上げた。三人が一体どのような話をしていたのか、考えたくもなかった。


 ヘルムートが喉を鳴らして笑う。


「儂の上っ面だけを見て真似などするから、かような醜態をさらすのよ。男として、もっと精進せい」


 又三郎はげんなりとした顔で、再び窓の外へ視線を向けた。それからしばらくして、馬車はようやくコンラートの屋敷へ到着した。


 ややおぼつかない足取りで、又三郎は馬車から降りた。颯爽さっそうと前を歩くヘルムートが、出迎えに出てきたくだんの年配の女中に言った。


「湯浴みと新しい服の準備を頼む。マタサブロウめは二日酔いじゃ、薬を出してやってくれ」


 年配の女中は又三郎の顔を一瞥いちべつして微かに眉をしかめると、ヘルムートに一礼して歩き出した。その後ろをふらふらと、痛む頭を抱えながら又三郎が続く。


「マタサブロウさん、何ともはしたないお姿ですよ」


 屋敷の廊下を歩いている途中で、年配の女中が低い声で不機嫌そうに言った。又三郎は顔をしかめながら、呻くように尋ねた。


「一体何のことでござるか」


 彼女の言葉が二日酔いのことを指しているというのであれば、先日のヘルムートの様子などは、ほぼ泥酔に近かった。それでも彼女は、ヘルムートの様子に苦笑はして見せたものの、今のように眉をひそめたことは無かった。


 女中が深いため息と共に言った。


「せめて洗顔ぐらいは、きちんとなさって下さいまし。今朝お目覚めになられてから、ご自身のお顔をご覧になられましたか?」


 その言葉の意味が分からず、又三郎は与えられた部屋に戻ると、壁に掛けられていた鏡で己の顔を見た。


 目を凝らさないと気付かないほどうっすらとではあるが、左の頬に赤い口紅の跡があった。又三郎はぼんやりと、昨夜の酒の席でのことを思い出す。


 ターシャ殿やヘルムート殿のみならず、ジーナ殿にまでしてやられたか――又三郎が頭を抱えたのは、何も頭痛のためだけではなかった。この醜態を見られたのがごく一部の者達だけであったことが、又三郎にとっての不幸中の幸いだった。

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