Episode 12-15 男の粋
不機嫌そうな表情の若い女に案内され、又三郎は部屋の扉を開けて中に入った。
そこは異様なほど縦に細長い造りの部屋で、簡素なベッドと小さなテーブルだけが置かれていた。部屋の一番奥の壁には、小さな窓が一つ設けられていて、そこから微かな月明かりが漏れ入ってくる。
女に渡された
部屋の外からは、いつかの日と同じように男女の笑い声が聞こえてくる。見上げた天井に微かに見える染みの一つ一つまでもが、何とも懐かしかった。
「ここで反省しろ、とな」
ターシャの言葉を思い返し、又三郎はぼそりと呟いた。この部屋こそ、以前に又三郎がこの店の用心棒として勤めていた時に与えられていた部屋であり、ほんのわずかなすれ違いで死なせてしまった娘と初めて出会った場所だった。
狭い部屋の中を見渡した限り、掃除は行き届いているようだったが、誰にも使われていないようにも見受けられた。又三郎と入れ替わりで怪我から復帰した前任の用心棒は、どうやらこの部屋を使っていないらしい。
夕食は早めに済ませていたので、腹は減っていなかった。テーブルの上の手燭の炎が、一瞬ゆらりと揺らめいた。
又三郎はその視線を、天井から部屋の扉へと移した。薄暗い灯りの中に見えるその扉は、今でも時々夢に見る光景そのものだった。
その夢の中では、部屋の扉が遠慮がちに叩かれ、その後にはどうしても忘れようの無い、優しい笑みを浮かべた娘の姿が遠慮がちに現れて――。
その時、不意に部屋の扉を叩く音が聞こえた。いつかの日と同じで聞き覚えのある、遠慮がちに扉を叩く音。
又三郎は
「……誰だ」
又三郎は、己の胸が早鐘のように打つのを感じていた。絶対にあり得ないことだが、どうしても考えずにはいられないたった一つのこと――。
ゆっくりと、部屋の扉が開いた。
「……マタサブロウ?」
扉の向こうに立っていたのは、赤いドレスを身にまとった黒髪の女だった。
「ジーナ殿か」
又三郎は溜めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「ごめんなさい、驚かせちゃったかしら?」
「いや、何でもない……それよりもジーナ殿、どうしてここに?」
ターシャの話では、ジーナは今夜一晩、ヘルムートと一緒にいるはずだった。今の時間帯に彼女がこの部屋を訪ねてくるというのは、どうにも
ジーナはやや気まずそうな笑みを浮かべながら、おずおずと言った。
「ちょっと色々とあって、ね……ねぇマタサブロウ、下でお酒でも飲みながら、少しお話ししない?」
又三郎をじっと見つめるジーナの目は少し赤く、どことなく悲しげに見えた。又三郎はしばしの間沈黙していたが、ややあって小さく頷くとベッドから降りて部屋を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
おそらくは又三郎達がこの店を訪れてから、まだ半刻(一時間)と少しぐらいしか経っていない。この店にとっては、まだまだこれからが稼ぎ時であった。
一階の酒場には、何人かの男女の姿があった。又三郎はジーナに
カウンターを挟んだ向こう側には、黒を基調とした制服に身を包んだ、痩せた背の高い男が立っていた。この娼館では非常に数少ない、男の従業員だ。
男の背後の棚には、色とりどりの酒瓶がずらりと並んでいた。二人の前にやってきた男が、ジーナに尋ねた。
「何になさいますか?」
「そうね、ヘレナの赤をお願い。マタサブロウ、貴方は?」
軽く首を傾げたジーナに、又三郎は小さく被りを振った。
「済まないが、こちらの酒のことはよく分からない」
「そう……じゃあ、彼には何か良いものを選んであげて」
男は無言のまま頷き、酒を用意するために一時背を向けた。それから程なくして、男は深い赤色の液体が半分ほど注がれたワイングラスと、透明な琥珀色の液体が三分の一ほど注がれたやや小さめのグラスを二人に差し出した。
「ブランデーね。強いお酒よ、少しずつ飲むといいわ」
ジーナはそう言うと、赤い液体の入ったワイングラスに口をつけた。彼女の白く細い喉がかすかにこくりと動いたのが、何とも煽情的だった。
又三郎は目の前に差し出されたグラスを、ただじっと見つめていた。
「私ね……今日はとても大きな失敗をしちゃった」
ワイングラスをそっとカウンターに置き、独り言のようにジーナが呟いた。
「貴方が連れてきたあのお客さん……あの人、部屋に入るなり私にこう言ったの。『お前さん、儂の連れとは知り合いなのか』って」
「……」
「
「……」
「私、そこから先は何も言えなくなって、その場で思わず泣いちゃった……そうしたらあの人、すぐに貴方のところへ行ってこいって言って、お金だけ置いてさっさと別の女の子のところに行っちゃったの。私、あの人にとても悪いことをしちゃった」
又三郎はゆっくりと顔を上げてジーナを見た。揺らぐ濃褐色の瞳が、じっと又三郎を見つめていた。
「今夜貴方がこの店に来てくれて私、とても嬉しかったわ。本当よ?」
「……」
「でも、
又三郎は目の前のグラスを手に取り、軽く口を付けた。
初めて飲んだブランデーは、又三郎の喉を焼くようにして胃の腑に滑り落ちていく。慣れない酒にむせそうになるのだけは、辛うじて
「実はね……私、ずっと貴方に言いそびれていて、そして聞きそびれていたことがあったの」
ジーナは目の前のワイングラスを見つめながら、小さく笑った。
「あの子が亡くなった日の朝、あの子は泣きながら笑って私にこう言ったの……『マタさんはまるで、餓えて彷徨う狼みたいな人だ』って」
琥珀色の液体が入ったグラスに添えられていた又三郎の指が、微かに動いた。
「とても心が餓えていて、行く宛てすら定かでない彷徨う狼……でも、誰かが差し出したものは、それがどれほど上等な肉であっても決して口にしない。これが普通の犬だったら喜んで尻尾を振って、差し出された餌を食べてくれるのにって」
「……」
「その言葉を聞いて、私が最初に貴方に
「それがしは、そなたが気に掛ける価値のある男ではござらんよ」
又三郎がぼそりと、呟くように言った。本心だった。
「それは貴方が決めることではないわ……あの子が、そして私が自分の意思で決めたこと」
ジーナは再びワイングラスに口を付け、その中身を一口含んだ。
「貴方は本当に、真っすぐに私達を見てくれる人。そして不器用なほどに、全てにおいて真っすぐな人……貴方のそういうところが、ずっと貴方のことが気になっていた理由なのかも知れないわね」
「……」
「そしてこれは、ずっと貴方に聞きそびれていたことなのだけれど……貴方、あれから誰かを好きになれるようになった?」
いつか交わした言葉のことを思い出し、又三郎は再びジーナを見た。
じっとこちらを見つめるジーナの目は、
「とても悔しいけれど、いっそのこと貴方が貴方の大事な人と結ばれてくれれば、こんな辛い思いをしなくても済むのにって思うわ……でも、肝心の貴方があの時から何も変わっていないというのであれば、私の心も宙に浮いたまま」
「それは」
「貴方って、本当に酷い人」
ジーナはまだ半分以上中身の残ったワイングラスをそっとテーブルの奥へと滑らせ、テーブルの向こうの男に「ごめんなさい、ごちそうさま」と言った。
席を立ったジーナは又三郎に寄り添うと、そっと又三郎の左手に己の左手を重ねた。甘い香水の香りが、又三郎の鼻腔をくすぐる。
「今夜の私の時間は、あの人が全て買い取ってくれたわ。でも、肝心の買い主さんが他の女の子のところに行っちゃったから私、今夜はずっと一人きり……こんなこと、私も初めての経験よ」
「……」
「同情や哀れみ、余計な気遣いなんかは要らないわ。でも、貴方が今も餓えたまま、ずっと彷徨い続けているというのなら……私がその心の隙間を、少しでも埋められるというのなら」
ジーナは又三郎の耳元に口を寄せ、静かに
「私の部屋は、貴方がここにいた時と変わっていないわ」
最後にジーナは、又三郎の左頬に口づけしてその場を去っていった。
周囲にいた男女は皆、息を飲んでそのやり取りを見つめていた。カウンターの向こうの男だけが、無言のままカウンターの奥に並べられているグラスを順番に磨き続けていた。
又三郎は目の前のグラスの中身を、ぐいと一気に飲み干した。まるで喉が焼けるかのように痛かったが、それでもぐっと我慢して目を閉じ、天を仰ぐ。
ややあって、酒代の支払いを済ませようと又三郎が懐に手を伸ばすと、それまで無言を貫いていた男が静かに被りを振った。
「当店の主からは、貴方へのサービスの代金は一切受け取らないようにと言われております」
「……そのような心遣いをしていただくほどの価値は、それがしにはござらん」
又三郎が口にした酒の代金は分からなかったが、とりあえず銀貨を四枚カウンターの上に置いて、又三郎はよろよろとふらつく足取りでその場を後にした。
ウェンリィのこと、ジーナのこと、ナタリーのことを、又三郎はぼんやりとした頭で順番に思い返した。そして最後に、一月ほど前に姿を見せた
己の在り方が、己の関わった全ての者達と繋がっている――暗い部屋の中で見上げた天井は、酷くぼやけて見えた。
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