Episode 11-7 通し稽古

 又三郎がジャニスの用心棒を勤めるようになってから、四日目の午後。


 演劇場の観客席には、ナタリーやティナ、教会の子供達のほか、まばらに人が座っていた。そのいずれもが、リハーサルの席に招待された者達だったのだろう。


 又三郎は用心棒としての務めを果たす必要上、観客席の最前列の席に座っていた。ナタリーやティナ、子供達は、その隣に座っている。


 舞台の幕は、まだ下ろされたままだった。幕の向こうからは、様々な楽器の音色が聞こえてくる。おそらくは楽器の音合わせをしているのだろう。


「うわー、何だかすっごく緊張してきた」


 又三郎から見て一番遠くの席に座っていたティナが、浮かれた声で言った。


「ティナお姉ちゃん、今日は静かにお歌を聴くようにって、ナタリーお姉ちゃんに言われていたでしょう?」


 すぐ隣に座っていたエミリアにそう言われて、ティナは気まずそうに頭を掻いて笑った。


 その様子を遠目に見ていたナタリーは、思わずため息をついたが、ややあって隣に座る又三郎に小声で尋ねた。


「マタさんは、ジャニスさんの歌声をもうお聞きになられたと言っていましたが、それほどまでに素晴らしい歌声なんですか?」


「ああ、ジャニス殿の歌声は、それは大したものだった。あの歌声を聴いていると、思わず涙が出そうな程だった」


 迂闊に口を滑らした又三郎を、ナタリーがくすくすと笑った。


「あら、マタさんが泣くところなんて、ぜひ一度見てみたいものですね」


 又三郎は思わず口をへの字に曲げたが、やがて舞台の幕が上がり、明るい照明に照らし出された舞台の中央前列に、華やかな衣装を身にまとったジャニスの姿が現れた。


 彼女の背後には、様々な楽器を手にした演奏者が並んでいた。その者達がゆるやかなメロディーで演奏を始め、それに合わせてジャニスがゆったりとした歌声で歌い始める。


 リハーサルとはいえ、舞台の上で歌うジャニスの姿は、時には迫力があり、時にはもの悲しくもあり、そして時には大輪の花のような鮮やかさがあった。又三郎がふと隣の様子に目を向けると、ナタリーも子供達も、そしてその向こう側に座るティナも、豊かな声量で歌うジャニスの姿に釘付けになっていた。


 リハーサルは一刻(約二時間)程の間続いたが、終わった頃にはナタリーもティナも、うっすらと目に涙を浮かべていた。他の席に座っていた招待客達も、おおむね同様の様子だった。


 歌い終えたジャニスは舞台の上で一礼すると、そのまま舞台の脇にある階段を使って観客席まで降りてきた。そして、子供達の前までやってくると、上がった息を整えながらにっこりと笑って見せた。


「みんな、お姉ちゃんの歌、どうだった?」


 ジャニスの問い掛けに、子供達は口々に賞賛の声を上げた。ジャニスは子供達一人一人の頭を撫でて、礼を言いながら握手をしていた。


 ナタリーは目尻にうっすらと浮かんだ涙を拭いながら、ジャニスに深々と頭を下げていた。


「本日はこのような席にお招きいただき、本当にありがとうございました。子供達にも、とても良い経験になったと思います」


「あら、そんなにかしこまって貰わなくても良いのよ。私だって、好きで貴方達をご招待しただけなんだから」


 にこやかに笑ったジャニスに、今度はティナが上ずった声で言った。


「ジャニスさん、私、貴方の歌声を聴いてとっても感動しました。あんな素晴らしい歌が歌えるなんて、本当に凄いです」


「ありがとう。そう言ってもらえると、私も貴方に歌を聴いてもらった甲斐があったわね」


 ジャニスが、ティナの手を握って微笑んだ。感激の余りのことなのか、ティナはその場でぽろぽろと涙をこぼして笑った。


 それからジャニスは、更に後ろの席に座っていた招待客の方へと足を運んでいった。その後ろ姿を見送りながら、又三郎はナタリー達に言った。


「ジャニス殿の思いがけないご厚意のおかげで、皆良い経験が出来て良かったな」


「そうですね。もちろんジャニスさんのおかげもありますし、今回のお仕事を受けて下さったマタさんのおかげもあると思います」


 そう言ってナタリーは、にっこりと笑った。


「まだしばらくの間は、ジャニスさんの警護のお仕事があるのですよね。マタさん、ぜひ頑張ってくださいね」


 いつにも増して穏やかなナタリーの言葉に、又三郎は笑って頷いた。


 だが、又三郎が笑っていられたのはそこまでだった。ふと気が付くと、他の招待客の元へ足を運んでいたジャニスがさりげなくこちらを見ながら、自分の前にいる招待客には見えない角度から、右手の指先だけで又三郎を手招きしている。


 不思議に思った又三郎がジャニスの元に足を運んだ時には、彼女は既にその招待客との挨拶を終えていた。


「マタサブロウ。貴方、自分の責務をきちんと果たしなさい」


 周囲の招待客達に気付かれないよう満面の笑顔を浮かべながら、目と小声だけでジャニスは又三郎を叱責した。


「貴方は私のボディーガードでしょう? だったらちゃんと、常に私の側にいてもらわないと困るわ」


 突然の叱責に呆然としている又三郎に、ジャニスが続けた。


「私にとって、貴方が連れてきた女性や子供達は未来のお客様でもあるけれど、今の貴方は公演者側の人間よ。その貴方が己の職責を忘れて、彼女達と一緒にお客様気分でいるなんて、一体どういうつもりなのよ」


「……いやはや、これは相済まなかった」


 ジャニスの言い分はもっともなもので、彼女は歌手としての本分を最後まで全うするため、己の歌を聴きに来てくれた客への挨拶周りをしていたのだ。それに引き換え又三郎は、ついジャニスの好意に甘え、己の本分を忘れて完全に浮かれてしまっていた。


 又三郎は己の認識の至らなさに恥じ入ると共に、ジャニスの歌手としての意識の高さを目の当たりにして、大いに感心した。


 ジャニスはやや上気した表情のまま、招待客達への挨拶周りを終えると楽屋へ直行した。その後ろに続いていた又三郎は、しばらくの間楽屋の外でジャニスを待っていたが、半刻(約三十分)程の後には、ジャニスが姿を現した。


「マタサブロウ、今日のリハーサルはこれで終わりです。今から宿へ戻りますので、供をよろしくお願いします」


 ジャニスは柔らかい口調でそう言うと、演劇場の廊下を歩きだした。その後を追いながら、又三郎はジャニスに軽く頭を下げた。


「先程は己の本分を忘れてしまい、誠に申し訳なかったでござる」


 だが、又三郎の予想に反して、ジャニスはそれほど気分を害した様子も見せず、穏やかな笑顔で答えた。


「マタサブロウも初めてのことだったでしょうし、分かっていただけたのならばそれで結構です。今後はくれぐれも、ご自身の職責をお忘れなきように」


 先刻の鋭い叱責とは余りにも異なる雰囲気に、又三郎は内心首を捻らずにはいられなかったが、ともかく今は己の職責に専念するべきだと思い、それ以上のことを考えるのは止めた。

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