Episode 11-18 困惑

 その日の夜、又三郎は宿の周囲の見回りを終えて、自室で身体を休めていた。既に十一の刻(午後十時)を過ぎた辺りという頃合いだった。


 いつ何があってもすぐに動けるよう、衣服はそのままにして寝台で横になっていたその時、部屋の扉を微かに叩く音が聞こえた。


「どなたかな」


「ジャニスよ……ちょっといいかしら?」


「しばし待たれよ、今扉を開ける」


 又三郎が軽く衣服を整えて部屋の扉を開けると、やや意気消沈したジャニスの姿がそこにあった。


「どうなされた、こんな夜更けに」


「ちょっとだけ、貴方と話がしたくて……中に入れてもらえる?」


 又三郎は一度火を消した燭台に再び灯をともしてから、ジャニスを部屋へと招き入れた。ジャニスには一人掛けのソファを勧め、自分は寝台に腰を下ろす。


「何やら浮かぬ顔をされているな。まだ昼のことを引きずっておられるのか」


 又三郎の言葉に、ジャニスは上目遣いにおずおずと尋ねた。


「マタサブロウ、肩の怪我は本当に大丈夫なの?」


 新選組にいた頃のことを思い返せば、又三郎にとっては軽傷と言ってよい程度の傷だったが、多少の出血は伴ったし、金創きんそう(刀傷)などを見慣れていないジャニスにとっては、あるいは大怪我のように見えていたのかも知れない。


 又三郎は己の左腕をぐいと上げ、ぐるぐると大きく回してみせた。


「その様子だと随分とご心配いただいたようだが、ほれ、この通りだ」


「そう……それならいいの。良かった」


 ほっとため息をついたジャニスはしばらくの間、何やらもじもじとしていたが、やがて視線を逸らしつつ、神妙な面持ちでぼそりと言った。


「昼間は気が動転していたから、ちゃんと言えなかったんだけれども……その、守ってくれてありがとうね」


 今更思いもかけなかったジャニスの言葉に、又三郎はつい声を殺して笑い出してしまった。


「何よ、そんなに笑わなくてもいいじゃない!」


「あいや、申し訳ない。笑ってはいかんな。ただ、ジャニス殿もなかなか素直なところがあるものだと思ってな」


「それって一体どういう意味よ!」


 ジャニスは不機嫌そうに口を尖らせたが、すぐに目を伏せて言葉を続けた。


「でも、本当はね……ちょっとだけ、姉さんが羨ましかったの」


「ジェニス殿が、どうかなされたのか?」


 怪訝な顔をした又三郎を、ほんのりと頬を染めたジャニスがいじけたような目で睨んだ。


「だって、姉さんがあんなに楽しそうにしているのなんて、本当に久しぶりだったんだもの……姉さん、貴方と街を歩くのがよっぽど楽しかったみたい。だから私も、どんなものなのかなって思って。今日がこの街での最後の自由時間だったし、貴方とは朝の走り込みと稽古の時以外、あんまり接点が無かったし」


 確かに、ジェニスジャニスのどちらと一緒にいた時間がより長かったのか言われれば、姉と一緒にいた時間の方が長かった。宿と演劇場の往復や公演終了後の挨拶の際の身辺警護、街の散策など、舞台に立っている時以外の『ジャニス・コール』は姉の方だったからだ。


 ジャニス殿が突然街の散策を所望されたのは、それが理由か――又三郎は何とも身体がこそばゆくなり、一つ咳ばらいをした。


「で、どうだったかな? 実際に街を歩いてみて」


「うーん……私の場合、何の目的も無くただ散歩するだけっていうのは、どうにも性に合わなかったみたい」


 さも困ったと言わんばかりの表情でそう言ったジャニスの様子に、又三郎は苦笑した。


「それがしの方から、どこか良い場所を見繕って案内した方が良かったかな?」


「そうね。もしも次の機会があったら、ぜひそうしてもらおうかしら」


 そう言ってからりと笑ったジャニスは、ややあって表情を引き締め直した。


「ところで、先日姉さんがさらわれそうになったことといい、今日のことといい、流石に色々とおかしいと思うんだけれども……マタサブロウ、貴方、私達に何か隠し事をしていない?」


「さて、何のことやら」


 又三郎はさらりと答えてみせたが、ジャニスの目はじっと又三郎を見つめていた。


「私は貴方の雇い主よ、正直に答えなさい」


 そう言った次の瞬間、ジャニスは自分の背筋にぞくりと悪寒が走るのを感じた。


「いくらジャニス殿が相手と言えども、聞くことが出来ない話もござる」


 又三郎の静かな目が、真っすぐにジャニスを見据えていた。今まで見たことが無いその冷ややかな眼光に、ジャニスは思わず小さく身震いした。


 そこでふと我に返った又三郎は、努めて穏やかに笑ってみせた。


「残り三日間、必ずそれがしがそなた達の身を守ってみせよう。だから、そなた達は何も心配しなくて良い」


「……」


「武士に二言は無い。誓ってこの通りだ」


 又三郎は姿勢を正し、枕元の刀に手を伸ばすと胸の前で少しだけ鯉口を切り、鍔を打ち鳴らして金打きんちょうした。ジャニスにはその行為の意味が全く分からなかったが、何とも厳かなその所作に、思わず呆然と見とれてしまった。


 やや青ざめかけていたジャニスの顔色が、ほんのりと赤くなり、やがて耳まで赤くなった。ジャニスは勢いよくソファから立ち上がると、つかつかと又三郎に歩み寄り、細くて白い人差し指を又三郎に突き付けて怒鳴った。


「ああもう、何だかよく分からないけれども、今もの凄く腹が立ったわ!」


「あ、いや、そのように腹を立てられるというのは、それがしも心外で……」


 まくしたてるような剣幕のジャニスに、又三郎は思わずたじろいだ。


「マタサブロウ、貴方、そうやってあっちこっちで女を泣かせてきたクチでしょう? その辺りはどうなのよ、きりきり白状なさい!」


「ジャニス殿、少し落ち着かれよ。ご自身が何を言っているのか、分かっておられるのか?」


 そこで再びジャニスは顔を赤く染め、何かをこらえるようにわなわなと身体を震わせていたが、やがてきびすを返すとつかつかと部屋の扉へと歩いていき、乱暴に扉を開けて部屋を出て行った。


 呆気にとられた又三郎は、ただ呆然とジャニスの背中を見送っていたが、しばらくして被りを振って呟いた。


「やれやれ、若い女子おなごの考えることは、どうにも良く分からん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る