Episode 11-13 我が儘と悪戯
その日の夕刻、宿の周囲の警戒を終えて自室に戻っていた又三郎は、部屋の扉が叩かれる音を聞いた。
扉を開けると、はたしてそこには見慣れた娘の姿があった。
「……」
「ジェニスです。これから少し、夜の街を見に行きたいのです。一緒に来てくださいな」
平然とそう言ったジェニスに、又三郎はやや面食らった。
「ジェニス殿。それがし、決して嫌だと言うつもりはないのだが……今朝方のこともあったというのに、その、良いのでござるか?」
又三郎の問いに、ジェニスは笑顔で頷いた。
「マタサブロウが側にいてくれるなら、私は安心です。マイヤーさんには、
よくマイヤーが首を縦に振ったものだと又三郎は思ったが、先のやり取りのことを思い返すと、おおむねジャニスの後押しに抗いきれなかったのだろう。
マイヤーの気苦労には同情を禁じえなかったが、一方で又三郎に課せられる責任は重大なものとなる。又三郎が再び尋ねた。
「十の刻までとは、夕食はいかがなされる?」
「宿の食事はキャンセルしてきました。どこか良いところがあれば、そこに連れて行ってください」
にっこりと笑うジェニスに、又三郎は心の中でため息をつきながらも頷き、大小の刀を腰に差して部屋を出た。
宿を出て、大通りをジェニスと二人で歩く。空には夕闇が迫りつつあったが、人の往来は少なくない。街のあちらこちらで
「マタサブロウ、私の我が
隣を歩くジェニスが、又三郎を見上げて気まずそうに言った。
「私、こういった人の営みの風景を見るのが好きなんです……いつもは朝の風景を見せてもらっていましたが、一度はこの街の夜の風景も見ておきたかった。今日を逃すと、もうそのチャンスがなくなっちゃうかもって思って、マイヤーさんにも無理を言っちゃいました」
「それがしは雇われの用心棒だ。雇い主の希望に沿って、ただ働くのみでござる」
周囲に目を光らせながら答える又三郎に、ジェニスが小さく口を尖らせた。
「マタサブロウ、嘘はいけませんよ。私にはちゃんと分かっていますから」
「嘘、とは?」
視線を周囲に配りながら眉をひそめた又三郎に、ジェニスが言った。
「貴方は私に、とても気を使って下さっています……それに、貴方は私のことを、あくまでも私として見て下さっています」
その言葉に、思わず又三郎はジェニスを見た。ジェニスは穏やかな目で、じっと又三郎を見つめていた。
「これまでお世話になったボディーガードの方々は、私の真実を知ってしまうと、途端に私を見る目が変わってしまわれました……でも、貴方は違う。貴方は私の真実を知った上で、私を
「……」
「今のような私の我が儘にだって、これまでのボディーガードの方々でしたらあれこれと理由を付けて、ご一緒していただけませんでした。おそらくは私の相手をするのが、何かと
そこで一度言葉を区切ったジェニスが、にっこりとほほ笑んだ。
「そして今朝方も、貴方は私を私と知った上で、あれだけ真剣に私の身を守って下さいました。私にはそれが、とても嬉しかったのです」
屈託のない笑顔を向けられた又三郎は、思わずついと視線を外した。
「あれがそれがしの仕事、当たり前のことをしたまでだ」
その様子を見て、ジェニスは口元を手で覆い、くすくすと笑った。
「ところで、今夜の夕食についてですが、どこへ連れて行って下さいますの?」
ジェニスが、又三郎の目を覗き込むようにして言った。
目元は少し険しいが、深く澄んだ綺麗な目をしている人だ――ふとそう思ったジェニスは、はにかんだ笑みを浮かべた。
「それがしも外で食事をすることは少ないから、それほど多くの店は知らないのだが……何か希望などはあられるか?」
又三郎の問いに、ジャニスは少しの間考え込んだ。
「いかにも高級そうなお店は嫌です。それならば宿の食事と、そう変わりがありません。街の皆さんが足を運ばれるようなお店で、どこかお勧めの場所があれば」
その言葉に頷くと、又三郎はジェニスを伴って、いつか訪れたことのある定食屋へと足を運んだ。
定食屋の女給は、控えめだがいかにも高級そうな身なりのジェニスの来店に驚いていたが、又三郎は心付けとして銅貨を一枚女給に渡し、店の一番奥の席へと案内させた。そしてジェニスを席に着かせ、自分は店の出入り口が見える奥の席へと座る。外で何か異変があった時に、いつでも対応が出来るようにするためだ。
ジェニスはもの珍しそうに店内をしげしげと眺めていたが、やがて女給が持ってきた品書きを受け取ると、にっこりとほほ笑んで女給に礼を言った。
「こういう雰囲気のお店、私は好きです。このお店のお勧めは何ですか?」
「そうだな……肉の腸詰と豆を煮込んだ料理が、この街の名物だと聞いている。あとは鴨肉を焼いたものや、玉ねぎのスープなども有名らしい。その他の料理も、どれを選んでもまず外れはないだろう」
又三郎の言葉に、ジェニスは品書きを見ながらいくつかの料理を注文した。一方、又三郎はこの店を訪れた時にいつも注文している定食を頼んだ。
料理が来るのを待つまでの間も、周囲の席に座る客達の視線はジェニスへと向けられていた。中にはジェニスの方をそれとなく指さして、何やらこそこそと話をしているのが見える。又三郎はそれらの客達に注意の目を配っていたが、これまでのところ怪しい気配は見られない。
そんな又三郎の様子をよそに、ジェニスがにこやかに微笑んだ。
「何だかこうしていると、マタサブロウとデートをしているみたいですね」
さらりととんでもないことを口走ったジェニスに、又三郎は口に含みかけたコップの水を吹き出しそうになった。
「今のような生活をしていると、地方公演で訪れた先の街の名士の皆さんとの会食などに呼ばれることは多々あるのですが、このように街中のお店で、殿方と二人だけで食事をすることなどは、今までありませんでした」
テーブルの上で頬杖をつきながら穏やかに笑うジェニスの姿に、又三郎は己の頬を掻きながら言った。
「これ、ジャニス殿。このような公衆の面前で、
ジェニスはジャニスと呼ばれたことに若干つまらなさそうな顔をしたが、ややあって砕けた笑みを浮かべてみせた。
「あら、私だって歳相応に、素敵な殿方とのデートを夢見ることぐらいはしますわよ?」
「それがしは一介の用心棒だ。そのような夢は、そなたに相応しい男と出会った時まで取っておかれるがよろしかろう」
ジェニスは運ばれてきた料理の数々を優雅に口へと運んでいたが、一方の又三郎は目の前の料理を手早く胃袋に納めると、再び周囲への警戒の目を向けていた。
「そんなにせわしなく食事をされてしまうと、一緒に食事をしている者としては、いささか寂しいものがあります」
ジェニスがささやかな抗議の声を上げたが、又三郎は意に介せず答えた。
「そなたが今の時間を安心して楽しまれることが、それがしの務めだ。その点については、平にご容赦願いたい」
ジェニスは少しの間、
「この鴨肉、とても美味しいですよ。一口どうぞ」
ジェニスはそう言って、一口大に切り取った鴨肉をフォークに刺し、右手を添えつつ又三郎へと差し出した。
その様子に、又三郎は明らかに狼狽した顔で言った。
「いや、それは」
「これは貴方の雇い主としての命令ですよ、さあ」
何やら意地の悪い笑みを浮かべていたジェニスだったが、その笑みには有無を言わさない雰囲気が見て取れた。しばらくの間又三郎はためらっていたが、やがて意を決して差し出された鴨肉を口に含んだ。
「どうですか、美味しいでしょう?」
「……そうでござるな」
目を白黒させている又三郎の様子を見ておかしそうに笑いながら、ジェニスは再び自分の食事を続けた。周囲の席からは、どよめきとも冷やかしともつかない微かな声が上がった。
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