Episode 12-9 犬と狼の違い
ヘルムートは意気揚々と商館を出たが、そこでふと立ち止まり又三郎を振り返った。
「マタサブロウよ、この近くで美味い飯を食わせてくれる店はどこじゃ?」
又三郎は少しの間考え、答えた。
「相済まぬが、それがしもこの辺りの地理には
事実、同じモーファの街中でも商館の一角を歩くなど、又三郎にとってはジェニスと連れ立って散策をした時以来のことだった。
ヘルムートが、さもつまらなさそうに言った。
「なんじゃい、使えん奴じゃのう。ならええわい、適当にその辺りを歩いてみて、適当な店に入ってみようぞ」
そう言うとヘルムートは、再びすたすたと歩きだした。聞いていた年齢の割には、歩く速度が速い。ぼんやりとしていると、又三郎も置いて行かれそうになる。
随分と癖の強そうな爺さんだな――又三郎は心の内でそうぼやきながら、ヘルムートに尋ねた。
「ところで、ヘルムート殿。そなたは何故、それがしを
少し前を歩いていたヘルムートが、振り返ってじろりと又三郎を見た。
「何故そのようなことを聞く?」
「それがしはそなたと面識がござらぬ。そのような中で突然のご指名をいただき、それがしもいささか困惑しておりまする」
「……」
「だが、今朝方のヘルムート殿の話しぶりを聞いた限り、そなたはそれがしのことを、どなたかからお聞きになられていたようだった」
「ふむ……先程の呆けようを見た限り、儂もちと不安になったものじゃったが、どうしてなかなか周りをよく見ておる」
ヘルムートが唇の端をゆがめて笑った。
「お前さん、一月ほど前にジャニス・コールのボディーガードをしておったそうだな」
「は、確かに」
「儂はあの二人の
その言葉を聞いて、又三郎はようやく自分が指名されたことへの
「それでまあ、お前さんがどれ程の男なのかと思って少しは期待しておったのじゃが……まさか美味い飯の店一つも知らんとはのう」
「それについては、全く返す言葉もござらぬ。面目ない」
又三郎は頭を下げたが、ヘルムートは特段気にする様子でもなく、再び視線を前方へと向けた。
「まあええわい、行き当たりばったりでその場を楽しむというのも、物見遊山の
ヘルムートはそう言って、商館が立ち並ぶ筋を一本外れた通りに面した、一軒の店を指さした。
そこは立派な店構えをした高級料理店で、おそらくは商館街の商人達が商いをまとめる際に利用するような場所なのだろう。少なくとも又三郎にとっては、生涯縁がなさそうな店だった。
昼食の時間はとっくの昔に過ぎていたが、店の表にはまだ「商い中」の看板が出されていた。ヘルムートは又三郎のことを気にするでもなく、ふらりと店の玄関をくぐっていった。
「お客様、大変申し上げにくいのですが……」
呼び止められた理由は、どうやら又三郎の恰好にあるようだった。この店に入るためには、店側が予め指定した服装でなければならないらしい。
「おい、マタサブロウ。何をもたもたしておるのか」
先に入店していたヘルムートが、やや苛立った様子で店の玄関まで戻ってきた。そして、又三郎と店の者とのやり取りのことを知って、大きなため息をついた。
「やれやれ、お前さんは本当に面倒臭い男じゃのう」
そう言ってヘルムートは店の者に向き直ると、握った右の拳を突き出して言った。
「このひとときだけでよろしい、お前さん達の店の流儀を儂に買い取らせよ。このような場所で店を構えておるのだ、こいつの意味が分からん訳でもあるまいて」
店の者はしばらくの間、じっとヘルムートの右の拳を見つめていたが、ややあって丁重に頭を下げると、又三郎を店の中へと招き入れた。
二人が案内されたのは、店の中でも一番奥にある個室の一室だった。
「ヘルムート殿……先程はいかような
豪華な造りの室内をしげしげと眺めながら、又三郎が呆然と呟いた。
「なに、呪いなんてものではないさ。ほれ」
ヘルムートがおもむろに突き出した右の拳には、鮮やかな銀色に輝く一つの指輪が見て取れた。その指輪には宝石がついておらず、分厚く大きな円形の台座には何かの紋章が刻まれている。
「儂の印章じゃよ。印章に刻まれているのは、我がベルティ商会の紋章じゃ」
商会のロビーで番頭風の男が「印章の押印を」と言っていたのは、どうやらこの指輪のことであったらしい。
「それにしても、お前さんのその恰好は何とかせんといかんな。ドレスコードでいちいち店の足止めを喰らっているようでは、この先も面倒臭くてかなわん。儂が適当に見繕ってやるから、後で衣裳店へ案内せよ」
「はあ、分かり申した」
それからヘルムートは、手慣れた調子で店の品書きを一瞥し、次々と料理を注文していった。一方の又三郎は、品書きの中から肉の煮込みとパンだけを選んだ。
「何じゃ、それだけしか喰わんのか? 支払いのことなら気にせんでもよいぞ、好きなものを頼め」
なみなみと中身が注がれたワイングラスを手にしたヘルムートが、けしかけるように又三郎に言った。
「それがしはあくまでも、ヘルムート殿の供廻りでござる」
「そんなつれないことを言うな。これでレディが一緒ならば、お前さんのことなど別にどうでも良いが、今はお前さんしか相手がおらんからの」
そう言ってヘルムートは又三郎に品書きを差し出したが、又三郎はそれを固辞した。
「どうにもお前さんは、つまらん男じゃのう。コンラートの奴めと一緒じゃ」
さもつまらなさそうにワインを一口含むと、ヘルムートは目の前に出された前菜とスープに手を付け始めた。又三郎も自分の目の前のパンに手を付けながら、ヘルムートに尋ねた。
「そう言えば、コンラート殿はご自身のことを、ヘルムート殿の七番目の妻の長男だと申しておられたが、そなたには一体何人の奥方がおられるのか?」
前菜とスープをぺろりと平らげたヘルムートが、こともなげに答えた。
「先立った正妻と三人の
「……それはまた何とも、男
絶句する又三郎に、ヘルムートが小さく鼻を鳴らして笑った。
「男として生まれたからには、世の良き女子達を抱いてなんぼのものじゃろうて。儂は己の才覚で妻達や子供達を養ってきた、誰にも不自由な思いはさせとらんつもりじゃよ」
半ば呆れたように、又三郎が呟いた。
「そのことについて、正妻殿は何も言われなんだのか」
「リュクレーヌのことか、あれは誠に
再びワインを一口含み、ヘルムートが
「時折やきもちを焼くところなど、また何とも可愛い女じゃったのう……じゃが、儂のすることは大抵笑って済ませてくれた、とても度量の広い女じゃったよ」
「……」
「リュクレーヌの長男ジョゼフに、今は王都での店の差配を任せておる。母親と同じく度量の広い、良く出来た息子じゃよ」
次々と運ばれてくる料理に順番に手を付けながら、ヘルムートが言葉を続けた。
「それに比べるとコンラートの奴は、どうにも生真面目で人が好過ぎる。まあそれはそれで、母親のアデリーヌと同じ長所でもあるのじゃが、商いの
「人には誰しも、向き不向きがござる。コンラート殿に、ヘルムート殿と同じことが出来る訳ではござるまいて」
ようやく運ばれてきた肉の煮込みに手を付けながら、又三郎がぼんやりと言った。赤ワインで煮込んだという肉の味は、これまで又三郎が口にしたことの無い不思議な味だった。
「何を言うておるか。人生はただ一度きり、楽しめる時に目一杯楽しまんでなんとする?」
食事に舌鼓を打ちながら何気なく口にしたヘルムートの言葉は、意外にも又三郎の心の奥底に突き刺さった――無貌の手によって二度目の生を受けた自分にとって、人生を楽しむとは一体どのようなものなのだろうか?
それからしばらくの間、二人は無言で食事を続けた。ヘルムートは歳の割にかなりの健啖家らしく、並べられた料理の数々を次々と平らげていく。
又三郎が随分先に食事を終えていたが、ヘルムートが最後のデザートに手を付け始めたところで、店の支払いのために
店の者に尋ねたところ、支払いは全部で金貨五枚だという。昼食の代金として、又三郎には見たことも聞いたことも無い金額だった。
それでも、あらかじめ渡されていた金で支払いを済ませ、商会で番頭風の男に言われた通りに店の名前と支払いの用途、金額を書いた証書をヘルムートに見せたところで、ヘルムートが眉をひそめた。
「何じゃい、これは?」
「先程商会を出る前に、店の者から預かったものにてござる。ヘルムート殿の支払いを行う際には、この証書にそなたの自署か、印章の押印を貰うようにと言われておりまする」
又三郎の言葉を聞くと、ヘルムートの表情はみるみる不機嫌なものになっていった。
「コンラートの奴め。そういういちいち細かいところが、遊び心が足りんというのだ」
「……」
「あれはあれなりに儂の手間を減らそうなどと考えて、お前さんにそんなことを言ったのじゃろうが……全く、しょうがない奴だ」
そう言って苦笑したヘルムートは、テーブルの上に置かれた証書を又三郎の方へ突き返すと、とんとんと人差し指でテーブルを叩いてみせた。
「そんな面倒臭い証書など、見たくもないわ。あれから金を預かっているというのであれば、さっさとここに出せ。儂が預かった方が話が早い」
又三郎は即答した。
「相済まぬが、それは致しかねる」
「……何じゃと?」
「それがしが預かりし
ヘルムートの顔からすっと笑顔が消え、その瞳の奥に剣呑な光が宿った。
「お前さん、この儂を
ヘルムートの言葉には、静かな怒気が含まれつつあった。目には見えない圧力のようなものが、みるみる辺りに広がっていく……おそらくはこのようなところが、コンラートが父親に強い畏敬の念を抱く理由なのだろう。
又三郎は突き返された証書を、再びヘルムートの前へと滑らせた。
「そなたがどこの誰であろうと、それがしには一切関係がござらん。それがしはコンラート殿との約束を守るまでのこと。不服であれば屋敷に戻られた後で、コンラート殿と直接話をして下され」
「……」
「さあ、自署か押印か、どちらかをよろしくお頼み申す」
しばらくの間、二人はにらみ合うような形になったが、やがてヘルムートが顔面を右の
「やれやれ、こいつは参ったわい。これはジェニスの言うとった通りじゃな」
又三郎がその言葉の意味を計りかねていると、ヘルムートはややくぐもった笑いを続けながら言った。
「この儂を前にして、よくもまあそれだけの
ヘルムートは目の前の証書を右手の指でつまみ、ひらひらと振って見せた。
「犬は餌で飼える、人は金で飼える……どちらも大抵は、飼い主の顔色を伺うものさ」
「……」
「じゃが、狼という生き物はいくら飼い慣らそうとしても、決して己の意を曲げることはせんものらしい。いつぞやにどこぞで会うた学者だったかが、確かそのようなことを言うとったわ」
そう言うとヘルムートは再び証書をテーブルの上に置いて右の握りこぶしを作り、自らの右手に嵌めた印章をぐっと押し付けた。印章に彫り込まれた紋章の跡が、くっきりと証書に写った。
「ジェニスはお前さんとの街の散策のことを、とても楽しそうに話しておったが……どうやらあの娘、猛犬どころか狼を連れ歩いておったようじゃな」
証書を手に取り又三郎に渡したヘルムートは、ニヤリと唇の端を歪ませて笑った。
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