Episode 12-11 紳士道

 ヘルムートの供廻ともまわりを始めてから、二日目。


 この日は五の刻(午前十時)頃にコンラートの屋敷を出て、モーファの街の散策に出ていた。ヘルムートはモーファの街の景気がどのようなものかを知っておきたいと言い、朝市や商店街を歩くことになった。


 前日その取扱いについてひと悶着があった金の件については、結局ヘルムートが直接預かるという形でけりが付いた。屋敷に戻ってから聞いたところによると、やはりあの金は商会の金などではなく、父の滞在費としてコンラートが自らの懐から工面したものだったらしい。


 ヘルムートはそのことについて特段何も言わなかったが、又三郎が事情を話すとコンラートは酷く恐縮し、大変面倒をかけたと又三郎に何度も詫びを述べた。


 又三郎にしてみれば己の筋を通しただけのことだったので、わざわざ詫びを言われるほどのことでもなかったのだが、コンラートの人の良さにほとほと感心するとともに、その苦労性にいささか同情もした。


 一方のヘルムートはと言えば、そのことで別段恐縮する様子もなく、ごく当たり前のように金を受け取って平然としている。その様子には又三郎も若干思うところがあったが、これはあくまでも親子二人の問題であり、一介の雇われの身で口を出すようなことでもないだろうと言葉を飲み込んだ。


 だが、それ以上に又三郎が閉口したのは、ヘルムートの女性に対する態度であった。


 と言っても、別にこれといって態度が悪いというわけではない。街中で自分がと思った女性に、誰彼構わず手当たり次第に声を掛けるのである。


 歳は取っているものの、見目はそれほど悪くもなく身なりも紳士然としているため、ヘルムートに声を掛けられた方はそれほど悪い顔をしないことがほとんどだった。


 とはいえ、ヘルムートはあちらこちらの女性を茶や食事に誘おうとしているものの、今のところその誘いに応じる者は誰一人としていなかった。それでも平然としている辺りは、ある意味大したものだと言えなくもない。


「ヘルムート殿、今は市場の様子を見に来たのではござらぬのか」


 つい口を挟んだ又三郎を振り返り、ヘルムートはいかにも心外そうな顔で言った。


「もちろん、ちゃんと見ておるわい……だが、それはそれ。この街の市況の観察も大事じゃが、男子たるもの女子おなごには、きちんと目を向けてやらねばならん」


 又三郎は思わずため息をついた。


「それがしが知る『士道』には、そのような事柄はなかったのだが……」


「馬鹿もん、これだから遊び心を知らん堅物は困る。これは『紳士道』というものじゃ、男の義務じゃ」


 胸を張ってそううそぶくヘルムートの様子に、いささか呆れ果てた又三郎の背中を、聞き覚えのある声が呼び止めた。


「あら、誰かと思えばマタさんじゃないですか。お久しぶりです」


 振り返るとそこには、ともの女中を伴ったバルゼイ商会の娘シンシアの姿があった。


「いつものお姿とは違ったので、最初は分かりませんでしたが……そのお姿も、とても凛々しくて素敵ですよ」


 そう言ってにこやかに笑うシンシアに、又三郎は苦笑を返すことしか出来なかった。その横からヘルムートが又三郎の脇の辺りを肘で突き、小声で尋ねた。


「おい……誰じゃ、この別嬪べっぴんさんは?」


「それがしにとって初めてのご依頼人の娘御で、シンシア殿でござる」


 やや口ごもりながら又三郎が答えると、ヘルムートは姿勢を正し、優雅な一礼でシンシアに声を掛けた。


「初めまして、美しいお嬢さん。私はヘルムート・ベルティと申す者です、以後どうぞお見知りおきを」


「これはどうも、ご丁寧な挨拶をいただきありがとうございます。私はシンシア・バルゼイと申します……って、失礼ですが、ひょっとしてベルティ商会のゆかりの御方ですか?」


 流石に商家の娘であれば、ベルティ商会の名は知っていたらしい。シンシアが、美しい新緑色の瞳をやや見開いて尋ねた。


「我が商会の名をご存じで、誠に光栄の至りです。いかにも私めがでございます、レディ」


 再び慇懃いんぎんに一礼するヘルムートに、シンシアは呆気に取られたような顔で又三郎を見た。


「えっと、マタさん、こちらの御方は……」


 ヘルムートが一瞬、じろりと又三郎を見た。どのように答えたものかと又三郎は悩んだが、悩むより先に口が勝手に開いた。


「うむ、今のそれがしの雇い主で、ベルティ商会のだ」


「まあ、そうでしたか。ベルティ商会の皆様には、私の父が日頃から大変お世話になっております」


 そう言って頭を下げたシンシアの様子に笑顔で頷きながら、ヘルムートがさらりと言った。


「ところでシンシアさん、もしお時間があるようでしたら、この私めとお茶でも一杯いかがかな? この度お近づきになれたのも何かのご縁、よろしければもう少しお話など伺いたいものですが」


 シンシアはきょとんとした表情でヘルムートを見ていたが、側にいた女中が陰でそっとシンシアのそでを引いているのが見えた。又三郎がシンシアに尋ねた。


「そう言えば、ぴあの、だったかの……例の習い事は、まだ続けておられるのか?」


 するとシンシアは、ほんのりと頬を染めて被りを振った。


「いえ、もうピアノの習い事には通っていないのです……実は二月後に、とある方の元へととつぐことになっておりまして」


「ほう、それはまた何ともめでたい」


 又三郎はやや大げさに手を打って声をあげ、その様子をヘルムートが横目でちらりと見た。


「もうすぐ嫁がれるとなると、今は色々とお忙しいのではなかろうか」


「うふふ……実はこれから、婚礼の準備で少し買い物に行くところだったのです」


 嬉しそうに笑うシンシアに、ヘルムートは三度みたび頭を下げた。


「これは大変失礼いたしました。そのようなお忙しいところを呼び止めてしまいまして……お茶はまた、次の機会にでも。シンシアさん、どうぞお幸せに」


「はい、ありがとうございます。それでは失礼いたします」


 シンシアも優雅に一礼を返して、その場を立ち去った。去り際にシンシアの女中が、又三郎に小さく笑って頭を下げたのが見えた。


 又三郎が思わず安堵のため息をつく横で、ヘルムートが不機嫌そうに言った。


「……マタサブロウよ。お前さん、一体儂を何だと思っとるんじゃ?」


「何、と言われると?」


 そらとぼけてみせた又三郎を、ヘルムートは横目でにらんだ。


「だいたいお前さんの考えていたことは分かっとったが……流石にあのような孫みたいな娘にまで手を出すほど、儂は落ちぶれてはおらんぞ?」


「……」


「見目麗しいレディには間違いなかったし、お前さんと男二人で延々と街中を歩いてばかりいるのもつまらんから、茶でも飲みながら少し話をと思った程度だと言うのに……あんな露骨に警戒しおってからに」


 まあ、あと十ほど歳がたっていたら、その時はその時で考えものじゃったが――そう呟いたヘルムートの様子に、又三郎は頭が痛くなった。


「ヘルムート殿は、ジャニス殿達のをされていると伺ったが……」


 疑わしげな目を向けられたヘルムートが憤慨ふんがいした。


「阿呆。あの二人は儂の孫みたいなもんじゃ、そんな目で見るか!」

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