Episode 11-8 虫と声

 又三郎がジャニスの用心棒を勤めるようになってから、一週間が過ぎた。


 早朝は陽が昇る前からジャニスと共に街の中を走り、それが終わって宿に戻って汗を拭った後には、ジャニスの供として朝の街中を散策する。これが又三郎の日課となっていた。


 その間、特に大きな出来事などはなかったが、ジャニスが言うには朝の散策の時に、時々誰かの視線を感じるとのことだった。又三郎はそれとなく注意を払うよう気をつけていたが、これまでのところ問題となるようなことは起こっていない。


 リハーサルの翌日から、ジャニスの公演が始まった。本日で開催三日目だが、ざっと見積もっても千人以上は座れるであろう演劇場の観客席は、常に満席だった。


 ジャニスは歌を披露し終えると、一旦は下げられた幕の奥へと姿を消し、それから演劇場の出口で観客の一人ひとりを、握手をして見送ることを常としていた。ジャニスが歌手として、己の歌を聴きに来た観客を大切にしているその姿に、用心棒として背後に控えていた又三郎は深い感銘を受けた。


 とはいえ、この三日間、連日歌を歌い大勢の観客との挨拶をこなしていると、流石の彼女も演劇場から宿に戻る頃には、心身ともに疲れ切っているように見えた。


「お身体の具合は、大丈夫かな?」


 もう少しすれば十一の刻(午後十時)になろうかといった頃、宿に到着して馬車から降りたジャニスに、又三郎が声を掛けた。


「ありがとう。でも、いつものことだから大丈夫です」


 流石に疲労が色濃く出た顔をしながらも、ジャニスは気丈に笑って見せた。そんな彼女の姿に痛々しさを感じながらも、又三郎は部屋までジャニスを送り届け、そのまま真向いの自室へと戻った。


 それから半刻程が過ぎただろうか。突然ジャニスの部屋から、短い悲鳴が聞こえた。


 又三郎は身体を横たえていたベッドから跳ね起き、刀を手にすると部屋を飛び出した。一体何事が起きたのか。


「ジャニス殿、いかがなされた」


 鋭い声で扉越しに又三郎が尋ねると、焦った様子のジャニスの声が部屋の中から聞こえてきた。


「部屋に大きな虫がいるの! マタサブロウ、早く何とかして!」


 その言葉に又三郎は張りつめていた緊張を解き、ほっと息を吐き出した。ジャニスの身に、何か危険が迫ったといったようなことではなかったらしい。


「それは構わんのでござるが、それがしが中に入ってもよろしいのか?」


 初日のジャニスとの顔合わせの時には、この部屋には絶対に立ち入らないようにと、座長のマイヤーから言われていた。


「私が許可するから、早く中に入ってきて!」


 切羽詰まったようなジャニスの声を聞いて、又三郎は一応部屋の扉を叩いてから、静かに部屋の中へと入った。


「あそこよ、あそこ。大きな黒い虫がいたの」


 部屋に入るなり、やや涙目になったジャニスが又三郎の元へ寄り添い、広い部屋の一角を指さした。なるほど確かに、その先では遠目にも分かるほどの大きさの黒い扁平な虫が、かさかさと壁を這いまわっている。


「あの虫は、別に刺しも噛みもしないのだが」


 ぼそりと呟いた又三郎の背中を、ジャニスが部屋に向かってぐいと押し出した。


「そういう問題じゃなくて! 私、そもそも虫が苦手なのよ!」


 たかだか虫一匹のことで大騒ぎするジャニスの姿に、又三郎は思わず苦笑した。少々気の強いところがあっても、やはり歳相応の娘であるらしい。案外可愛らしいところもあるものだという言葉は、流石に飲み込んだ。


「相分かり申した……だが、あの虫はなかなかにすばしこいし、時折こちらへ向かって飛んでくることがある。適当に始末をするから、少しの間廊下で待っていてもらえるだろうか」


 ジャニスはしばらくの間、又三郎をじっと睨んでいたが、やがて何かを諦めたかのように小さく頷いた。


「さっさと片付けてよね。あと、部屋の中のものをあれこれ見るのは絶対に駄目よ」


 それだけ言い残して、ジャニスは廊下へと姿を消した。又三郎は手にした刀を扉の側に立てかけ、何か虫を叩くものがないかと辺りを見回したが、適当なものが見当たらなかったため、そろりそろりと虫に忍び寄り、てのひらで素早く壁を叩いた。


 ばしん、と大きな音が部屋中に鳴り響き、一撃で虫を叩き潰すことが出来た。同時に、続きの間の奥の方からひっ、という微かな悲鳴が聞こえた。


 又三郎の目が、途端に険しくなった。扉の脇に立てかけた刀に一瞬目を向けたが、すぐに視線を声が聞こえた方向へと戻した。


 続きの間の奥の方には、大きなベッドが二つあった。更にその部屋の奥の壁際には、観音開き式の大きなクローゼットが見える。どうやら悲鳴はそこから聞こえたような気がした。


 一瞬、部屋の中のものを見ないようにというジャニスの言葉が脳裏をよぎった。だが、他に誰もいないはずの部屋の中に人の気配がするのを、用心棒として見過ごすわけにもいかない。


 又三郎は息を潜めながら続きの間へと向かい、奥の壁際のクローゼットの扉をそっと開けた。


 クローゼットの中は、ちょっとした小部屋のような造りになっていた。おそらくはジャニスの衣装などが収められているものと思われる、大きな鞄の類が所狭しと並べられている。


 その更に奥で、何かが微かに動いたように見えた。又三郎は無言のまま、摺り足でにじり寄るように、クローゼットの中へするりと身を滑り込ませた。


 そして、やや身構えた状態で、大量の鞄の影をゆっくりと覗き込んだ。


「……えっと、その。こ、こんばんは」


 そこには、鞄の陰に隠れてしゃがみこんだまま、引きつった笑みを浮かべるジャニスの姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る