Episode 6-10 儚き願い

 用心棒の仕事も、あと数日を残すばかりという日の深夜。


 又三郎はあてがわれた部屋で、独りの時間を過ごしていた。ここ最近は、用心棒として呼び出されるようなこともほとんどなく、あったとしても酒に酔った客を店の玄関先まで追い返す程度の簡単な内容だった。


 教会では雑事に追われて色々と身体を動かすことが多かった又三郎だったが、ここでは食事の上げ下げから着ているものの洗濯まで、そのほとんどをウェンリィが行ってくれている。最初の頃こそ彼女に対する遠慮があったが、今となっては又三郎もすっかり慣れてしまっていた。


 一方、娼館の女達の方も又三郎に慣れたもので、最近では仕事にあぶれた者が時々部屋にやってきては、世間話をしたり、家族や恋人に宛てた手紙の代筆を頼んだりしていた。女達はその多くが文字を書けなかったため、手紙の代筆はとても喜ばれた。


 娼館の中は、比較的静かだった。既に夜も更けており、これから客足が伸びるということも、おそらくは無い。


 今夜も無事に仕事を終えることが出来そうだと思った又三郎が横になりかけた時、部屋の扉を小さく叩く音がした。


「マタさん」


 小さくささやくように言ったウェンリィが、部屋に入ってきた。


 又三郎は横たえていた身を起こし、尋ねた。


「もう随分と遅い時間だが、一体何用かな?」


 夜の賄いの器は、既に下げてもらっていた。あとはこれといって、ウェンリィに世話をかけるようなことは無かったはずだった。


「うん……今日はもう、仕事は終わりなの。だから来ちゃった」


 燭台の明かりが、小さく舌を出して笑うウェンリィを照らしていた。ウェンリィはそのまま、又三郎の隣に腰を下ろした。


 しばらくの間、無言の時間が続いた。


「眠れないのか?」


 又三郎が尋ねた。ウェンリィが、微かに笑った。


「そうね……眠ってしまうのが、ちょっと勿体ないかなって」


 怪訝な顔をした又三郎に、ウェンリィが続けた。


「だって、マタさんがこのお店に居てくれるのも、あと少しでしょ? マタさんとはもっと色々、お話がしたかったなって」


「何だ、そのようなことか」


 そう言って笑った又三郎の肩に、ウェンリィがすらりとした身体をそっと寄せてきた。


「そんなことって、マタさんったら酷い」


 拗ねるような口調で軽く口を尖らせたウェンリィが、上目遣いに又三郎を見つめた。


「……今夜だけでいいの、ここで一緒に眠らせて」


「いや、それは」


「自分が我がままを言っているのは、分かっているの。でも、最後にもう一つだけ、マタさんとの思い出が欲しい」


 ウェンリィの潤んだ瞳が、じっと又三郎を見つめていた。又三郎にはその瞳がまぶしすぎて、思わずそっと目を逸らした。


「今夜はお客さんの相手もしていないし、ちゃんとお風呂も使ってきたの……それでも、娼館の女は嫌?」


 何とも可憐なことを言うものだ――又三郎の心は、意外にも強く揺さぶられた。肩に感じるウェンリィの身体の温かさが、とても心地良い。


「娼館の女だとかどうとか、そういったことは関係無い」


 ようやく、声を絞り出すように又三郎が言った。


 又三郎を見つめるウェンリィの瞳が、微かに陰った。


「じゃあやっぱり、好きな人の方が良い?」


「前にも言ったはずだ。好きとか嫌いとか、そういったものはにはない」


「だったら」


 ウェンリィは又三郎の身体に手を回し、強く抱きしめた。


「私のこと、好きになってくれたら嬉しいのにな」


 柔らかいウェンリィの身体の感触に、又三郎の心臓が早鐘のように鳴った。


 又三郎はふと、新選組にいた時のことを思い出した。他の隊士達の中には、妻やめかけを持つ者もいた。生死の狭間の世界を生きていた彼らは、一体どのような心境で女達と向き合っていたのだろうか。


 守るものが出来ると剣が鈍るので、そういったものからは常に距離を置いてきた。それが今までの又三郎の在り方だった。


「済まない」


 又三郎はウェンリィの肩に、そっと手を置いた。びくり、とその肩が震えた。


「どうしても、駄目?」


「どうにも俺は、俺自身からは逃げられそうにない」


「そう……冷たい人ね」


 ウェンリィの瞳には、いつしか大粒の涙が浮かんでいた。


 不意に、ウェンリィの柔らかい唇が又三郎の頬に触れた。彼女の髪の甘い香りが、ふわりと又三郎の鼻をくすぐった。


 ウェンリィは又三郎から身体を離して涙を拭うと、いつもの優しい笑みを浮かべた。


「ごめんね、マタさん……でも、マタさんにはいつか、人を好きになることを知って欲しいな」


 そう言い残すと、ウェンリィは静かに部屋を出ていった。


 又三郎はしばらくの間、小さく揺れる炎を見つめていたが、やがて心に残った何かを吹き飛ばすように、燭台の灯を吹き消した。


 周囲には暗闇と静寂が訪れたが、頬を微かに濡らしたウェンリィの涙が、又三郎の胸中を小さくえぐった。

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