Episode 11-17 贈り物

 それから更に、四日が過ぎた。又三郎がジャニス達の用心棒を勤めるようになってから、今日で十一日目になる。


 ミネルバへの相談の件については、マイヤーは特段何事かを言うでもなく、あっさりと了承してくれた。その日を境に、ジャニス達が滞在する宿の周辺と、演劇場の周辺を巡回する衛士達の姿が、ちらほらと見られるようになった。ミネルバは極端に目立つことが無いよう、上手く衛士達の差配をしてくれたようだった。


 ジャニス達の朝の日課が変わることもなく、ここまでの公演も無事に執り行うことが出来ている。だが、脅迫状に書かれていた期日を過ぎた今日からこそが、油断のならない時期であると言えた。


 本当のところを言えば、脅迫状への対応が気になるところではあった。脅迫状に指定された時間と場所で相手を待ち受けるなどといった手を、又三郎も一時いっとき考えなくはなかった。


 だが、又三郎はあくまでも「期限付きの用心棒」の身であった。雇い主であるマイヤーが脅迫状を無視すると決めた中で、自身が最優先とするべきことは脅迫者の追跡や捕縛などではなく、この街に滞在中のジャニス達の安全確保だった。


 単身で用心棒を勤めている中、不用意にジャニス達の元を離れてその隙を突かれるなどといったことだけは、絶対に避けなければならない。消極策ではあったが、ジャニス達の行動を可能な限り最小限に抑えつつ、火の粉が降りかかってきた時にはその都度振り払うしか、又三郎には方法がなかった。


 今日は公演の中休み二日目で、毎朝の日課も無事に終えることが出来ていた。又三郎は宿の周囲を一通り回り、怪しい影などが見られないことを確認して部屋に戻ろうとしていたが、そこで聞きなれた声に呼び止められた。


「マタサブロウ、少し街に出ます。一緒について来なさい」


 振り返るとそこには、華やかな衣装に身を包んだ娘の姿があった。


 しばしの間、又三郎が首を捻っていると、娘は少し苛立ったように言った。


「ジャニスよ……何よ、たまには私がこういう恰好をしたっていいじゃない」


「いや、これは相済まぬ。そなた達二人は、本当に見分けがつきにくいものでな。それにしても、ジャニス殿が街の散策を所望されるとは珍しい」


 又三郎がそう言うと、ジャニスは視線を外し、少し頬を赤らめて言った。


「私だって、たまにはおおっぴらに街を歩いてみたいと思うことだってあるわよ」


「ふむ……しかし、そなた達のこの街での滞在期間も、残すところあと三日。先だってはジェニス殿が危ない目に遭われたこともあったし、出来れば宿で大人しくなされている方が良いと思うのだが」


 又三郎は出来るだけやんわりと、角が立たないように諭してみたが、ジャニスは首を縦に振らなかった。


「姉さんとは一緒に街を歩けても、私と一緒に街を歩くのは嫌だって言うの?」


「いや、別にそういうつもりではないのだが……」


 先日届いた脅迫状について、ジャニス達には何も知らされていない。マイヤーからも堅く口止めされていて、彼女が現在置かれている状況をおいそれと話す訳にもいかない。


 そこへ持ってきて、ジャニスは自らの要求に否と言われることを良しとしない性格だった。又三郎はそれ以上の説得を諦め、覚悟を決めてジャニスと共に宿の一階へと降りて行った。


 宿から外出する際、又三郎はジャニスに先立って表通りに出て周囲を見渡した。又三郎の目の届く範囲内には、怪しい者の影は見当たらなかった。


「どうしたのよ、マタサブロウ。何だか随分とピリピリしているみたいだけれど」


 不思議そうな顔をしたジャニスに、又三郎は努めて穏やかに笑って見せた。


「なに、それがしの用心棒としての務めを果たす日数も、残り少なくなってきたからな。ここでそなたの身に万が一のことがあっては、悔やんでも悔やみきれん」


「ふうん……まあ、よろしく頼むわね」


 特に行く宛てがあるという訳でもなく、ジャニスは又三郎を伴って街の大通りを歩いていた。


 天気も良く、散歩には良い日和だった。街の通りはいつものように人の往来で賑わっており、活気に溢れている。又三郎が尋ねた。


「ジャニス殿、どこか行ってみたい場所などはあられるのか?」


 又三郎の少し前を歩いていたジャニスは、振り返ると又三郎を見上げて言った。


「実のところを言うと、別段これといって行きたい場所がある訳でもないのよね」


 ジェニスのように目を輝かせて街の風景を眺めるという訳でもなく、むしろ暇を持て余して仕方なく散歩に出てみたといった雰囲気で、ジャニスがのんびりと答えた。


「ではどうして、街の散策を所望なされた?」


 又三郎の問いに、ジャニスは少しの間無言だったが、やがてぼそりと呟くように言った。


「この間の中休みの時には、姉さんが貴方と街を出歩いて楽しそうにしていたから、どんなものなのかなって思っただけ」


「ふむ、そうでござるか」


 曖昧な返事をした又三郎は、少し離れた視界の片隅に一人の男の姿を捉えた。まだ若い男で、歳の頃は二十歳を少し過ぎたぐらいだろうか。やや気弱そうな面持ちをしていたが、手に大きめのピンク色の花束を持って、こちらの様子を伺っているように見える。


 やがてその男は、しばらくするとおずおずと又三郎達の元へやってきた。男は何やら緊張した面持ちで、たどたどしく言った。


「あの、えっと……ジャニス・コールさんですか?」


 又三郎が前に出ようとしたのを、ジャニスが目で抑えた。そして鷹揚に頷いて笑った。


「はい、そうですが」


 僅かに頬に汗をかいた男の表情が、やや明るくなった。


「ああ、やっぱり。僕、先日の貴方のコンサートを見に行った者なのですが、あれ以来貴方の歌声が、どうにも耳から離れなくて」


「うふふ、それはどうも」


「で、つい今しがた貴方の姿をお見かけして、慌ててこの花束を買ってきたのですが……どうか受け取っていただけませんか?」


 そう言って男が差し出した花束を見て、ジャニスが無邪気に笑った。


「まあ、綺麗なゼラニウムですこと。どうもありがとう」


 ジャニスが花束を受け取ろうと、男との距離を縮めた。又三郎の目には、動作がややぎこちなかった男の瞳の奥に、一瞬何かを決意したかのような光が見えた。


 次の瞬間、又三郎は咄嗟にジャニスの身体を引き寄せ、男に背を向ける形でジャニスを抱え込んだ。その背中に、男が勢いよく突き出した花束が当たった。


 背中の左上辺りに焼けるような感覚を覚えながらも、又三郎は振り返りざまに裏拳で男の顔を力一杯殴りつけた。殴られた男は後ろへと吹き飛び、手にしていた花束を取り落とした。からん、という乾いた音と共に、花束の中から又三郎の血で濡れた短剣が転がり出た。


 唖然とするジャニスを尻目に、又三郎は素早く周囲に目を向けた。突然の出来事に周囲の皆がこちらを注目する中、遠くの方で怪しい人影が消えるのを見た気がした。


 だが、その影を追うには、あまりにも距離が遠すぎた。又三郎は目前に倒れている男の襟首を、右腕一本でぐいと掴みあげた。


「こうするしかなかったんだ……ごめんなさい、ごめんなさい」


 切れた唇から血を流している男は、恐怖と緊張でがたがたと身を震わせていた。左腕を動かそうとすると、背中に激痛が走る。又三郎は右の握りこぶしで男のこめかみにしたたかな鉄槌打ちを食らわせ、男の意識を奪った。


 近くの店の者の一人が、慌ててどこかへ駆け出していった。おそらくは街の衛士を呼びに行ってくれたのだろう。又三郎はほっと一息つき、ジャニスへと向き直った。


「ジャニス殿、怪我などはないか」


 ジャニスは驚きと恐怖で固まった表情のまま、こくこくと頷いてみせた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 又三郎達が宿に戻ったのは、それから四半刻(約三十分)ほど後のことだった。


 現場に駆けつけた街の衛士に事の顛末を伝えて男を引き渡すと、又三郎はジャニスを連れて宿へ戻ろうとした。その背中を見た衛士の一人が、やや青ざめた表情で又三郎を呼び止めたが、又三郎は自分の滞在先の宿の名前を伝えて、他に何か聞きたいことがあれば宿まで来てもらいたいと言い残し、その場を去った。


 又三郎としては、一刻も早くジャニスを宿へと連れ帰り、ジャニスの身の安全を確保したかった。背中の傷は多少痛んだが、新選組にいた頃の経験から命に別状はないだろうと踏んでいた。


 真っ青な顔色のジャニスを宿に連れ帰った、背中を朱に染めた又三郎の姿を見て、マイヤーはすぐに傷の手当てを、と言った。


 一座の関係者の中に、傷の手当の心得がある者がいたようで、又三郎はその女の前で諸肌もろはだを脱ぎ、背中の傷を見せた。少し離れた場所では、ジャニスとジェニスがはらはらした表情でこちらを覗き込んでいる。


「おそらくは短剣が肩の貝殻骨かいがらぼねに当たって、刃が弾かれたのでしょうね。着ていた衣服の見た目ほどには、傷は酷くないです」


 女はそう言って笑うと、又三郎の傷口を酒精の強い酒で洗い、己の手をかざして何事かをぶつぶつと呟いた。酒が傷口に染みたが、その後は徐々に痛みが引いていく感覚に、又三郎はやや戸惑いを覚えた。


「もう大丈夫ですよ、マタサブロウさん」


 軽く傷口の辺りを叩いた女の言葉に、又三郎は半信半疑で己の左腕を回してみた。なるほど確かに、先程まであった痛みが全くなくなっている。辺りを見回して鏡を探し、己の背中を見た。まだ少し血で汚れてはいたが、傷は綺麗に消えていた。


「万が一、ジャニスが怪我をした時のために、癒しの法術が使える者をスタッフとして雇っているんだよ」


 ほっとため息をついたマイヤーが、ようやく安心したように笑った。


「ほほう。それはまた、便利なものですな」


 又三郎も感嘆のため息をつき、傷の手当てをしてくれた女に礼を言った。この世界には、神の奇跡と呼ばれる法術というものがあると聞いていたが、その効果を身をもって知るのは又三郎にとって初めてのことだった。


「さて、どうしてこのようなことになったのか、事情を聴かせてもらおうか」


 マイヤーの言葉に、又三郎は外出先で起こったことの経緯を簡潔に話した。その話を聞いて渋い顔をしていたマイヤーの横で、ジャニスが申し訳なさそうに首を垂れていた。


「ごめんなさい、マタサブロウ。私が外出したいなんて言わなかったら、こんなことにはならなかったのに」


「なに、そなたが無事だったのであれば、何も問題はない。何故あのようなことになったのかはさっぱり分からんが、そなたも大層驚かれたことだろう」


 それとなくマイヤーに目配せをしながら、又三郎は快活に笑ってみせた。その様子にマイヤーは、ジャニス達に気取られないように注意しつつ、小さく頷いた。


「ただ、そなたの公演も残り三日だ。理由は全く不明だが、こうも立て続けに襲われるようなことがあったからには、我々も相応の用心をしなければならん。ジェニス殿もジャニス殿も、朝の日課は少しの間だけ控えてもらっても良いだろうか」


 又三郎の言葉に、二人は顔を見合わせると、それぞれ頷いた。その隣でマイヤーが、ほっと胸を撫で下ろす顔をして見せたので、又三郎はつい苦笑しそうになった。


 その後、ジャニス達は部屋へと戻っていった。又三郎も自室に戻ろうとしたところで、マイヤーに呼び止められた。


「ジャニスを守ってくれて、本当に助かったよ。ありがとう」


 そう言って頭を下げたマイヤーに、又三郎は被りを振った。


「それがしは己の責務を全うしたまでのこと、気になされるな。それよりも、此度こたびの外出を希望されたジャニス殿のことを、どうか叱らないでやっていただきたい」


「ああ、分かっているよ。あの子は脅迫状のことなど何も知らなかったのだし、いつもの調子で気軽に君へ同行を求めたのだろう」


 マイヤーはやや薄くなり始めている己の頭を掻きながら、又三郎に尋ねた。


「しかし君、その男がジャニスに刃を向けようとしていたことが、良く分かったな」


 又三郎は小さく肩をすくめて答えた。


「なに、その男は最初からずっと落ち着きが無さげで、ジャニス殿を贔屓ひいきにしている客だという割には、特段興奮するような様子もなく、表情が妙に強張っていた。最後には何やら言い訳めいたことを口走っていたが、おおむね最初に誘拐を企てた連中に脅されての犯行といった辺りだろう」


「連中はまた、ジャニスを襲いに来るだろうか」


 不安そうな表情を浮かべたマイヤーに、又三郎は真顔で頷いた。


「毎度公演後の挨拶をなされているジェニス殿が、危ないかも知れん。残りの三日間、それがしも十分に注意を払うとしよう」

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