Chapter1 新世界

Episode 1-1 目覚め

 又三郎は、目を覚ました。


 そこは見たことのない部屋の中で、又三郎は今まで使ったことのない寝台の中にいた――これは確か、ベッドというものだ。随分と古めかしいものらしく、マットレスが薄いため、寝ていた背中があちこち痛かった。


 部屋の窓の外からは、明るい日差しが差し込んでいた。身体を起こして、更に辺りを見渡してみる。粗末な造りの机と椅子、そして小ぶりなクローゼットがある。どれも又三郎にとっては初めて見るものばかりだったが、なぜかその名前と用途を理解することが出来た。


 又三郎はベッドから降りた。おそらくは寝間着なのであろう、見慣れない衣装を着せられていた。部屋の扉を開け、廊下へと出る。年季の入った非常に古い造りだが、それなりに広い建物のようだった。


 これからどうしたものかと又三郎が思案していると、不意に背後から声がした。


「あら、ようやくお目覚めになられたのですね。良かった」


 又三郎が振り向くと、そこにはすらりとした若い女が立っていた。


 歳の頃は、おそらく二十歳を少し過ぎたぐらいだろうか。軽く波打った背中辺りまでの長さの金色の髪に、晴れた夜空のような藍色の瞳。造作の整った顔立ちが、柔らかく微笑んでいる。黒を基調とした長衣を身にまとい、首には何かのシンボルをかたどった装飾を施したアミュレットを下げていた。


「お身体の調子はどうですか? どこか痛いところなどは?」


 そう言って柔らかく微笑んだ女に、又三郎は少し面食らった調子で答えた。


「ああ、いや……大丈夫だ、かたじけない」


「それは良かったです。でも、貴方は丸二日ほど目を覚まさなかったのですから、まだ無理はなされないほうが良いですよ」


 女は又三郎を元いた部屋へと招き入れ、再びベッドで横になるようにうながした。


「きっとお腹が空いておられるでしょう? 今何か、食べ物をお持ちしますね」


 ベッドに身体を横たえた又三郎にそっとシーツを被せながら、女が笑った。


「色々と世話になったようで済まないのだが、ここはどこで、それがしはどうしてここに?」


 又三郎の問いに、女は一瞬目を丸くしたが、すぐに相好を崩した。


「ここは豊穣の女神エスターシャ様を祭る教会で、貴方はこの教会から少し離れた道端で倒れておられたのです。それを、うちのミーシャが見つけてくれたので、ここにお運びした次第です」


 豊穣の女神エスターシャ。又三郎には聞き覚えの無い名前であったが、おそらくはこの世界の神の名前なのだろう。


「ふむ。ではそのミーシャ殿が、それがしの命の恩人という訳か」


 又三郎がそう呟くと、女は小さく苦笑した。


「はい。その……最初は貴方が随分と見慣れない恰好をなされていたので、どこのどなたかも全く分からず、正直なところいかがしたものかと思ったのですが。エスターシャ様にお仕えする身としては、困っておられる方を見過ごすわけにはいきませんでした」


「なるほど。それは大変世話をかけ申した、感謝いたす」


 又三郎はそう言ってから、やや不安げに辺りを見回した。女はしばらくの間、その意図を理解しかねていた様子だったが、やがて得心したように軽く頷いた。


「貴方が着ておられた服は、洗っておきました。そこのクローゼットの中にありますよ。貴方がお持ちだった二本の剣は、今は教会の一室で保管させていただいております」


「あの刀二振りは、それがしにとって命のようなものだ。今すぐ返してもらいたい」


 又三郎はそう口にしたが、女は静かに首を横に振った。


「大変申し訳ありませんが、今はまだお返しすることが出来ません。ご了承下さい……ところで、申し遅れましたが、私はナタリーと申します。貴方のお名前は?」


 控えめだがきっぱりとした口調でこう言われてしまうと、又三郎としてもそれ以上の要求をすることが出来なかった。又三郎は小さく息を吐いてから答えた。


「大江又三郎と申す」


「オオエマタサブロウさん、ですか? 立派なお名前ですね」


「いや、名は又三郎で、大江はうじだ」


「えっと、氏、と言いますと…ひょっとして家名のことですか? それはさぞや名のある家のお方なのでは?」


 ここまでのやり取りで、この世界に住む人間の多くは氏を持たないということを、又三郎はなぜか思い出した。きっとこれらのことは、すべて無貌が又三郎に授けた言葉や文字にまつわる知識として関係があるのだろう。


 見たことも聞いたこともない物事について、スラスラと理解が出来てしまうことに、又三郎は強い違和感を覚えずにはいられなかった。


「別にそのような大層な身分の者ではない。それがしのことは、名で呼んでもらえれば良い」


「では、マタサブロウさんとお呼びすれば良いのですね」


 ナタリーが又三郎の名を呼び辛そうにしているのを見て、又三郎は苦笑した。


「余りに妙なものでなければ、呼びやすいように呼んでもらって構わない」


「そうですか。それではお言葉に甘えて、マタさんと。直ぐにお食事をお持ちしますね、マタさん」


 部屋を出て行ったナタリーの最後の言葉に、又三郎は不意に懐かしさを覚えた。新選組にいた頃にも、親しい仲間達からは又三郎の又と三の二文字をとって「又さん」と呼ばれることが多かった。


 無貌の話によれば、自分は淀千両松の戦いで戦死したということだったが、きっと新選組の他の仲間達は、その後も生き延びて薩長土連合軍との戦いを続けていったのだろう。


 無事にあの戦いを生き延びた仲間達が、その後はどうなっていったのか――又三郎はふと、寂寥せきりょうの思いに駆られた。


「そう言えば」


 又三郎は、無貌が最後に言った言葉を思い出した。


 ナタリーは部屋を出てここにはおらず、今は又三郎ただ一人である。一つ、咳払いをした。


「すてえたす」


 又三郎が呟いた。だが、特に何も起こらない。


 あの女、やはり絶対に斬る――又三郎は再び心に誓った。

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