馬鹿
今朝、七瀬をあれだけ傷つけておきながらも、逃げられない使命感に従い、七瀬が帰宅するのを俺は遠目に見届けた。
そして一足遅れて帰宅し、いつも通りにシャワーを浴びて自室に戻っても、スマホは机の上という定位置をしっかりと保っていた。
通知を見ても、今日は驚くようなものは何もない。
ゲームアプリの通知がならんでいるだけだ。
いつも通りの平穏。いつも通りの日常の光景。
しかし、今となっては、それはたった一つの事実を如実に浮かび上がらせていた。
俺は、七瀬に嫌われたのだ。
「……これでいいんだ」
自分に言い聞かせるように、呟く。
七瀬と過ごした日々は、俺の人生の中でも上位に入るぐらい楽しい時間だった。
思い出せば、今でも懐かしい気持ちで胸が満たされて、幸せになれる。
最近の非日常的な出来事は、確かに俺の中にある七瀬への情念を強く目覚めさせた。
でも、俺は七瀬の幸せの足枷にはなりたくない。
俺との関係が七瀬の汚点になって、これからの七瀬の幸せが壊れてしまうのは、何より俺が恐れることだった。
「ははは」
無味乾燥なゲームアプリを手で弄びながら、自分の思考に笑いが漏れた。
それなら、この胸の感情はなんだ? 桜井友一。
これでいいと言っておきながら、どうして一丁前に寂しさなんか感じてるんだ。
一年間ずっと大丈夫だっただろ。
彼女のことなんて、どうせ忘れてただろ。
だから平気だったんだろ。
「――ま、そんなわけないんだけどな」
忘れることなんてない。たとえ進む学園が違ったって、絶対に忘れない。
それはなにも、七瀬に限った話ではない。
俺と関わった人はみんな、確かに俺の人生の一部で、そして「今の俺自身」の一部だ。
だから、七瀬の存在も、俺の心身に深く刻みこまれている。絶対に逃げられないぐらい深く。
もう関わらないと約束した日、そして今日、俺の心と身体は引き裂かれた。
苦しくないわけがない。痛くないわけがない。
傷口が塞がることなく、ずっと血が流れ続けているんだから。
「だから嫌だったんだよ」
七瀬と再び話せば、こうやって苦しむことは目に見えていた。
だから、二度と話したくなんてなかった。
やろうと思えば、いくらでもチャンスはあった。
何も電話じゃなくても、休日に会ったりしてもいいんだから。
学園で会わないようにしていればそれでいいわけで。
でも、しなかった。怖かったから。
七瀬はいつか必ず、俺の目の届かないずっと先まで行ってしまう。七瀬にはそれだけ人としての魅力がある。
実際に、七瀬は当時の俺が知らなかったぐらい、ずっと魅力的になった。
偶然世界に発見されなかっただけなんだ。
七瀬がみんなに見つけてもらえた今となれば、いつか絶対に俺たちの道は別れる。
七瀬と関われば関わるほど、その後の俺の苦しみも強くなる。
だから、俺は高校を卒業したら遠くに行くことを考えていた。
七瀬や他のみんなのことを思い出さなくて良いぐらい、遠くに行きたかった。
進路はまだ決まってないけど、とにかく遠くだ。
「よし」
思考は拡散したが、まあいい。建設的に考えよう。
七瀬とはそもそも縁が切れていたわけだし、変に付き合ったって将来的な苦しみが増していくだけだ。
「趣味の話し相手になる」という約束を昨日の今日で破るのは本当に申し訳ない気持ちになるが、七瀬にならきっとそのうち良い相手が見つかると信じられる。
そうなると、後は七瀬につきまとうストーカーの件だけになる。
それさえ解決してしまえば、俺は晴れてお役御免。気楽な日常が待っている。
それでいいじゃないか。それが、俺の人生での幸福の最高到達点だ。
「――ん」
突然、手に持ったスマホが震える。
画面に表示される通知は、トークアプリのものだった。
まさか、と思いながら開けば、案の定「紗花」の字が目立っていた。
嫌な汗が流れる。
正直に言えば、今のこんな気分でこのメッセージを見たくはない。
でも、見ないといけない。七瀬に何かあっては困るから。
「くっそー」
見えない何かに文句を言いながら、親指を倒す。
そこに書いてあった文字は至って簡潔。「これはいい?」。
ついつい、笑ってしまう。
“これ”ってなんだよ、とか。こんなんで会話が通じるわけないだろ、とか。
言いたい文句はいくつか出てくる。
でも、そんな言葉は返さない。この短くて曖昧なメッセージの意味がわかってる俺も俺だ。
「……馬鹿だな、俺は」
七瀬に返信を送りながら、窓の外を眺める。
何か見たいものがあったわけではないが、どこか遠くを見たい気分だった。
あれだけ気持ちを整理していたのに、たったこれだけのやり取りで――七瀬とまだ関われることに、少しは喜びを感じてしまうんだから、俺は本当に馬鹿だ。
いつか絶対に、今よりもっと苦しむことになるのに。
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