Episode 12-16 今日と明日の狭間で

 深夜、もうすぐ日付が変わろうとしている頃のことだった。


 辺りはしんと静まりかえり、暗闇がただ広がる中、一番奥の扉の隙間から漏れる灯の光だけが微かに見えている。娼館の女達が寝起きする私室が居並ぶ廊下――又三郎がこの廊下を歩いたのは、過去に一度しかなかった。


 廊下を行き来して何度か逡巡しゅんじゅんした後、又三郎はようやくその扉の前に立った。そしてゆっくりと、静かに、その扉を三回叩いた。


「どなた?」


 叩いた扉の向こう側から、ひそやかな誰何すいかの声が聞こえた。


「それがし、にてござる」


 扉の向こう側で人が動く気配がして、ややあってわずかに扉が開いた。扉の隙間の向こう側では、丈の長い薄紫色の寝間着に身を包んだジーナが又三郎を見上げていた。


「本当に、来てくれたの?」


 ジーナが小さな驚きの声を上げた。


「このような夜分やぶんに相済まぬ。もし差し支えがなければ、もう少しだけ話をする時間をいただけないだろうか」


 目の前には、ジーナの豊かな胸元が見える。小さく咳ばらいをしながら、又三郎はついと視線を逸らした。


「……ええ、もちろんいいわ。さあ、中に入って」


 ジーナが静かな笑みを浮かべて、扉を開き又三郎を部屋へと招き入れた。


 初めて見たジーナの部屋は、思っていたよりはこじんまりとした造りだった。だが、過去に手紙の代筆のために訪れた他の女達の部屋はそのほとんどが相部屋で、調度品の類もそれほど多くは無かった。


 それに比べれば、この部屋には落ち着いた上品な造りの調度品が並び、壁沿いには大きめの本棚がいくつかあって、そこには様々な大きさや色表紙の本が数多く収められている。微かに甘い香りが漂うその場所は、まるで寝室兼書斎のような造りの部屋だった。


「まさか本当に来てくれるなんて、思ってもいなかった」


 又三郎に文机の椅子を勧めたジーナは、自らは女性用の華やかな造りのベッドに腰を下ろした。


「それで、話っていうのは?」


 ジーナが軽く首を傾げて微笑んだ。先程の酒の席の時とは、随分と雰囲気が違う。長く艶やかな黒髪を下ろしたジーナの寝間着姿は、大人の色気が漂う赤いドレス姿の時に比べると、まるでうら若い少女のようにも見えた。


「先程の酒の席で、そなたに尋ねられたことの答え……実はそれを、ずっと考えていた」


 興味深そうな雰囲気をたたえた美しい濃褐色の瞳が、じっと又三郎を見つめている。そのことに若干の気まずさを感じながらも、又三郎は言葉を続けた。


「同じ問い掛けをウェンリィ殿にされた時、それがしには答えるすべが無かった。だが、今は……迷ってはいるのだろうが、彷徨さまよってはおらぬ。それが答えだ」


 しばしの間、ジーナは黙って又三郎を見つめ続けていた。


「迷っているっていうのは、どうして?」


「そうだな……口にするのもお恥ずかしい限りだが、今まで目を背けてきたものに向き合うというのは、とても難しいことだからなのだろう」


 そう言って自嘲気味に笑う又三郎に、ジーナが更に尋ねた。


「その話をするために、わざわざ私の部屋に来てくれたの?」


 又三郎の視線が、一瞬床へと落ちた。


「ああ……今まで目を背けてきたものと、きちんと向き合うために」


「それは一体、どういう意味?」


 又三郎は再び視線を上げ、ジーナを見た。自分を見つめる深く澄んだ湖のような目に、ジーナは一瞬心を奪われた。


「自分自身からは逃げられない……ウェンリィ殿との最後の夜、はそう思っていた。だが、そう口にしながらも俺は、ウェンリィ殿と向き合うことから目を背けていた。それは自分自身から逃げていることと同じだということに、あの時の俺は気付けなかった」


「……」


「今、そなたのことに背を向けてしまっては、同じことの繰り返しだ……これで万が一、そなたの身に何かがあれば、きっと悔やんでも悔やみ切れなくなる。あの時のような思いをするのは、もう二度と御免だ」


「……それは一体、どういう意味?」


 自分が同じ質問を繰り返していることに、ジーナは気づかなかった――だが、己の頬が徐々に熱くなっていることだけは、はっきりと自覚していた。


「それがしが、そなたを幸せにすることは出来ない……だが、それがしはそなたにも、ぜひ幸せであって欲しいとは思う。その幸せの形が、どのようなものかまでは分からぬが」


 ぽつりぽつりと語る又三郎の言葉に、ジーナは思わず頬を染めながら、ねたようにぷいと横を向いた。


「それが久々にお店に来てくれたのに、他の客へ私をあてがった人の言う台詞なのかしら?」


 又三郎は一瞬ばつが悪そうな顔をし、ややあって頭を掻きながら苦笑した。


「我があるじ殿の希望は、『この街で一番女子おなごと遊べる店へ連れていけ』だったからな。雇われの身である手前、主殿の希望は叶えなければならなかった。それがしも嘘を付く訳にはいかない」


「それって」


「だが、主殿が自らの希望を自ら放棄されたというのであれば、そこから先はそれがしも好きにして良いのではないかとも思った……それがしが今宵そなたの部屋に邪魔したもう一つの理由は、それだ」


 薄暗がりの中で頬を赤く染めたまま、ジーナは呆然とした表情で又三郎を見つめていた。又三郎は慌てて言葉を続けた。


「いや別に、そなたのことを好きにしたいなどといった意味ではないがゆえ、誤解の無きように……ただ」


「……ただ、何?」


 ジーナの問いに、又三郎は微かに笑った。


「そなたは先程、随分とそれがしのことを気にかけてくれたが……本当に埋めなければならないのは、そなたの心の隙間なのではないかとも思ってな」


 その言葉を聞いて、ジーナは思わず自分の口元に右手の甲を当て、小さく息を飲んだ。


「そなたもウェンリィ殿と同じく、性根の優しい女子だ。だが、誰かの心を癒すことは数多くあれども、誰かに心を癒されることが一体どれだけあるのか」


「……」


「まあ、それがしに出来ることなど、たかが知れてはいるのだが……そなたの心の隙間を埋めることが出来る何かを、それがしは持ち合わせているだろうか?」


 そこまで口にした又三郎は、ジーナの様子を見て激しく動揺した。


 ジーナは膝の上で両の拳を握りしめ、俯きながらその拳の上にぽたぽたと涙をこぼしていた。ジーナは声を震わせながら言った。


「貴方って本当に酷い人……全く、何なのよ一体」


「……」


「中途半端に女に夢を見させて、身勝手なことばかり言って……男として最低よ、貴方」


「……そなたの言う通りだな、相済まぬ」


 又三郎は小さく息を吐いて立ち上がると、部屋の扉の方へと足を向けかけた。


「待って」


 ジーナが又三郎を呼び止め、素早く駆け寄るとその背中に己の身を寄せた。見た目は細身なのに、意外にも分厚くて広い又三郎の背中に、ジーナはその胸の内で驚いた。


「……一度でいいから、抱きしめてキスして欲しい」


 蚊の鳴くような声で、ジーナが又三郎の背に呟いた。しばしの後、又三郎はゆっくりと振り返り、ジーナの目をじっと見据えた。


「相済まぬが、抱擁については致しかねる。だが、口づけであれば」


 又三郎はジーナの右手を手に取ると、片膝をついて一礼し、その手の甲にそっと唇を寄せた。ジーナの手の甲からは、僅かに彼女の涙の味がした。


 ただ呆然と立ち尽くすジーナに、立ち上がった又三郎はやや気まずそうな笑みを浮かべて言った。


「我が主殿の見様見真似だ、これが紳士とやらの作法の一つらしい……といっても、これを街中で堂々と行う主殿の神経は、いささか信じがたいところがあったが」


「……」


「他にそれがしに出来そうなことと言えば……そうだな。もしもそなたの身に危険を感じるようなことがあれば、いつでもそれがしを呼ばれるが良い。エスターシャという女神を奉る街はずれの教会に、それがしはおり申す」


 そう言い残すと、又三郎は目礼してジーナの部屋を後にした。


 一人部屋に残されたジーナは、又三郎が姿を消した扉の方を見つめながら、己の右手の甲を撫でるとそっと唇を寄せ、気恥ずかしげに微笑みながら小さく呟いた。


「マタサブロウ……貴方って、本当に酷い人ね」

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