Episode 5-5 戻る場所

 翌日。アイギルの街を、又三郎が歩く。


 とても良い街だ、と又三郎は思った。朝早くから、人の活気で満ち溢れている。流石は遠い異国との交易の玄関口だ。今日は天気も良く、陽の光が輝く中、海から柔らかく吹く風が心地よかった。


 何より、昨晩食べた魚料理が、とても美味かった。港町ということで、新鮮な魚介類が安く食べられる。少しだけだったが、酒も飲んだ。出来れば米を食べたかったが、流石にそれは叶わなかった。


 教会での食事では、基本的に魚が出るようなことはなく、肉の類でさえもあまり食べることがない。この世界では食材の鮮度保持が難しいからという理由もあったが、ティナが帰ってきた時以外は、ほぼ毎日が粗食だった。


 これといって行く宛てもないので、ぶらりと市場を覗いてみた。そこは行き交う大勢の買い物客で賑わっていた。


 たまたま店先を覗いた魚屋の一角では、干物が何種類か売られていた。店の主人に聞くと、売れ残った魚は傷む前に手早く捌いて、保存がきくように加工して売っているらしい。


 自分が元いた世界での食事を思い出しつつ、その干物をいくらか買うことにした。これならば教会に持ち帰って、子供達に食べさせることが出来るだろう。


 乾物屋では、商船で運ばれてきた異国からの品々が数多く並んでいた。その中に、先日教会でも飲んだ紅茶の茶葉が売られていた。


 紅茶は原産地がイシュトバール王国ではないため、主にアイギルの街を通じて国外から輸入される。嗜好品としては、やや貴重な部類に入る品だった。ナタリーへの土産として、少量買い込んだ。


 その他、モーファへの帰路で必要になる保存食も買った。固いパンに、チーズと干し肉。帰りの荷物は何やら食べ物ばかりが目立ったが、半分近くはモーファまでの道中で消える予定だ。


 港の一角にも立ち寄ってみた。商船と思われる大きな帆船が、何隻か岸壁に係留されていた。又三郎は大坂の街で、菱垣廻船ひがきかいせんを見たことがあったが、それよりももう少し大きな船だった。


「そこの若い御仁、このような場所へ何か御用かな?」


 ふと振り返ると、そこには白髪の老水夫が立っていた。長年潮風に吹かれて出来たものだろうか、深いしわが顔中に刻まれていた。


「少し散策でもと思って立ち寄ったのだが、邪魔だっただろうか?」


 又三郎がそう言って会釈をすると、老水夫はゆっくりと被りを振った。


「いやいや、別に構わんさ。むしろこちらの方こそ、不意に声を掛けて済まなんだ……アンタがあまり見かけない恰好をしていたので、てっきり異国の旅人かと思うてな」


「うむ……まあ、そのようなものかな」


 曖昧に答えた又三郎を、老水夫がしげしげと眺めた。


「ところでアンタ、これからどこへ向かいなさる?」


「明日にはモーファの街へと戻るつもりだが、それが何か?」


 怪訝な顔をした又三郎に、老水夫が皺だらけの顔を歪めて笑った。


「戻る、と申されたか……いやなに、それならば別にいいんじゃよ」


「別に良い、とは……一体どういう意味だろうか」


 老水夫の言葉の意図が分からず、又三郎は首を傾げた。空を飛ぶ海鳥が、短く鋭く鳴いた。


 老水夫がすっと目を細めた。


「どうか気まぐれな年寄りの耄碌もうろくと、笑って見逃して下され……アンタのその目を見ていると、どうにも他人のようには思えなんだのさ」


「目?」


「海の男は皆、澄んだ綺麗な目をしているものでな。自由な海の上で、いつも水平線の彼方を見ているからだと言われておるんじゃが」


 老水夫はかたわらに係留された船を見上げて言った。


「ワシはこれまで、人生の大半を船の上で過ごしてきた……今乗っているこの船で、かれこれもう五隻目になるかの。ワシにとっては船が家、唯一の帰る場所でな。船の仲間以外には、家族のような者もおらん」


「……」


「他に生き方を知らなんだし、別に後悔などもしちゃおらんのだが……この歳になると時々、己の家族が待つ家というのは、一体どういうものだったのだろうかと思う時がある」


「誠に失礼だが、御老、所帯を持つ機会はござらんかったのか?」


 又三郎の問いに、老水夫はくくっと喉を鳴らして自嘲気味に答えた。


「そりゃアンタ、ワシは若い頃からずっと、勝手気ままに海の上で生きてきたからな……そんな男と一緒になろうなどという酔狂な女子おなごは、何処どこにもおらなんだ。ワシはこのままゆるゆると、海の上で一生を終えるだけじゃよ」


 そう言うと老水夫は又三郎に向き直り、深く染み入るような笑みを浮かべた。


「アンタは先程、旅をなされていると申されたから、その辿りつく先は一体どこなのかと思うただけなのじゃが……なに、戻る場所があるというのであれば、それに越したことはない。船にとっての港と同じじゃよ、せいぜい大事になされるが良かろうて」

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