動揺 / 人間失格

 結局のところ、俺に学園を休む勇気なんてものはなかったようで、燃料の切れたロボットのような状態で学園に登校し、昼休みまでいつも通り授業を受けてしまっていた。

 そして今は、廊下の端にある窓から、中庭を眺めている。

 昨日の言葉の通り、中庭には七瀬がいて、他の女子たちと楽しそうに話をしながら器用に弁当をつついている。

 周囲の男子もこれまた七瀬目当てなのか、友達同士で食べながらもチラチラと視線を七瀬に向けている。

 こうして改めて見ると、七瀬が人気者なのは疑いようもない。

 きっとそのうち浮いた話も聞くことだろう。


「――あれ、桜井じゃん。珍しいね」


 やたらと聞き覚えのある声に振り向くと、そこには瀬戸がいた。

 手には未開封のパンを持っている。学食で買ってきたばかりなのだろうか。

 まあ、そういう俺の方もパンを片手に黄昏てるわけなんだけど。


「いつも教室で食べてなかったっけ?」

「まあ、たまには気分転換しようかなってね」

「らしくないな~。どうせ七瀬さん目当てでしょ?」

「は? どうしてそこで七瀬……さんが出てくるんだ?」


 危ない。動揺して人前で呼び捨てにするところだった。


「どうしてもなにも、ここから中庭見えるじゃん?」

「中庭が見えるからって女子目当てみたいなこと言われても困るな」

「またまたー」


 そう言って、瀬戸は悪戯っぽく俺の身体を突いてくる。

 かと思えば、急に真面目な顔をして耳打ちしてきた。


「本当は、今朝一緒に登校してるの見たんだよね」


 その言葉を聞いた瞬間、背中がぞわりとした。


「――変なことを言うのはやめろ」


 思わず目を見開き、そのまま瀬戸を睨みつけてしまう。

 そのまま身構えるのは完全に反射的なもので、俺は自分の意志とは無関係に闘争反応を示してしまっていた。

 自分の中の感情を抑えられない。

 俺の中に先天的に備わった、無鉄砲で暴力的な側面が顔を覗かせる。

 俺が一番嫌いな、俺の姿。


「おー、こわ」

「…………すまん、ありもしないことを言われてつい、びっくりしてしまって……」


 冷静に考えて、今朝の出来事なんて見られているはずがない。

 七瀬とやり取りをしていたのは十分にも満たないし、ほとんど俺の家の近くだった。

 同じ中学に通っていた生徒なら、生活圏内が近いせいで見られていたかもしれないが、この学園では俺と七瀬だけのはずだ。

 だから、あんな場所で俺たちの姿を瀬戸が見るはずなんて――


「知らなかった? 私、二人と同じ中学だったんだけどな」

「――なん、で」


 瀬戸が同じ中学? そんな馬鹿な。

 同じ中学出身の第三者がいる可能性を考えていないわけではなかった。

 しかし、入学してすぐに、俺は念入りに各クラスのメンバーを見た。

 そして、同じ中学出身の人間はいないことをきちんと確認した。

 俺は七瀬とは違い、いじめという理不尽な刻印もなかったため、他の面子ともまあまあ無難に交流ができていた。

 だから、同じ学年の全員の顔を知っていると言ってもいい。

 だとしたら、どうして。


「あー、私は三年の最後の方に引っ越してきたからねー。ほとんど登校できなかったし、二人は全然気づかなかったかも」

「…………うそだろ」

「嘘じゃないよ。ほんと」


 これまでの瀬戸の言葉が、急に現実味を帯びてくる。

 あれだけ俺と七瀬の関係を勘ぐっていたのも、俺たちのことを知っていたから?

 そうなると、こいつは七瀬の昔の姿を知っているのか?

 七瀬が一番嫌いな、七瀬の姿を。

 そう考えると、思わず握りしめた右手に力が入る。

 馬鹿げた感情に、身体を支配されそうになる。


「――あー、ちょっと待って」

「…………何が」

「そういうのじゃないんだって、ほんと」

「は?」


 抽象的な瀬戸の言葉に含まれた意味がわからず、さっきまで湧き上がっていた感情が欠け落ちていく。


「いやだから、バラしたりとかしないから」

「……何を?」

「二人のこと。付き合ってるんでしょ?」

「は?」


 これまた突然の論理の飛躍に困惑する。

 年頃のみんなが恋バナを好むのはわかるが、それにしても七瀬といい、どうして何でもかんでもすぐそれに結びつけるんだ。

 男がみんなそんなことばかり考えてるなんて、暴論だぞ。

 心の中でそう呟きながら、気持ちの方はすっかり萎え切ってしまった。


「あれ、違うの?」

「違う。そんなのあり得ない」

「そうかなー。わりとお似合いだと思うけど」


 そんなわけがあるか。美人とケダモノがお似合いなのは、キラキラとしたフィクションの中だけだ。

 生憎と、俺の人生はノンフィクションだからな。


「俺が黙っていて欲しいのは、その……俺なんかは関係なく、純粋に七瀬のことだ」

「んー、どういうこと?」

「七瀬の……昔の姿だよ。気にしてるんだ、あいつ」


 俺に女性の美醜感覚はよくわからないが、中学の頃の七瀬は、ハッキリ言って地味でブサイクという扱いを受けていた。

 今よりずっとぽっちゃりしていたし、今はコンタクトだが野暮ったい眼鏡もかけていた。

 素材は良くても、みんなが彼女に惹かれることはなかった。

 むしろ、そうした身体的特徴を揶揄し、七瀬をいじめる人間は後を絶たなかった。

 はじめは七瀬に好意的な相手も、次々と彼女から離れていった。

 だから、七瀬はあの頃の自分を嫌っている。

 誰にも好かれない自分の姿を知られることを、怖がっている。


「あー、それこそないない」

「…………そう、か?」

「七瀬さん、ホント頑張ってるよね。すごいと思う。あんなに頑張ってる子を馬鹿にするなんて……そんなの、自分の方が惨めで消えたくなるよ」


 そう言って、瀬戸は窓から七瀬を見る。

 その表情は柔らかくて、とても嘘を言ってるようには見えなかった。


「……良かった」


 最初に瀬戸が話し出した時はかなり焦り、パニックになってしまったが、どうやら全ては取り越し苦労だったようだ。

 胸の重みが取れた俺は深く息を吐き、安堵する。


「それよりさ」

「ん?」


 話が終わったはずの瀬戸が、俺を真っすぐに見てくる。


「私が興味あるのは、むしろ桜井の方なんだよね」

「……は?」


 普段から散々隣の席で会話しているというのに、今さら興味がどうというのはさっぱりよくわからない。

 何か面白いことをしただろうか。


「さっき、私のこと殴っちゃいたかったでしょ?」

「――いや、そんなことは……」

「いいよ、誤魔化さなくて。中学で桜井は有名だったから」


 与り知らないところで根も葉もない悪名を轟かせていたらしい。

 正直、幼稚な子供の武勇伝みたいな感じがして恥ずかしい。


「私を殴ったらさ、絶対トラブルになるよね。停学になるだけじゃなくて、最悪退学もするかもしれないし」

「……まあ、な」

「でもほとんど躊躇してなかったでしょ? 七瀬さんのことバラしちゃおっかな~って私が言ってたら、殴るまではいかなくても、絶対掴みかかってきたよね」

「それは…………ない」


 ないと、思いたい。思いたいが……本当はわかっている。

 自分の中にあるどうしようもない凶暴性の存在に気づかない鈍感さを、ついぞ俺は持つことができなかった。


「――桜井はさ」

「…………」

「なんで、そうやって迷わず自分を犠牲にしちゃうの? 他人のために」

「…………なんでだろうな」


 瀬戸の疑問は、俺の喉の中を重たく通り過ぎていった。

 自己犠牲に酔ってるなんてあり得ない。

 世界平和なんて、高尚な目標を掲げているわけでもない。

 でも、瀬戸が指摘する自分の性質について、自覚がないわけでもない。

 こんな自分が嫌いなのに、続けてしまう。

 ちっとも気持ちよくなくて、頑張れば頑張るほど胸が不快感で満たされて、吐きたくなるのに、やめられない。

 そして、こんな自分が嫌いなのにちっとも変われない自分が、何より嫌いだ。


「桜井って、ほんと面白いよね」

「どこがだよ……」


 瀬戸は笑いながら、また悪戯っぽく俺の身体を突いてくる。

 こういう距離感も、案外嫌いでもないかもしれない。


「七瀬さんと付き合ってないんだよね?」

「ああ」

「じゃあさ、私と付き合わない?」

「――――」


 こういう時、本当ならみんな喜ぶんだろうな。

 はにかんだり。頬をかいたり。

 緊張で急に声が大きくなったり。挙動がおかしくなったり。

 告白の現場にたまたま居合わせたことは、何度かある。

 その甘酸っぱい青春の姿に、通りすがりの俺でもむずがゆく、そして微笑ましい気持ちになった。

 でも、そうした光景が、心の中で急速に遠ざかっていく。

 普段は一緒に生活し、一緒に笑ってるはずのみんなの中から、俺だけが取り残される。

 美しい日常から、俺の存在だけが欠落していく。

 悲しいような、空しいような孤独感。

 きっと永遠に埋まらない胸の虚から、排気ガスが噴き出していくかのよう。

 母さんの顔が浮かぶ。

 母さんの感情的な――ヒステリックな声が、耳の奥で鳴り響く。

 それがきたら、もうおしまい。

 駄目だ。俺は駄目なんだ。

 俺は、みんなみたいにはなれないんだ。

 期待しないでくれ。置いていってくれ。

 俺は。俺は――


「あはは、冗談だよ」

「………………そう、か」


 軋んだ心臓が、動き出す。止まった息が、吹き返る。

 俺は、瀬戸の言葉に心底安堵していた。


「桜井ってば顔がマジなんだもんな~」

「はは、は……」


 きっとさっきまでの俺の顔は、金魚のように口をパクパクさせていて、たいそう滑稽だったに違いない。

 でも、これが俺なんだ。

 一生逃げられない、一生付き合い続けなきゃいけない、俺という人間の本質だ。


「じゃあねー。また教室で」

「ああ……また、な」


 その場を去る瀬戸の姿を見ながら、俺は動けずにいた。

 動こうとすると、手に持ったままのパンを力任せに握りつぶしてしまいそうだった。

 自分の惨めさに耐えられそうになかった。

 だから、今は七瀬に目を向ける気にもなれなかった。

 窓枠に背を預けながら、廊下の天井についている電球の形を眺めるぐらいしか、できそうになかった。

 どうして自分は歪なんだろう。この電球みたいに、どうして自分は綺麗な形になれないんだろう。

 そんな文学的なことを、強引に考えながら。

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