Episode 6-9 女心

 翌日の昼過ぎ、又三郎はウェンリィを伴って街の衣裳店を見て回っていた。


 ウェンリィが「マタさん一人だと心配だから」と気を効かせて、ナタリーへの贈り物を見繕ってくれるという話になった。女への贈り物などには甚だ疎い又三郎だったので、ウェンリィの申し出をありがたく受けることにした。


 何件かの店を回った後、又三郎はようやく目的の品物を手に入れることが出来た。それは、淡い紫色のストールだった。


 又三郎は最初、汚れが目立ちにくい違う色のものを買おうとしたのだが、ウェンリィがその品物を一瞥して「全然色が可愛くない」と言って、取り換えさせたものだ。


「マタさんはもう少し、女心ってものを勉強した方が良さそうね」


 又三郎の品定めの目をからかったウェンリィが、快活に笑った。又三郎は、ただ首をすくめるしかなかった。


 それから二人は大通りに出て、遅い昼食のために一軒の定食屋を訪れた。そこは街の者達が気軽に食事が取れる、ごく普通の店だったが、ウェンリィはこのような場所で食事を取るのは初めてだと、とても喜んだ。


 食事を終えると、ウェンリィがしみじみと噛みしめるように言った。


「今日はマタさんと一緒にお買い物が出来て、本当に良かった」


「それがしの買い物に付き合ってもらって、食事をしただけだぞ?」


 不思議そうな顔をした又三郎に、ウェンリィは少しうつむき加減に笑った。


「私はね、八つの時からずっと、ターシャさんのお世話になっているの。両親が流行り病で亡くなって、身寄りが無かった私をターシャさんが引き取ってくれたの」


 又三郎はテーブルの上にあった食後の紅茶に手を伸ばし、無言で口に運んだ。カップの中身は、ほとんど空に近かった。この気まずい雰囲気を、残り少ない紅茶と共に胃へ流し込めればどんなに楽だろうかと、又三郎は思った。


「だから、私はあのお店での生活しか知らないし、こうやって男の人と一緒に出掛けることなんて、今まで一度もなかった。今日が私の、生まれて初めてのデート」


 デートという言葉は初めて聞いたが、無貌むぼうから与えられた知識で、又三郎はその意味を理解することが出来た。


 娼館で働く女達は、その多くが借金のかたとされた者や、経済的に事情のある者だったが、それでも故郷に言い交した相手が待っているような場合は、まだ良い方なのだろう。運良くどこかの富豪に身請みうけされて商売から足を洗うことが出来た者とて、それが必ずしも己の幸せに結び付くとは限らない。


 ましてやウェンリィのように、他に行くあても無く、幼い頃から娼館で過ごしてきた身であれば、店を訪れる客以外の男の存在など、およそ知るよしも無いのかも知れない。


「それにね、私達、お店では一応三度の食事を出してはもらえるけれども、流石にそれだけではお腹がいっぱいになれないの。お客さんにお店で食事を頼んでもらって、それを一緒に食べさせてもらって、ようやくお腹が満たせるかなって感じ」


「……」


「だから、お店の女の子達にとってその日お客さんが取れるかどうかは、そういった意味でもとても大事なことなの……私も今みたいに、美味しいご飯がお腹いっぱい食べられたことなんて、ほとんどなかったなぁ。時々ジーナさんや他のねえさん達が、お客さんが頼んだ食事をこっそり取り置いて私達に分けてくれるのが、凄く嬉しかったりするんだけれどね」


 又三郎が無言のままでいると、ウェンリィはと気が付いたかのように慌てて弁解した。


「あ、でも、これって私達の世界ではごく普通のことで、別にターシャさんがケチだとか、そういった話じゃないから誤解しないでね」


「ふむ」


「それに、他のお店だったら働けなくなった女の人はすぐにお店を出ていかなきゃならないんだけれども、ターシャさんはそういう人達を何とかやりくりして裏方で使ってくれたり、それが出来なければ次の働き口を紹介してくれたり、私達にも本当に良くしてくれているの」


 又三郎はウェンリィ達が住む世界の過酷さを思い、言葉に詰まると同時に、一見強面こわもてなターシャの意外な一面を見た気がした。


 その様子を察したウェンリィが、小さく苦笑した。


「マタさん。ターシャさんって見た目はちょっと怖いけれど、本当はとっても優しい人なのよ。まるでどこかの誰かさんと一緒」


「そうか」


「今日の買い物のことだって、ターシャさんに相談したら『明日その分頑張って働け』って言って、すぐにお休みをくれたの」


「そうか」


「今日は、私にとっての生まれて初めてが二つ。マタさんとデートして、お店以外の場所でおいしいご飯をお腹いっぱい食べられた。だから私、凄く嬉しいの」


 そう言って笑ったウェンリィの笑顔が、又三郎にはとても儚く見えた。まるで水面みなもに浮かぶ泡沫うたかたのようだ。


 思えば京島原の遊女達も、自ら望んでその境遇を受け入れていた者はいなかった。そのはずだった。


 ウェンリィにしても、両親を早くに亡くすことさえなければ、ごく普通の町娘として当たり前の幸せな日々を暮らしていたのかも知れない。ほんの少しの人生の歯車の掛け違いが、人の生き方をがらりと変えてしまうことが、又三郎には何ともやるせなく感じられた。


「あー……実は、だな。ウェンリィ殿」


 湿った空気を払うように一つ咳をすると、又三郎は懐から一つの紙の包みを取り出して、そっとウェンリィに差し出した。


「マタさん、これは?」


 ウェンリィが、不思議そうに首を傾げた。又三郎は少し気恥ずかしそうに笑った。


「うむ。そなたには何かと世話をかけたからな、その礼だ」


 ウェンリィが包みを開けると、中から淡い桜色のストールが出てきた。先の店で商品を買う時に、又三郎がウェンリィに隠れてこっそりと買っておいたものだ。


「これから寒くなるのは、ウェンリィ殿も一緒だろうと思ってな。それがしにはその、品物を選ぶ目が無いようだったから、同じものの色違いぐらいしか選べなかったが」


「……」


「それがしの生まれた国で咲く花の色だ。ささやかなものだが、受け取ってもらえるとありがたい」


 最後に桜の花を見たのは、ふと気が向いて京の知恩院に足を運んだ時のことだっただろうか――あの時は既に満開の時期を過ぎていて、はらはらと風に舞い散る桜の花びらが、晴れた青空に映えてとても美しかったことを、今でも覚えている。あの時に見た桜の儚さが、どこかウェンリィに似ていると又三郎は思った。


 ウェンリィはしばらくの間、じっと又三郎からの贈り物を見つめていたが、ややあってうつむくと、人目をはばからずに大きな嗚咽を漏らし始めた。


 その様子が周囲の注目を集め、又三郎は激しく動揺した。


「おい、ウェンリィ殿、そのように泣き出されては困る」


「マタさんは、とても悪い人です。大嫌い」


 大粒の涙をぼろぼろとこぼしながらも、ウェンリィは顔を上げて笑った。


「私、男の人からプレゼントをもらうなんて、生まれて初めて」


 ウェンリィのその言葉に、又三郎は思わず頭を掻いて唸った。そこまで大げさに喜んでもらうほど、大層な贈り物では無い。そのはずだった。


「これで今日は、私にとっての生まれて初めてが三つ。マタさん、ありがとう」


 そう言って涙を拭うウェンリィに、又三郎は何とも気まずそうにそっぽを向いた。女の身の上話など、迂闊に聞くものではないと心底思った。


 ウェンリィがストールを強く胸に抱きしめて、言った。


「マタさんの良い人には悪いけれど、私は今、とっても幸せだよ」

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