第137話 決戦前夜
織田家の筆頭宿老であった柴田勝家討ち死の報は、近江にいる将軍信重と諸将に大きな衝撃を与えた。
他にも、佐久間信栄、河尻秀長、菅屋角蔵、飯尾尚清、池田長吉、塙安弘、野々村正成など討ち死にした者は多い。
明智家は命令を無視して勝手に長門の所領に戻ってしまい、伊賀の林通政は津田家に降伏した。
度重なる敗戦に、信重は次第に不安になってきたのだ。
ところが、幽斎はこの敗戦がそう悪い事でもないと思い始めた。
織田家譜代家臣の筆頭柴田勝家以下、彼が纏めていた多くの譜代家臣が討ち死にして没落したからだ。
敗戦であるので、幽斎としても処罰するのは容易かった。
所領である越前と加賀を失っている柴田家は、養子盛政の討ち死にで傍流しか一族が残っていない。
特に奮戦した家臣の生き残りも少なく、彼らは細川家や織田幕府に吸収される事となった。
佐久間家、河尻家、菅屋家などもまだ跡継ぎが幼く、家臣も大量に失ったので所領は大きく削られている。
討ち死にした兵数に比べ将の割合が大きかったが、これは津田軍が銃撃で将を狙い撃ちするようになったからだ。
今は津田軍が一方的に狙撃する状態だが、今日子は将来を見据えて徐々に武将に華美な鎧兜や陣羽織などを禁止しようと考えていた。
将校や指揮官が目立てば、容易に狙撃の対象になるからだ。
そのために、将校や指揮官用の腕章や軍帽、統一した軍服などの試作に入っている。
今回の戦で間に合わないが、将来的には津田軍全軍で採用する予定であった。
「(柴田家は傍流しか残らずに没落、数百から数千を率いる事ができる家臣はいくらでも使い道がある。幕府と細川家で引き取ろう。越前と加賀を取り戻したら、ほぼ幕府の総取りでよかろう。朝倉家には一郡くらい渡しておくか……)」
彼らの削られた領地は織田幕府の直轄となり、敗戦にも関わらず織田幕府の力は増している。
そして、織田幕府の力とはすなわち幽斎の力でもあった。
織田幕府内において、まだ幽斎の敵は多い。
完全な独裁権を得るために、津田家との戦いと織田幕府内での政敵排除を同時に行う必要があった。
「なぜ呼ばれたかわかるか?」
「さあ?」
そしてもう一人、幽斎は厄介な人物を処罰する……かどうか悩んでいたので、とりあえず呼び出してみた。
その人物とは、勿論森長可の事だ。
彼を含めた森五兄弟は後方に下がって戦に参加せず、一人も犠牲者も出していない。
柴田家、佐久間家、河尻家などの生き残りは、激しく森家をなじった。
主なターゲットは、森軍の総大将であった長可である。
兄の可隆は信重の傍にいたので、これは処罰の対象から除外されていた。
幽斎は、可隆の真面目さと誠実さが自分の天下を邪魔しないと判断し、信重の傍に置いていたのだ。
「俺、結構頑張ったけどな」
「頑張っただと? 戦いもせずにか?」
「俺は、耄碌した権六殿の尻ぬぐいに忙しかったんだぜ」
津田軍による銃撃と砲撃に向けて突撃を主張した勝家に意見した結果、森軍は後方に下げられてしまった。
勝家は、直接森軍に下がれとは言っていないが、『もういい』とは言っている。
これは柴田家の生き残りの家臣から証言を得ているので、森軍の後退が勝家によって認められたのは確かだ。
だから、森軍が後退した事で長可を処分するには根拠が薄かった。
討ち死にした勝家が森軍に対し強引に突撃を命令していればと、幽斎は内心でほぞを噛んでいた。
やはり勝家は猪武者で、討ち死にも自業自得だと思ったのだ。
「権六殿もああは言いつつも、突撃はやっぱり無謀だと思って中止すると俺は判断したんだがな。だから俺は後方で様子を見ていたんだ。結局突撃してしまったけど、いつ俺達を投入するかもしれないからちゃんと待機してたぜ」
ここで幽斎が判断に迷うのは、森軍は津田軍の砲撃が届く範囲にいた事だ。
犠牲がゼロなので内通を疑ったが、いくら調べてもそんな事実はなかった。
だから、津田軍が森軍を攻撃しなかったのは、突撃した織田軍に集中するためだと見る事ができる。
だが、どこか釈然としない部分もあった。
「俺達は、権六殿の不始末の後始末にも奔走したぞ」
織田軍は多くの将を失い、ほぼ指揮が崩壊したといってもおかしくなかった。
四万人近い敗残兵の群れ。
彼らに、ここは味方の領地だから敗残兵になっても冷静になれと言ったところで効果などない。
どさくさに紛れ、略奪などの悪事を働く者は少なくなかった。
森軍は敗残兵を上手く纏め、津田軍からの追撃も受けないように撤退したのだから、これに関して幽斎は長可を褒める必要があった。
大嫌いで、狂犬と同じだと思っている若造を褒める。
幽斎は胃が痛くなってきた。
長可の怖いところは、いまだにキレると何をするかわからない点にある。
もしいきなり長可に斬られて命でも落としたら。
ようやく叶いかけている天下への道が閉ざされてしまう。
こういう時こそ何よりも注意すべき……と思っているように見せて、実は幽斎は長可が苦手であった。
大嫌いな光輝の対極にいる人物で、だからこそ苦手とも言えた。
「それで、減封か? 改易か? 切腹かな?」
「……」
もう一つ、幽斎は思った以上に長可が頭がいいので嫌いであった。
その賢さを教養に使うのではなく、今と同じく底意地の悪い嫌味を言うために使うところが嫌なのだ。
今回の件も、悪いのは自分の意見を退けて暴走した勝家。
事実であったが、悪党である長可はわざと勝家と対立して突撃に参加しなくてもいいようにした。
そういう悪知恵が働く部分が、幽斎が長可を嫌う最大の要因であった。
「此度の敗戦は、柴田勝家に責任がある。それは己の死で補ったし、柴田家も罰を受けた」
柴田家は、後継者である養子盛政が討ち死にしていたので、急遽傍流の傍流が家督を継いでいる。
だが、彼らに上杉謙信によって奪われた越前と加賀が戻ってくる事はない。
このまま銭で雇われる幕臣として、飼い殺しにされるだけだ。
何とか生き残った家臣も、引き抜かれてしまった者が多かった。
もはや、柴田家に織田幕府筆頭大老家としての面影は存在しない。
復活もないであろう。
それが誰にでもわかるくらい、柴田家の損害は大きかった。
「俺は思ったんだがよ。権六殿は無理に伊勢に侵入しなかった方がよかったな」
「そうだな」
「津田信輝の狙いは伊勢志摩だけだったはず。あの兵数で紀伊や大和に手を出すと、近江の幕府軍から逆襲が来る可能性が高いから、両国だけで侵攻は止まった可能性が高い」
「貴殿の考えに同意する」
幽斎は戦の才能も十分に備えていた。
それが正しいと思える以上、長可の考えに異議を唱える事はなかった。
「津田信輝と睨み合っていればよかったんだ。幽斎殿の津田軍の消耗を狙う方針に合致するしな。もう一つある。津田軍は分散された。関ヶ原の本軍に大攻勢をかける絶好の機会でもある」
長可の意見を聞き、幽斎は彼を総大将にした方がよかったかも……というわけにはいかなかった。
幽斎は長可を嫌っているし警戒もしている。
六万人の軍勢を与えた結果、津田軍に同調して幕府軍に攻撃でもされたら堪らなかった。
ならば処罰すればいいのであろうが、長可はミスを犯していない。
何の罪のない長可を処罰すれば、その動揺も大きいはず。
だから幽斎は、長可を処分するわけにはいかなかった。
更なる家臣の裏切りを誘発してしまうからだ。
「関ヶ原の津田本軍に攻撃を仕掛ける時、森軍の働きに期待していいのかな?」
「俺は、最初からそういう作戦の方が好きだな」
織田幕府軍の大軍と、津田軍の大軍が激突する。
戦が好きな長可からすれば、天下分け目の戦いで暴れられた方が嬉しい。
自分の心情を長可は幽斎に正直に話した……ような気が幽斎はした。
実際に長可は、参加した戦では常に前に出て積極的に戦っていたからだ。
彼に『鬼武蔵』というあだ名がついているのは伊達ではなかったのだから。
「もうすぐ、津田本軍への総攻撃を始める」
「それは重畳」
「重ねて言うが、貴殿の活躍に期待する」
「そうだな、津田光輝の首を獲って、勲功第一位を得るか」
「そういう気持ちでやってくれればいい」
幽斎は、長可にもう話は終わりだという表情を浮かべた。
それに気がついた彼は、もう話す事もないと、幽斎の下から去っていく。
「(息子の信輝の方も厄介だったのに、本軍を総攻めかよ。これは死なないように動かないとな)」
当たり前だが、死ぬのは嫌いで人並みに欲もある長可は、如何に功績を稼ぎつつ勝ち馬に乗るか、とてもそうは見えないが冷静に頭の中で色々と考え始めるのであった。
「幽斎、大丈夫なのか?」
「ご安心を」
ただ幽斎も、勝家の討ち死にまでは予想外であった。
膠着状態かわずかに敗戦くらいを狙っていたのに、まさか討ち死にするとは思わなかったのだ。
織田譜代家臣閥の没落には役に立ったが、あまりの敗戦で信重を不安に陥れてしまった。
他の家臣が彼に讒言を行い、幽斎の蹴落としを目論む可能性があったので、細やかな対応が必要というわけだ。
「秋の収穫が終われば、いよいよ大攻勢に入れますからご安心を」
これも、計算違いであったと幽斎は思う。
持久戦に持ち込んで津田家の疲弊を狙うつもりが、逆に幕府の方が消耗が激しいのだから。
だが、まだ十分に立て直せるとも思っていた。
秋の収穫後に追加で兵を集め、分散した津田軍を倍以上の戦力で押し潰すのだ。
「兵数が少ないのでは?」
「ご安心を、追加で兵を募りますので」
「しかし、これ以上の徴兵は下々の不満を呼ぶのでは?」
信重も無能とまではいかないので、あまり大量の領民を兵として徴兵してしまうと民から不満が出るのではと、幽斎に意見した。
津田家を真似て徐々に比率を増やしている常備兵制度に逆行する方策だとも。
何よりまた戦が長引けば、食料の収穫量や幕府の税収にも響いてしまう。
信重の意見は正しかったが、幽斎は内心で舌打ちをした。
「(ちっ! 誰が余計な入れ知恵を……)確かに、常備兵制度の推進という原則から外れてしまいますが、これは一度きりの例外です」
「農民達を再び戦に追い込む事になるぞ」
織田信重はお坊ちゃま育ちなので、基本的に善人である。
幽斎も神輿としては使い勝手がいいと思っているが、ただ善人ぶった事だけ言われても腹が立ってしまう。
それを表に出す事は決してないが、実務にも関わらない小僧の癖に……と思ってしまうのだ。
権力とは魔物である。
優秀で人格者でもあった彼は、その毒に犯されて徐々に性格が傲慢になってきた。
「上様、この一度きりでございます。損害も減らせますので」
「一度きりか……」
「確かに戦に駆り出される民達も増えますが、彼らにも利益があります。津田家を滅ぼして手に入る豊かな領地と莫大な富。活躍した彼らにも報いてやればいいのです。幕府の力も、足利幕府などとは比べ物にならないほど強力になります。織田幕府千年の計を達成すべく、ここは決断をすべき時です」
「そうだな……」
まだ子供である信重は、幽斎によって簡単に説得されてしまった。
続く敗戦のせいで、もし自分が津田家によって将軍の地位から引きずり降ろされたら最悪殺されるかもしれず、だからと言って自分にはどうする事もできないのを知っていたからだ。
まだ子供である信重は自分でこうするという意志がなく、結局幽斎の出す案に頷くしかなかった。
「上様、戦は数です」
「数……」
「大軍で負けてしまう例も過去にはありますが、大半の戦は数が多い方が勝てます。兵数を増やす事で勝率が上がるのであれば、是非そうするべきです。今は亡き総見院様も常に多数の兵力を整えようとしました」
「そうだな、お爺様もそうだったと聞く」
数で勝る方が勝利する確率が高く、同じ勝利でも犠牲は少ない。
まだランチェスターの法則は伝わっていなかったが、経験則として幽斎はそれに気がついていた。
だからこそ、大量の兵で津田軍を圧倒するという戦術を行使しようとしたのだ。
幽斎は当たり前の事しか言っていないのだが、信重にはその話の内容は自分を勝利に導いてくれると思い始めた。
幽斎が意図して言っているのだが、まだ幼く未熟な信重は彼の意図に気がつかなかった。
父信忠の急死により、急遽跡を継がされたのが彼の不幸であった。
成人後に将軍位を継承していれば、幽斎に幕政を壟断される事もなかったかもしれないのだから。
信重には、ただ運がなかったのだ。
「津田光輝も、秋までの命です。ご安心を」
「そうだな、我らは必ず勝てる」
信重は、自分に言い聞かせるように断言する。
そして秋となり、収穫の季節がやってきた。
織田領内の収穫量は平年どおりで、これなら食料が不足するという事態もない。
そう思っていた幽斎に、再び津田光輝からの経済攻撃が開始される。
「新しい米が出回っているのに、随分と相場が高くないか?」
近江にいる織田幕府軍の人数と消費されるであろう食料の量は、既に市場も把握済みだ。
収穫され税として納められた米には余裕があり、市場への流通量も十分にあるはず。
それなのに、なせか米の相場が上がっていた。
「また津田家による買い占めか!」
対策は十分に立てたはずなのだが、やはり制海権の喪失は痛かった。
津田家は中小の商人に委託して、徐々に買い取りを進めたのであろう。
加えて津田家は、信用度の高い永楽通宝で代金を支払ってくれる。
織田幕府は制海権を握られているので、夜陰に紛れて食料が密輸されているのだ。
現場を押さえればいいと簡単に言う者もいたが、津田家に協力している商人達もバカではない。
荷積みの最中、幕府方の役人に捕まるような場所で作業など行わないし、密輸が行われる可能性がある海岸沿いや砂浜すべてに人員を送り込めるはずもなかった。
幕府方の役人達が少人数で密輸現場を押さえようとしたら、夜陰に紛れて攻撃してきた津田家の間諜達に殺されてしまうケースも多く、幕府は密輸をほとんど防げなかった。
近江に軍勢を集中しすぎている点も、密輸の摘発に不利となっている。
「このままでは私は……」
この事態に担当者の楠木正虎は、幽斎から叱責されるのを怖れた。
元々信長の右筆であった彼は武将ではなく、内政方も兼任する文官でしかない。
彼は織田幕府という組織がなくなったわけでもなく、そこで重職にあったので幽斎の専横にも何も言わず、むしろそれに協力していた。
森長可みたいに、幽斎に煙たがられるほどの批判をできるような度胸はなかったのだ。
幽斎も内心で『楠木正成の子孫が聞いて呆れる。まあ従順で使えるからいいか』くらいに思っていた。
「幽斎殿が私の不備を上様に報告すれば、私は罷免される……」
既に七十を超えていた正虎であったが、幕府の重職を失うのを嫌がった。
何とかして台頭する若手内政官を押さえて、自分の息子利正、成虎、正久や孫達に跡を継がせたかったからだ。
「こうなれば、非常の手段で行くしかない」
焦った正虎はとりあえず怪しそうな商人を摘発し、蔵にあった米を没収、徐々に市場に流して米価の高騰を防いだ。
短期的に見れば、この手はとても有効に働いた。
だが、無罪なのに米を奪われた商人は堪ったものではない。
正虎もここで商人達を全員処罰してしまうと反感も大きかろうと米の没収だけで済ませたのだが、米の密売に関わっていた商人達からしても、米を奪われるのは大損失だ。
中には破産する者も出て、彼らの恨みは幕府へと向かう事になる。
「もう付き合いきれない!」
「俺は津田領へと向かうぞ!」
商人の中には、家族と共に濃尾、北陸、東海、関東、東北へと逃げ出す者が続出した。
津田領の開発は途切れないどころか規模を拡大させていたし、徳川領、真田領、上杉領、松永領も、関ヶ原要塞と伊勢志摩、伊賀への補給路を万全とするため大規模な街道工事が行われている。
そのおかげで、津田家に従っている大名達の領地でも、出征で戦費がかかっているにも関わらず、あまり大した負担になっていなかった。
街道工事で必要な銭は軍用道路工事名目で津田家が出してくれたので、それが景気刺激策となったからだ。
そこには、服属大名家を津田家製永楽通宝の支配下に置くという目的もある。
だが、上杉謙信などからすれば、それはもう今さらなのだ。
『大御所様が無料で街道を整備してくれるのだ。余剰の資金は支道の整備に回せば更に効果的だな』
彼は、一人算盤を弾いてほくそ笑んでいた。
『うちには元々選択肢がなかったからな。津田家側有利でよかった』
息子に軍勢を任せて飛騨で留守番をしている金森長近は、今の戦況に一人安堵した。
越中、越前、加賀、美濃と連動して街道工事が進んでおり、徐々に陸の孤島として有名だった飛騨の状況が改善しつつあったからだ。
道が通って便利になれば、飛騨の産品も外に売れて領民に銭が落ちる。
そこから税収を取る金森家としては万々歳というわけだ。
『美濃に大軍がいるから、飛騨で作った物がよく売れる。津田軍は金持ちだな。領民達にもっと売れる物を研究させないと』
加えて、上杉家が統治を始めた越前、加賀、越中、津田家が押さえて織田信房を顔役に据えた美濃と尾張では、あからさまな人気取りで津田家が資金を投入して開発を促進していた。
『あからさまで子供にもわかるが、景気がよくなる以上文句もないか』
特に関ヶ原要塞のある美濃と、軍港名目で那古野港を整備中の尾張では領民達の支持が厚い。
信房がそれとなく各地に顔を出し、『将来、織田宗家の主は尾張と美濃に戻るであろう』と宣伝していたからだ。
制海権のおかげで、津田家に占領された方が外地も含めた津田領と経済的な連携が楽なので、成長が見込めるという理由もあった。
逆に織田領は、さすがは畿内と西日本を有しているのでそう急激に景気が悪くなるわけがない。
だが成長はしないので、戦乱が終わりかけて人口が増加している今、将来的には致命的な事態に陥る可能性もあった。
「ここまでして、また米価が上がっただと!」
「いえ、正確には上がっていないのですが……」
お上に政策あれば、庶民には対策ありという。
米では幕府に没収されてしまうので、商人達は銭を、それも織田幕府発行の文禄通宝を集め始めた。
『商売しただけなのに、織田領にいる商人達は可哀想に。そうだ! 今だけキャンペーン! 今なら、文禄通宝三枚と永楽通宝一枚を交換だ!』
『再びのゴンベは種まきゃ、カラスが啄むですな』
『ちょっと利益率が落ちるけど、キャンペーンだから薄利多売で補うよ』
とのたまう、ある人物の弟と彼に従うイケメンのせいで、再び織田領内から莫大な量の銭が流出した。
「文禄通宝を永楽通宝と交換するよ。五対一で交換するよ」
米を幕府に没収されて後がない商人達は、文禄通宝を永楽通宝と交換して集めた。
地方によって多少の相場の違いはあるが、大体永楽通宝一枚に対し、文禄通宝が四.五枚から六枚で交換できた。
商人達は少しでも有利な条件で交換できる場所を探して交換を促進する。
彼らは集めた文禄通宝を、夜陰に紛れて現れる船で永楽通宝と交換した。
レートは誰かがサービスキャンペーン比率を設定したので、永楽通宝一枚に対し、文禄通宝が三枚だ。
商人は大きな儲けを出したが、彼らが頑張れば頑張るほど織田領内から銭が消える。
銭不足でデフレ状態になったわけで、同じ米価でも価格が高騰したに等しいのだ。
銭がなくて米が買えないから、彼らは織田幕府を恨むようになった。
仕方なしに物々交換を行うケースまで出て、庶民は津田領と比べて次第に統治状態が悪くなっていき、織田幕府に不満を持つ。
彼らはバカではない。
織田幕府における幽斎の立ち位置を理解していたので、彼を非難するようになるまでそう時間はかからなかった。
「永楽通宝の流通を禁じたらどうでしょうか?」
「お前がアホな事をするから、こういう事態になったのだぞ! ここで永楽通宝の流通を禁じてみろ! 石山で暴動が起こるわ!」
数少ないその価値が信用されている銭の流通を禁じる。
多くの商人のみならず、銭を所持している大名から、庶民まで敵に回すのは確実であった。
幽斎は、最初に米の没収を行った正虎を批判し、永楽通宝の流通禁止など事態を悪化させるだけだと詰った。
「銭を大量に作らせる。津田家を滅ぼせば、このくらいの失態はすぐに取り戻せるのだ!」
とにかく銭の流通量を増やすしかない。
幽斎は、雑賀孫一を呼び出して銭の生産を増やすように命じた。
「銅や錫の量に限界がありますが……」
「この際、仕方があるまい。混ぜ物をして鋳造する銭を増やすしかあるまい。そうだ! 幕府が所持する永楽通宝を材料にすればいい!」
「えっ! それはさすがに……」
それはいくら何でもと、孫一は幽斎に諫言……はできる立場にないので、やんわりと否定してみた。
「勿論、こんな手段は最初で最後だ」
幽斎はあくまでも非常手段だと述べたが、この対策は究極の悪手であった。
「何か、汚ねえ色の銭だな」
「永楽通宝との交換比率は一対八か?」
「いや、一対十くらいじゃねえか?」
あきらかに銅の含有量が落ちた文禄通宝は大量生産の余波で質も低下し、永楽通宝との交換レートが上がってしまった。
そうなると、色めき立つのが商人達である。
彼らは儲けが大きくなると、更に銭集めに奔走する事となる。
『銭の質が落ちたなぁ。三枚で一枚半分くらいか?』
『それでも、織田領からの銅の流出は維持できています』
『じゃあ、まだ続けるか』
また銭が不足し、織田幕府は庶民達から怨嗟の声を浴びる事となる。
加えて幕府は、兵員を増加するために農民や町民の徴兵を行うという布告も出していた。
「上様が変わったら、暮らしが悪くなったな」
「ああ、やはり子供では駄目だな。悪党幽斎の言いなりじゃあな」
「なしてオラが戦に行かねばならないだ!」
織田幕府の評判は、坂道を転げ落ちるように下がっていく。
武士や役人がいない場所で、庶民は幼い将軍信重と彼を操る細川幽斎を批判した。
「今度は米格の上昇が止まらない? なぜだ? 不足しないだけの量はあるはずだぞ!」
またも米価が上昇した。その理由は幽斎が出した徴兵命令にあった。
織田幕府軍が長期戦を行ったために、新たに徴兵された農民達の分翌年の収穫が落ちると市場が判断、それに備えて再び商人が米の備蓄を開始したのだ。
「九州や四国から米を集められないのか?」
「向こうも余裕はないそうです」
事前に光輝から事情を聞いている羽柴秀吉、前田利家、丹羽長重、長宗我部元親は、領民達が動揺しないように食料を囲い込んでしまった。
とても畿内に回せる分はないと回答してきた。
最悪津田領から輸入すればいいし、その場合は友達価格が期待できる。
だが、それを正直に幽斎に言うほど彼らは純情ではなかった。
どうせ制海権がないので、その米を受け取りにもいけないわけだが、それを幽斎の前で言える幕臣はいなかった。
「とにかく、相場を落とさなければ!」
と幽斎が判断した頃には、再び畿内に米が運び込まれていた。
あっという間に米が余り気味になり、今度は相場が一気に下落する。
津田家の米相場攻撃で畿内と織田幕府は再び大量の銭を失ったが、米は安くなったので庶民達からの評判が少しだけ戻った。
だが徴兵を控えていたので、前ほどまでには戻らない。
これら一連の作戦で、幕府は大量の銭を失ってしまった。
銭の不足を補うために蓄えていた金や銀を使用し、それも津田領へと流れていく。
織田幕府の政治を見ている幽斎にとっては、厳しい状況が続いた。
そしてその苛立ちは、当然津田光輝へと向かった。
常に優秀で評価されていた自分でも知らない未知の攻撃を仕掛けてくる光輝に対し、嫌悪感が混じった敵意が増大したのだ。
「あのような無学で生まれも知らぬ輩に! 必ずや彼奴を殺し、一族もすべて見つけてくびり殺してやる!」
普段決して他人には見せない醜悪な暴言を、幽斎は一人ぶちまけた。
彼の心底には光輝への恐れもあったのだが、それは意地でも認めたくない。
だから、彼への一方的な暴言で誤魔化している部分もあったのだ。
「父上、ようは勝てばいいのです」
幽斎よりも武断的な性格をしている息子忠興は、決戦を前に上機嫌であった。
忠興からすれば、津田光輝が気に入らないのであれば討てば済む話。
それだけの事なのだ。
「津田光輝のすべてを奪い力を蓄える。それでいいではないですか」
この戦いに勝利して細川家の力を強大なものとし、あとは徐々に織田幕府を傀儡化するも、不要なら討てばいい。
忠興の考え方は、特におかしなものではない。
今はまだ戦国乱世の影響が残っている。
力ある者が力ない者から奪っても、後ろ指を指されることはないのだ。
「そうであったな」
息子の言葉で、幽斎は落ち着きを取り戻した。
織田幕府の宰相的な立場を利用し、各地から追加の援軍を募る。
農民や過去に織田家に滅ぼされたり改易された浪人も集め、遂には三十五万の大軍となった。
相当に無理をしているが、これでも津田家を滅ぼせば算盤が合う。
幽斎はそう判断して、兵集めを強行した。
「鉄砲や大筒も十分に揃えておる。必ずや勝利するのだ!」
幽斎は、絶対の自信をもって関ヶ原に布陣する津田軍へと進撃を開始する。
「津田の小倅はどうした?」
「伊勢方面から、我らの横合いを伺っております」
伊勢志摩と伊賀を制圧した津田信輝の軍勢が北上を開始し、織田幕府軍の横合いからの攻撃を意図していると報告が入ってくる。
「同数で対処しておけ。時間を稼いで順番に撃破すればいい。まったく、津田光輝は兵法のイロハも知らぬのか」
数が少ない軍勢を二つに割ってしまった光輝を、幽斎はバカにした。
孫子などの兵学書にも通じている幽斎からすると、光輝の動きは無謀としか思えなかったからだ。
「新型の大筒があるが、三方から包み込むように攻めれば問題はない」
それにどうせ、先鋒は使い捨ての浪人衆や徴兵した農民達である。
玉薬の消費担当とみれば、悪い計算ではないと幽斎は思っていた。
「新型の種子島は?」
「あれは、津田信輝軍にしか存在が確認されておらぬ。竹束を大量に用意してある。防衛主体で時間だけ稼げばいい」
幽斎は無能ではない。
彼の戦法が、もし普通の軍勢相手であったら勝利していたであろう。
だが、彼は津田光輝の非常識を最後まで理解できなかったために、別の意味で歴史に名を刻む事となる。
「三十五万の軍勢は壮観だな」
関ヶ原に布陣を続ける津田軍本陣において、光輝は設置された大型望遠鏡で織田幕府軍を観察していた。
「囲い込んで撃破する。相手が大軍である以上は常套の策ですな」
「そうだね。こちらの新型銃と大砲に薙ぎ払われる前に接近すれば勝てるかも。数の優位を生かすのは当然として、前線にいる将兵の装備が悪いわね。使い捨てだと思う」
「世も末ですな。あまり人の事は言えませぬが……」
光輝の傍にいる今日子と謙信も、大型望遠鏡を見ながら情報分析を開始した。
今日子は、織田幕府軍の先陣部隊が徴兵した農民や浪人ばかりであり、使い捨てだと即座に見切った。
謙信は、昔食料を得るため越後の軍勢を関東に送り続けた過去がある。
当時は『義』などと言っていたが、そんなものが方便なのは自分でも理解していた。
そんな自分が、幽斎の策を笑えないと思ったのだ。
「上杉軍は担当の陣地に布陣が終わりました」
津田家に対して臣下の礼を取った謙信は、上杉軍の指揮を景勝に任せて自分は本陣に詰めていた。
既に六十を超え、とっくに隠居していた自分が久々に軍勢を率いたのはあくまでも緊急処置であったからだ。
それと、この本陣にいると飽きない。
津田軍は次々と戦の常識を打ち破り、その実物がここにあるのだ。
自分で見分して、それを上杉家のために生かしたいと思っていた。
「随分と強固な野戦陣地ですな。これは落とすのが大変だ」
謙信と同じく津田家に臣下の礼を取った松永久秀が、人数分のコーヒ―を持って現れる。
「今日子様、言われたとおりに『泥のように濃いこーひー』ですぞ」
「戦の前に、強烈に目を覚ますって趣向よ」
「なるほど、そういうこーひーの淹れ方もありますか」
久秀は、今日子からの説明に納得しながらコーヒーを飲んだ。
濃くて苦みも強烈だったが、戦の前の目覚ましには最適であった。
久秀は、戦の時にコーヒーを出すのも有りなのかと思う。
「うわっ! 苦い!」
「みっちゃん、子供じゃないんだから」
恐ろしい濃さで淹れられたコーヒーに光輝が顔を『うえっ!』とさせ、今日子、謙信、久秀が笑った。
「目は確実に醒める。俺達はただ守るだけだな」
津田軍は、睨み合いの間に関ヶ原一帯を強固な野戦陣地に仕上げた。
塹壕、馬除けの柵、有刺鉄線、土塁などが大量に設置され、津田本軍、上杉軍、徳川軍、松永軍、出羽織田軍の合計十七万人が配置されている。
大筒用の砲台も各所に設置され、織田幕府軍を待ち構えていた。
「徳川軍配置完了しました」
「出羽織田軍も。義父上、種子島の貸与に感謝いたします」
幽斎はまだ把握していなかったが、津田軍は柴田軍との戦いで使われた新型銃を既に八万丁装備していた。
大筒も、四斤山砲の他に、備え付けの百斤砲、砲弾は新型の信管付きの物になっている。
そのために、余った旧式の火器は大量の玉薬と共に四家に譲渡されていた。
濃密な弾幕を張るためにである。
「多くの犠牲が出ますな」
「これが最後と願いたいものだ」
謙信の発言に対し、光輝が答えた。
長かった乱世の世がこれで終わる。
謙信は、その結末を見ようとしているのだと。
もう津田家の規格外の力を知ってしまったので、それに対抗しようとは思わない。
どうやら上杉家は北陸は任せてもらえるようだし、あとは越後平野の開発を進めながら余生を過ごそうと思っていた。
「ここで織田幕府軍が大敗すれば、一気に崩壊するやもしれませぬな」
久秀は、謙信よりも長い間戦乱の世に生きてきた。
足掻くように時には卑怯な手を使い、裏切り、三好長慶、織田信長と天下人を観察してきた。
そんな中で知り合い、徐々に巨大になっていく津田家という存在。
まったく異質の力を持つ津田家が天下を取る事に対し、久秀はなぜか納得ができた。
もはや、自分がそれに逆らおうという気すら起きないのだ。
既に八十を超えたので、あとは死ぬまで天下の趨勢を見守っていこうと密かに決意している。
徳川信康も、織田信房も似たような気持ちだ。
今はただ津田家のために戦い、家と領地を残していくのだと。
「やっぱり、一気に攻め寄せてくるね」
「数で圧倒的に優位だが、逆にいうとそれしか策がないとも言えるからな」
新型銃で薙ぎ払われる前に接近しないと勝てないが、これだけ兵数が多ければ大丈夫。
これが、細川幽斎の考えなのだから。
「織田幕府軍の先陣接近!」
「有効射程距離に入るまで撃つなよ。入ったら、容赦なく撃て!」
織田幕府軍の先手が射撃距離把握用のラインを超えた瞬間、津田軍が一斉に銃撃を始めた。
大筒陣地にある新型大砲も射撃を開始し、遂に両軍による決戦が始まるのであった。
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