Episode 12-10 年の功

 十の刻(午後八時)の頃、又三郎はカリムの家の扉を叩いていた。


 家の窓から明かりが漏れていたので、家のあるじが在宅中であることは確認できていた。程なくして、低い誰何すいかの声が聞こえてくる。


「こんな時間に、どなたかな?」


「カリム殿、夜分に相済まぬ。それがしでござる」


「おう、マタサブロウか。少し待て」


 扉の向こうで何やらバタバタと音がする。それからしばらくして、ようやく玄関の扉が開いた。


「久しぶりだな、こんな時間に……っておい、どうしたその恰好は?」


 玄関先に出てきたカリムは又三郎の姿を上から下まで眺めて目を丸くし、続いて小さく噴き出した。


「今の仕事着でござる」


 又三郎が、憮然ぶぜんとした表情で短く答えた。


 又三郎が身に着けていたのは、黒を基調とした細身の男性用正装だった。黒の背広に灰色の洋袴ズボン、足元には黒く光る革靴が見て取れた。背広の下には灰色の胴着ベストを身に着けていて、その下の白い襯衣シャツの襟元に着けた灰色の襟締ネクタイが、いかにも窮屈そうに見えた。何よりも可笑しかったのは、無理矢理に巻いたであろう腰の帯に差した大小の刀だった。そのいずれもが、昼食後にヘルムートの指示で立ち寄った衣装店で揃えてもらった衣装である。


「お、おう……そうか、まあとりあえず中に入れ」


 こみあげてくる笑いを必死にこらえながら、カリムは又三郎を家の中へと招き入れた。


 カリムが応対に出てくるまでに少し時間があったのは、慌てて家の中を片づけていたからなのだろう。以前に見舞いで訪れた時に比べると、幾分部屋の中が散らかっている。炊事場には、洗われていない食器や空の酒瓶などがちらりと見えた。


 手土産の酒瓶を受け取ったカリムは、又三郎に椅子へ座るよう勧めた。


「それにしても……何やらお主も、随分と苦労しているようだな」


「……」


「まあこのように、むさい男の独り暮らしの家だ。そう肩肘を張らず、少しぐらいネクタイを緩めてみてはどうだ?」


 苦笑いしながらカリムはそう勧めたが、又三郎は窮屈そうに被りを振った。


「下手に服装をいじれない、この服の着付けがさっぱり分からぬ」


「まあそういうことであれば、無理にとまでは言わんが……それにしても、お主のいつもの服装はかなり独特だと思っておったが、あれはあれでお主に似合っておったんだのう」


 又三郎がじろりと睨むと、カリムは気まずそうに言葉を濁した。


「で、こんな時間にわざわざ儂のところへ来ると言うのは、また何かあったのか?」


「実は此度こたびも、カリム殿の御知恵をお借りしたくてまかり越した」


 そう言うと又三郎は、現在の自分の仕事の内容と、カリムの元を訪れた理由を簡潔に述べた。


「つまりはお前さん、その何とかいう爺さんの街での案内役をしているものの、爺さんが望む行き先への案内が分からずに困っていたという訳か」


 カリムが腕組みしながら、小さく唸った。


 事実、又三郎のその日の仕事が思いのほか早く終わったのは、ヘルムートが希望した行き先への案内がほとんど出来なかったためだった。呆れたヘルムートが「時間をやるから、一旦情報収集でもしてこい」と言って、又三郎の供廻ともまわりの任を一時解き、自身はさっさとコンラートの屋敷へと戻ってしまったのだ。


「誠にお恥ずかしい限りだが、よろしくご教示願いたい。この街に住んで長く、世事せじにも長けた方をと考えた時、カリム殿以外には思い浮かばなんだ」


 正確にはもう一人、ロルフに尋ねることも考えなくはなかったのだが、又三郎はこの街におけるロルフの居宅を知らなかった。あるいは仮に知っていたとしても、徒党で行動しているロルフのことなので、街の外での依頼のために家を留守にしている可能性が高いとも思われた。


「そりゃまあ、儂の知っていることであれば、教えるのはやぶさかではないが」


「それは有難い。では、現在のところヘルムート殿が行ってみたいと申されている場所についてなのだが」


 又三郎がヘルムートの希望する行き先を述べたところ、カリムは微妙に渋い顔をした。


「……困ったもんだ。よほどの遊び人だな、その爺さんは」


 そうは言いながらも、カリムは又三郎が提示した条件の案内先のことごとくをすらすらと教えてくれた。その話はまるで立て板に水を流すかのようで、又三郎は思わずカリムに尋ねずにはいられなかった。


「カリム殿……教えていただいた場所の数々には、ご自身は行ったことがあられるのか」


 カリムは一瞬返答に詰まったが、やがて意味ありげな笑みを浮かべて答えた。


「長年男なんて生き物をやっているとな、そりゃ色々なものを見てくるもんさ。世事にうといお前さんにとっちゃ、今回の爺さんの相手をするのは、案外いい勉強になるかも知れんて」

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