第135話 連敗
文禄二年の春、織田幕府軍と津田軍の睨み合いは続いていた。
両軍による戦いは、小規模なものが数回。
すべて織田幕府軍側の武将が夜襲などを試みたケースであったが、津田軍に見破られて敗北している。
水面下でも、間諜や乱破などによる情報収集、破壊工作などの不正規戦も行われていたがこれも津田方が圧倒的に有利となっていた。
「幽斎殿、向こうの間諜や乱破を一人殺すのに、こちらは十人は死んでおるぞ」
織田幕府において間諜や乱破を纏める祝重正と下石頼重が、幽斎に報告に訪れた。
互いに人を送っても、織田方は未帰還者が続出なのに対し、津田方の間諜で討たれる者は少ない。
そういう人間を育てるには時間がかかるので、これ以上の無理はできないと報告に来たのだ。
「津田家と我らと、何がそこまで違うのだ?」
優秀といっていい幽斎は、情報の大切さをよく知っている。
だから、情報を集めてくる間諜や乱破の数を揃える事を怠っていない。
だが、それと彼らを優遇するのは別である。
自身が中途半端な名家の出のために、卑しい身分の出が多い間諜や乱破への嫌悪感が心底にあるからだ。
彼らを傍に置いたり、ましてや武士に加えるなどあり得なかった。
間諜から報告を受けた重正と頼重の報告を吟味して、その頭脳で分析理解するだけだ。
だから、なぜ味方の間諜が一方的に損害を受けるのかが理解できなかった。
「津田家の風魔小太郎達と、どういう違いがあるのだ?」
「色々とだな」
信長の代から奉行として重用されてきただけあって、祝重正は優秀な人物であった。
大凡ではあるが、津田家の間諜と乱破が優秀な理由を理解していた。
「まずは待遇だな」
「待遇?」
「士気の問題は大きい」
織田家の間諜と乱破は、一部の責任者を除けば足軽以下の待遇である。
織田家の場合、任務の性質上、敵地で死んでも元からそんな人物は織田家にいなかったという扱いなので家族に保障すらない。
その前に、家族すら持てない者も多かったが。
津田家の場合は、まずはトップである風魔小太郎が重臣で官位すら持っていた。
一番身分の低い下忍でも、家臣名簿では目立たない場所に書かれているだけだが、技能手当てなどで実入りはよかった。
もし任務中に死んでも、ある程度の遺族保障と残された家族の優先雇用が約束されている。
津田忍軍では、間諜でも普通に家庭を持っている者が多かった。
家族に任務内容を話さないように教育されているので結婚を禁止されておらず、稼ぎもよかったからだ。
他にも、今日子が不正規戦の知識を持っているので、風魔小太郎と協力して教育マニュアルの作成と、効率のいい訓練方法なども確立していた。
装備も優秀なので、織田忍軍の方にばかり犠牲が出てしまうのだ。
重正とてすべてを理解しているわけではないが、このままでは味方の間諜が全滅してしまうという認識がある。
それを解決しようにも、予算や権限の問題があって幽斎に何とかしてもらわないといけない。
新将軍信重から全面の信頼を受け、親子で専横に走っている幽斎には言いたい事も多かったが、間諜を全滅させられてしまえば処罰の対象になってしまう。
打てる手は打たないとと思い、頼重と共に報告に参上したというわけだ。
二人はそんな急に間諜と乱破の練度向上など不可能なので、防衛的な使い方をして損害を防ぎたいと思っていた。
「これ以上人手を失うと、津田領侵攻の際に不都合が出るぞ」
「津田軍の間諜を幾人か倒したのであろう?」
「ああ」
「当然、装備も回収したはずだ」
幽斎は、重正に津田軍の間諜が着けていた装備を鹵獲しているはずだと問う。
それを参考に、織田方の間諜が使う装備品を生産、配備してはどうかと提案した。
金はかかるが、今の織田幕府の資金力なら不可能ではないと踏んだからだ。
同じ装備ならば、数の多い織田忍軍が圧倒的に有利になるのだから。
「いくつかは回収に成功している。随分と金をかけているようだな」
夜陰に紛れられる、防刃、防弾性に優れた戦闘服、短い刀……これは、いわゆるコンバットナイフの一種であった。
刀身が光らないようにしてあり、特殊合金製で切れ味が落ちにくくなっている。
足には、悪路にも強い津田領で『靴』として売られている草履の高級品が。
そして何よりも凄いのが、暗闇でも見える眼鏡であった。
またの名を赤外線スコープとも言う。
これらはすべて、カナガワで生産されたものであった。
「それを急ぎ生産して配備すれば、こちらの戦力強化にも繋がると思うが。金ならば出す」
敵でも味方でも、他人がいいものを使っていたり、新しい方法で効果を上げていたりすると真似をする。
幽斎とて、常に信長という人物のやり方を見てきたのだ。
津田家の装備だからと言って、それを採用しないという選択肢は存在しなかった。
「金があればいいというわけではない」
「どういう事だ?」
「見た目だけ似せた装備なら、ある程度時間をかければ作れるだろうさ。だが、技術が伴わない」
特に暗闇でも見える赤外線スコープ、どのような仕組みでどのように生産すればいいのかわからないのだ。
織田幕府と特に柴田家の間諜は、時おり津田家が作った最新の技術を使った品の入手に成功している。
だが、その仕組みはさっぱりわからなかった。
せっかく奪った品も、自分達で使っているとすぐに使えなくなってしまう。
彼らは、バッテリーや電池が切れたという状態が理解できなかったのだ。
使えなくなってからバラしてみたが、あまりに技術差が隔絶しているので得られた成果はほとんどなかった。
二度と元に戻せないので、ただ壊れてしまっただけだ。
形だけ赤外線スコープに似せて作っても、それで暗闇でものが見えるはずがない。
勿論、他の装備も同じだ。
第一、素材が手に入らない。
織田幕府が用意できる素材で試作したとしても、同じような性能になるはずがなかった。
「職人どもは何と言っているのだ?」
「仕組みを探るために分解してみたが、手がかりすら掴めないそうだ」
その事実を当然重正は把握しており、数組の装備を手に入れたところで気長に研究するしかないという結論に至っていた。
「装備の研究をするにしても、それが終わるまでに凄腕の間諜がいなくなってしまうぞ。美濃や尾張への侵入を控えて、数を温存したい」
間諜はすぐに補充できるが、素人ばかり沢山いても意味がない。
ベテランを大量に失ったせいで鍛錬も必要であり、津田方の間諜の活動を抑えるので精一杯だと重正は説明した。
「わかった。敵領への侵入は最小限にする」
幽斎は、重正からの提案を呑んだ。
いくら信重に重用されているとはいえ、あまり政権内に敵を作るわけにはいかないからだ。
序盤で破れ、兵器の質で破れ、小競り合いでも敗れ、不正規戦闘でも敗れた。
それでも、数が多い織田幕府軍はどしりと近江に大軍を置いている。
季節は春だが、織田幕府軍は元々兵農分離が進んでいたので困ってはいない。
ただしこれは津田軍も同じなので、これが理由で士気など落ちるはずがなかった。
「もう逆立ちしても銅銭一枚出ないな。借金で首が回らない」
「幕府に逆らえば改易される。兵を出すしかないが、津田家を滅ぼして分け前がないと我らは破産だ」
ところが、他の大名達は事情が違った。
彼らの中には、いまだ大半が農民兵である者も少なくなかった。
食料は幕府から支給されたが……これがなければ出兵を拒否する者が多かったかもしれない……朝鮮での戦が終わって二年と経っていないのに再び大規模な出兵だ。
経費がかからないはずもなく、それでも出兵を拒否した大名が少なかったのは、幽斎が津田家を滅ぼした際には莫大な加増と恩賞を約束したからだ。
畿内、西日本に領地を持つ大名からすれば、関東という僻地にいる津田家よりも織田幕府の方が強いという認識が強い。
だから、不満を腹に納めて兵を出していた。
「何? 食糧の相場が上がっている?」
「はい、それも急激にです」
近江の本陣で幕府の政治を見ていた幽斎は、ある報告に首を傾げた。
織田軍が軍勢を発する前に、幽斎は大量の物資を集めた。
大半は食料だが、これは相場の高騰を防ぐために幾人かの豪商に頼んで集めさせている。
彼らにある程度の利益を保証して、投機的な相場の上昇を防いだのだ。
これにより幕府の出費も抑えられて、幽斎は信重に褒められていた。
そのはずなのに、なぜか春の時点で米や他の雑穀すべての食料が不足気味で、相場が徐々に高騰しているという。
「バカな! 我々が集めた分だけで食料不足になるはずがない!」
近畿圏という大生産地があるし、去年は不作ではなかった。
確かにある程度の長期軍事行動を見越してまとめ買いはしたが、それだけで食料不足になるはずがないのだ。
「どういう事だ! すぐに調べさせろ!」
暫くして幽斎に報告が届いたが、そこには驚愕の内容が書かれていた。
「豪商連中が集めた食料の量には不自然な点はないが……」
豪商とて、自分達だけでそれだけの食料は集められない。
関係のある中小の商人に頼む事になるが、彼らが集めた食料が大量にどこかに消えていると報告には書かれていたのだ。
「もしかすると、津田領に流れたのか?」
織田幕府の食料買い取りに呼応するように、津田方の意を受けた商人が食料を大量に織田領から買い集めた。
買い集めた食料を運ぶ船に関しては、津田家の船を使った形跡があると。
幽斎は豪商への警戒感は持っていたが、まさか中小の商人を使って食料を集めているとは思わなかった。
「まてよ……という事は……」
津田家は、大量の食料を購入する際に保持していた大量の永楽銭を畿内と西日本にばら撒いた。
食料を持っていれば大量の永楽通宝に代えられて儲かると考えた商人が投機目的で食料を買い集めて倉庫に隠匿し、そのせいで市井に流れる食料が減って値段が高騰してしまったのだと。
幽斎には未来の経済学の知識はなかったが、大体の理屈は理解できた。
「しかし、これを解決するには……」
朝鮮出兵などもあり、織田幕府は新貨幣鋳造計画をまだ実行に移せていない。
撰り銭令を強化したくらいだが、流通する永楽通宝の量が増えたのならば、逆に織田領の経済にはいい事ではないかと。
食料の流通量は減っているが、それで市井が飢えているわけではない。
織田幕府軍が必要な量の食料は確保しているし、もし民達から不満が出たら、食料を隠匿している商人を処罰すれば、民達の織田幕府への支持は厚くなる。
商人に関しては、一部豪商だけお目こぼしをすればいいであろう。
物価対策の経験がない幽斎は、支配者としての目線でそのように判断したが、それが正しいのか間違っているのか判断がつかないまま、状況は次の段階へと移行してしまう。
「今度は、食料が値下がりした?」
「はい、急に大量の食料が市井に出回りまして……」
不足感が出て食料の相場が高騰したところで、今度は市場に一気に大量の食料が流れた。
値上がりを期待して密かに食料を買い集めていた商人達は、食料の値段が急下落したせいで大損失を出す事になる。
中小の商人では破産する者が続出した。
豪商ですら投機目的で食料を隠していた者が多く、大きな損害を出している。
それと、結果的には大量の永楽通宝が津田領に流出する事態となった。
津田家の領地ではいまだ銭が不足気味だったので、織田領から流れてきた永楽通宝は津田領内の田舎にまで貨幣経済を浸透させ、同時に津田家の支配力を増すのに役に立った。
そして、長年津田家が密かに私鋳していた永楽通宝が市場に流れなくなり、畿内以西では突然貨幣不足に陥った。
信長も信忠も、光輝が永楽通宝を私鋳している可能性が高いと踏んでいた。
まるで暫く使った銅銭のように見せる『古び』の技術のせいで、光輝が上手く集めているだけだと思っている者も多かったが、織田幕府の人間がどう思おうと津田家が永楽通宝を供給しなくなったのだ。
銅銭不足のために、撰り銭令が無視されて質の悪い私鋳銭が出回るまでに時間はそうかからなかった。
「こんな歪な銭、受け取れるか!」
「何だと! 他にないんだからしょうがねえだろうが!」
「お前が適当に私鋳したんじゃねえのか?」
「お前こそ、適当な銭を私鋳しているって噂だぞ!」
貨幣経済が行き届くようになった石山では、貨幣不足のために商人と客が怒鳴り合うような光景が展開される事となる。
「汚ねえ銭だな。十二枚で永楽通宝一枚分だな」
「いくら何でも、その交換率は酷いだろうが!」
信長の時代でも最高で一対八くらいであった永楽通宝とビタ銭との交換比率が、永楽通宝の需要増大のせいで最高一対二十にまで上がった地域もあった。
織田幕府の施政により貨幣経済が浸透したのに、津田家から提供されなくなったので当然であった。
食料価格の乱高下と、銭不足。
幽斎は津田家のせいだと言いたかったが、庶民にそんな理屈は通じない。
彼らが織田幕府の施政を批判するようになるまで時間はかからなかった。
「幽斎、何とかせよ」
「孫一、貨幣を鋳造せよ」
将軍信重から銭不足を何とかするようにと言われた幽斎は、まさかまともな銭が供給できませんとは言えず、密かに家臣にしていた雑賀孫一に銭の鋳造を命じた。
石山本願寺につき最後まで織田家に抵抗した雑賀孫一は、石山陥落後に全国を流浪した後、幽斎の家臣となっていた。
幽斎が、孫一の鉄砲隊運用の腕前に期待しての事だ。
本来雑賀衆は鉄砲鍛冶を始めとする技術者集団でもあったのだが、彼らの大半は津田家による紀伊攻略の途中で降伏しており、津田家の関東下向にも従っている。
孫一についてきた鍛冶師は少なく、孫一自身が鍛冶に長けているわけではない。
だから孫一としても、いきなり貨幣を鋳造しろと言われても困ってしまうのだ。
自分に従う雑賀衆など、大した人数でもないのだから。
しかも戦闘要員ばかりで、鍛冶を行える者などほとんどいなかった。
「何とかと言われましても……」
それでも孫一は全国を流浪して苦労したせいもあり、幽斎の命令に逆らわなかった。
織田幕府を傀儡化させた幽斎に好意を抱いていたし、津田家への恨みもある。
そこで、ツテのある畿内各地にいる鍛冶師などに声をかけ、『文禄通宝』なる銅銭の鋳造を開始する。
だが、その質はお世辞にもよくなかった。
それなりの物を量産するには、色々と必要なものが足りなかったからだ。
それでも、織田幕府が価値を保証する銅銭である。
永楽通宝と一対五くらいの交換率で使用されるようになった。
「孫一、質の向上を図れ!」
「畏まりました」
マシな銅銭の普及により、織田領内の銅貨不足はどうにか落ち着いた。
ただし、それも新貨幣文禄通宝を常に鋳造し続けての事だ。
なぜなら、みんながなるべく永楽通宝を持とうとして、すぐに交換してしまうからだ。
そしてなぜか、永楽通宝と交換した文禄通宝が他のビタ銭と共にどこかに消えてしまう事が多かった。
消えた先は、勿論津田領内であった。
「キヨマロ、笑いが止まらないな」
「ゴンベが種撒きゃ、カラスが啄むですか」
「お前、上手い事を言うな。確かに、キリがないよな」
織田家は、畿内と西日本から銅と錫を買い集めて文禄通宝を鋳造する。
それが有利な交換レートで津田領へと向かい、清輝とキヨマロが永楽通宝に鋳造し直すのだ。
加えて、織田家の製錬技術では銅に混ざっている金や銀を取り出せない。
これも取り出して、ますます利益を増やしていた。
「兄貴も義姉さんも、悪党だなぁ」
「生き残るのが優先ですからね」
「言えてる。兄貴達はよく我慢したんじゃないの? 僕は戦はしないけど、銭のせいで強固な政権が一気に弱体化する例を見せてあげるよ」
大量に集められた文禄通宝とその他ビタ銭の山を前に、清輝とキヨマロは話を続ける。
「銅貨不足は相変わらずで、今度は金貨と銀貨が不足だと?」
幽斎は、織田領と津田領の貿易統計を見て絶句した。
一方的な輸入超過に陥っていたからだ。
交易は交戦中の今でも続いている。
織田幕府は、重商主義的な政策が強い政体であった。
そんな織田幕府を支えている、後世において政商と呼ばれる身分の大商人達がいる。
元は堺の会合衆に属している者が多かったが、彼らは信長の命令で堺から石山へと本拠地を移した。
おかげで現在は堺の衰退が著しいが、商売の規模は大きくなっているので文句は出ていない。
そんな彼らから津田領との交易を奪えば織田幕府に盾突く可能性があり、幽斎は交易を認めざるを得なかった。
戦で不景気になり、庶民から不満が上がるのを恐れているという理由もある。
「今のところは津田領でしか産出しない産物に……それよりも、商人や武士に贅沢品を禁じてはいかがですか?」
光輝が財を成して信長の目に留まるようになった、『沈没船から引き揚げたお宝』。
これらが、大量に出回っているらしい。
「明、北宋、南宋、元、唐、朝鮮の名物に、西洋の財宝や珍しい物なども、大量に市場に流れています」
津田家は戦費が必要なのでお買い得価格ですよ、と市井に出回っているらしい。
これらを金持ちが購入するため、銅銭が不足しているので金と銀が大量に津田領へと流れていた。
「禁輸処置を出せ!」
「田中様、津田様、今井様達を敵に回しますか?」
「それは……」
これらの贅沢品は、自分用も含めて投機のために豪商も大量に購入していた。
更に、津田領では高品質な陶器の生産にも成功したようで、これらも富裕な町人などに人気となっている。
重商主義で貨幣経済が主なのに、織田幕府は独自通貨の鋳造が遅れ、津田家から未知の経済戦争を仕掛けられて戦以上に財力を消耗させてしまう。
「あとですべて奪えばいいのだ! 銭を鋳造し続けろ!」
幽斎は、戦で勝利したあとで津田家の財産を没収すればいいのだと、今は文禄通宝の鋳造を続けるように命令する。
「薩摩と大隅の件ですが……」
「筑前は何をしておるのだ! 津田光輝と懇意故に日和見か?」
幽斎は、この場にいないのをいい事に九州の羽柴秀吉の対応の遅さを罵った。
織田軍と津田軍が睨み合いを始めてすぐ、薩摩と大隅に台湾で体勢を整えた島津家久率いる島津軍の精鋭が上陸した。
事前に薩摩に残存していた旧臣やその家族と連絡を取っていたようで、大半の兵を出兵させていた織田信雄は、あっという間に薩摩と大隅を失陥させてしまう。
「島津の残党如きに! 日向の兵を差し向けろ!」
津田軍と対峙中の信雄は、激怒して日向の守備隊に薩摩と大隅の奪還を命じた。
彼は、薩摩と大隅の失陥は奇襲を受けたからだと思っていた。
一度滅びた島津軍の数が多いはずもなく、日向の残存戦力で十分対応可能だと判断したのだ。
「殿、ここは筑前様と図ってから」
「俺がなぜ、あのようなサルと協力せねばならぬのだ! 俺に恥をかかせるのか!」
忠告した家臣に、信雄は掴みかからんばかりの勢いで怒鳴った。
信雄は、生まれもわからぬ卑しい秀吉が信長のお気に入りで、自分よりも優遇されていた事を根に持っていた。
家臣達からも密かにバカにされる信雄がそれなりの領地を与えられている時点で、彼も信長や信忠から優遇されているのだが、それに彼は気がつかない。
能力もない癖に、彼は秀吉の後釜として九州探題の地位を狙っていた。
だからこそ、自分達のみでの島津軍討伐を狙ったのだ。
「信雄様、島津軍の数が不明です。上陸の時機を考えると、津田家の援助を受けている可能性が高い。ここは、肥後の残存部隊と合同で当たりましょう」
「おおっ! 俺のために戦ってくれるか! 氏郷」
「それは勿論」
「氏郷、大義である」
そして、ここですかさず蒲生氏郷が協力を申し出た。
彼は、ただ秀吉との協力を信雄に提案しても信雄から怒られるだけと理解している。
そこで、肥後に残した留守役に羽柴家と交渉させて援軍を出させ、三軍合同で島津家に当たろうと策を立てた。
キリスト教狂いで幽斎にも距離を置かれている氏郷であったが、彼は信長に愛された才能の持ち主であった。
信雄の逆鱗に触れないよう島津軍に的確に対処し、戦後に九州探題職を狙う信雄のナンバー2、実質的な九州の責任者としてかの地に影響力を持つ計画を密かに立てている。
信雄はキリスト教に興味を持ち始めているので、彼を洗礼させて九州にキリシタンを増やす。
最終的には、九州をキリスト教徒の国にしようと目論んでいた。
なので氏郷としては、信雄に潰れてもらっては困るのだ。
幸いにして、氏郷は信雄から気に入られている。
ここで上手く功績を立て、信雄の補佐役として幕府に認められなければならないと考えていた。
「アホウにつける薬はないな。氏郷に任せるしかあるまい」
幽斎は氏郷のキリスト教狂いに辟易していたが、その実力は認めている。
信雄もアホなので、自分の脅威にはなるまい。
むしろ曲者の秀吉よりも、九州探題としては適任だと思っていた。
アホは、コントロールが楽だからだ。
「九州の大名でここに軍勢を出している者は多い。早期に島津は潰すしかあるまい」
それでも大勢に影響はないと分析した幽斎であったが、やはり九州は遠い。
この時代、通信手段が発展していなかった事もあり、既に現地では大きく情勢が動いていた。
「両国が失陥したままでは、信雄様に何を言われるか……」
まず第一の誤算。
それは、日向にいた信雄軍の留守部隊が、信雄の叱責と処罰を怖れて単独で薩摩と大隅の奪還に動いた事であった。
彼らは間違った事をしているわけではない。
薩摩、大隅、日向を守備するために残っていたので、領地を奪われたら迅速に動く必要があったのだから。
「確かにな……いきなり手打ちにされる可能性もある」
信雄は元々気が短く、突然激高して家臣を無礼打ちにした事が何度かある。
それを知っている家臣達が、あとで処分される事を怖れて島津軍に奪われた両国の奪還作戦に出たというわけだ。
「筑前様に援軍を要請しては?」
一部慎重論を唱える家臣もいたが、それはその他多くの家臣達によって否定された。
「信雄様は大の筑前様嫌い。援軍など求めて借りを作ったら、あとで処罰されかねん」
「確かに……」
秀吉の次の九州探題職を狙っている信雄からすれば、今の九州探題に助けを求めるなどあってはならないというわけだ。
クビにされるくらいならいいが、処刑されては堪らないと、信雄の家臣達は独自に軍勢を出す準備を始めた。
「島津狩りであれだけの犠牲を出した島津軍だ。大した数もおるまい。彼らが両国に根を張る前に倒してしまえばいい」
残存家臣達にも島津軍を侮る空気があり、すんなりと大隅、薩摩への侵攻が決まった。
そして、大隅と日向の国境付近で島津家久、豊久親子が指揮する軍勢により散々に打ち破られてしまう。
信雄留守部隊は大損害を出しながら日向へと逃げ帰り、以後は日向防衛のみで精一杯の状況となってしまう。
「はんっ! 織田家一のアホウの軍勢は弱いとね! 大した首もありはせぬ! 次はいい首を持って来いよ!」
家久の嫡男豊久は、小坂雄吉、雄長親子、土方雄久と、美濃に出兵しなかった信雄の重臣達を次々と討ち取り、その武勇は九州中に鳴り轟いた。
「日向の面倒も見ねばなるまいて……官兵衛、頼むぞ」
「畏まりました」
信雄残存部隊敗れるの報に、秀吉は黒田官兵衛が指揮官の軍勢を日向に派遣した。
手は打たなければならないが、直接自分が出ると色々とややこしくなる。
表向き、北九州で明と朝鮮の逆襲に備えないといけないので、家臣に任せたというわけだ。
秀吉は数千の兵を黒田官兵衛に任せ、留守部隊壊滅で大混乱している日向の鎮静化を行うように命じる。
「父上、島津とは戦をせぬのですか?」
「羽柴家以外は、主力はすべて津田家討伐に。残存戦力で無理をした信雄様は日向すら混乱させておる。上方の戦況に変化があるまで、下手な事はできぬな」
官兵衛は島津軍と極秘交渉を行い、捕虜になった残存部隊の家臣、兵士の解放、薩摩と大隅に残っている信雄の家族、家臣とその家族の解放交渉を行った。
交渉は無事に終わり、島津軍は大隅で、黒田官兵衛率いる羽柴軍は日向に軍勢を置いて睨み合っている。
勿論これは、秀吉の命を受けた官兵衛の自作自演であった。
官兵衛は秀吉から、家久は光輝から交戦を禁じられていたのだ。
「親父、黒田官兵衛の息子はなかなかやると噂に聞いたとね」
「向こうが攻撃してこなければ、手を出すのは禁止だ。光輝様の命令でもある」
「義爺様の命令なら仕方なかと。まだ機会はあるはずとね」
官兵衛も家久も好戦的な息子を抑えるのに苦労する羽目になるが、両軍は戦闘を行わずに睨み合いを続けていた。
島津軍は兵力不足と薩摩と大隅の統治のため、黒田軍は日向の安定化のために交戦は控えているというのが公式な理由であった。
「確かに我らだけでは決定力不足ですが、殿より援軍を得れば勝利は可能では?」
羽柴家家中において、光輝と秀吉の密約を知っている者は少ない。
官兵衛はその一人であったが、長政は事情を知らないので早く島津軍を倒した方がいいと判断したのだ。
「援軍は不可能だ。明と朝鮮の軍勢が報復に出ないとなぜわかる? 我が国は、明と朝鮮から見れば内乱中だ。格好の機会であろうな」
官兵衛の意見は正論であったが、実はその可能性は低いと秀吉も光輝も認識している。
だが、羽柴家が動かない理由としては大いに利用できるので、誰も否定しないだけであった。
「それに長政よ、ここで我らが薩摩と大隅を奪還してみよ。あのお方の嫉妬に巻き込まれるだけだぞ」
あの方とは、勿論信雄の事であった。
日向から出した留守部隊の大惨敗に、彼は近江の陣地でまた癇癪を爆発させていると報告が入っていた。
もし黒田軍が勝利すれば、主君である秀吉のみならず官兵衛までもが信雄に嫉妬されてしまう可能性がある。
官兵衛は、そんなのは御免だと思っていたのだ。
「というわけで、我らは信雄様が自ら奪還作戦を行うまで日向の安定を図るのが重要な仕事となるわけだ」
と官兵衛は言うが、勿論その理由は大嘘である。
長政が裏の事情を知らないだけだ。
島津家久達は光輝が逃がしているし、今回の薩摩、大隅奪還軍を運んだのは津田水軍であった。
家久は、今の島津討伐で多くの一族と家臣を失った状態では薩摩と大隅が限界だと、日向には侵攻しなかった。
今は懸命に、両国の統治体制の確立に奔走している。
秀吉と官兵衛は、自分達だけで奪還すると信雄が怒るからという理由で放置しているように見せ、島津軍が薩摩と大隅で防衛体制を整えられるように時間を与えているというわけだ。
「もう一つ、肥後も不安定なのだ」
「氏郷様が統治していてですか?」
「阿蘇家が蜂起したからな」
肥後において、阿蘇家の名は重い。
神武天皇の第二子神八井耳命を祖と称し、代々阿蘇神社大宮司家を務める名門中の名門であった。
織田家による九州平定の過程で豪族としての阿蘇家は滅んだが、それでも肥後における影響力は衰えていない。
そんな阿蘇家を、蒲生家は肥後におけるキリスト教普及の敵だと認識した。
多くの嫌がらせを行い、その怒りが遂に爆発したわけだ。
「蒲生家の残存部隊は南下して薩摩を攻める予定だったのだがな。阿蘇家の蜂起で南肥後を失ってしまった」
「もしかして、これも津田家の?」
「であろうな。でなければ、いくら阿蘇家でも蒲生家に対抗可能な兵力は捻り出せまい」
相当な援助が阿蘇家に対して行われているようで、蒲生家の留守部隊は南肥後へと一歩も侵入できない状態が続いていた。
では、日向方面から侵入するという作戦も使えなかった。
なぜなら、阿蘇家の軍勢に参加している武将を見て、人様の領地の反乱を平定している場合ではない事に気がついてしまったからだ。
『氏信様と重郷様だと!』
他にも、先の『蒲生騒動』で津田家預かりになっていた蒲生家家臣達が、多くの兵を率いて阿蘇家側に参加していたのだ。
『氏郷! 貴様は蒲生家を滅ぼす不貞の輩である!』
特に氏郷嫌いとなった弟で猛将としても有名な重郷は、自ら先陣に立って蒲生軍留守部隊と戦い、優勢な日の方が多いくらいであった。
阿蘇家の反乱に、蒲生一族の人間が複数参加している。
この事実に、多くの蒲生家家臣が動揺してしまった。
氏郷のキリシタン優遇策に不満を感じていた者の中には、阿蘇家側に寝返ってしまった者もいる。
そのおかげで、蒲生家留守部隊も完全な機能停止に陥ってしまう。
下手に日向や薩摩に赴けば、その隙を狙って北肥後が落とされてしまうから、動くわけにはいかなくなってしまったのだ。
「そんな理由で我らは動けないのだ。残念な事だな」
「はあ……」
段々と事情が読めてきた長政は、津田光輝の悪党ぶりにある意味感心してしまうのであった。
「水軍は何をしておるのか!」
もう一つ、海上での戦いでも織田家は敗北していた。
あまりの不甲斐なさに、さすがの幽斎も激怒してしまう。
「よくも主殿助を討ちやがったな! 澄隆め! 実力の違いを見せてやる!」
織田水軍を率いる九鬼嘉隆は、津田水軍を率いる九鬼澄隆に対し殺された息子の仇を取ろうと気合を入れていた。
嘉隆からすれば、澄隆などたまたま跡取りであった兄の嫡男であっただけという、一段低く見ている存在だ。
九鬼本家の家督は、嘉隆が信長、澄隆が光輝に仕え始めた時点で逆転していた。
名目上の本家は澄隆のものであったが、実際の力で言えば嘉隆の分家の方が上になった。
はずだったし、暫くは間違いなくそうだった。
だが、若い澄隆がついて来た一族の補佐を受けながら今日子から指導を受け、他国の水軍衆の吸収と船員の効率的な育成、津田家の莫大な資金、新造船を造る技術、外地との交易拡大、海賊討伐などにより、今では津田水軍も大規模になった。
嘉隆には、それが許せなかったのだ。
ここで津田水軍を倒し、自分こそが九鬼家で一番優れた男だと世間に証明しようと嘉隆は決意する。
津田水軍の人材、艦船、様々な独自技術なども奪い取り、今こそ世界に羽ばたくべきだと。
「死ね! 澄隆!」
嘉隆は千隻を超える軍船を集め、津田水軍に決戦を挑もうとしていた。
戦いを挑まれた澄隆が率いる津田水軍は三百隻ほど。
数は少ないが、これは交易の護衛や新人の船員の訓練、補給任務などでいない船が多かったからだ。
「嘉隆叔父、随分と集めたものだな」
津田水軍に仕えて三十年以上、今では澄隆も四十を超えて年相応の風貌を兼ね備えた水軍大将になっていた。
「数は多いですけど、雑多な船の集まりですね」
適性ありとして水軍の指揮官に転向した脇坂安治が、織田水軍の陣容を観察しながら澄隆に声をかける。
「中核は、嘉隆叔父が率いる鉄張り大安宅船であろうよ」
村上水軍に勝利し、石山本願寺から制海権を奪った功績を持つ船である。
それ以降、織田水軍では発展拡大型の量産がおこなわれていた。
ただ、朝鮮出兵で快速輸送船の建造が優先されたために、隻数は四十隻ほどとなっている。
他は、大砲などを臨時に増設した大型の安宅船が主力であった。
兵員も、各地の水軍衆を集めて数は増やしているが、練度の面では見劣りがする。
「兵員の練度では負けませぬ」
「捕鯨船団の鬼の船団長がそう言うのであれば間違いないな」
普段は捕鯨船団の船団長として多忙な藤堂高虎も、今回は指揮官として参加していた。
彼は津田水軍の船員の方が精強であると確信している。
何しろ、自分が鍛えたのだからと。
「通常の訓練どおりにやれば大丈夫です」
「そうだな。もうあとは戦うのみだ」
津田水軍の主力は、新型大筒を装備した快速蒸気鉄船が主力となっていた。
扱いが難しいので隻数は三十隻のみであったが、他の船も個艦戦闘力では織田水軍の鉄張り大安宅船とは比べ物にならない。
「大御所様と殿からは、なるべく一隻も逃がすなと言われている」
勝利のために、すべて沈めるか奪うかせよ。
勿論不可能だが、そのくらいの意気込みで織田水軍を壊滅させろと命令を受けていた。
「複雑な陣形など無用、艦隊を三手に分けて砲撃で沈めつつ包囲する。本隊は私が、残りの二手は高虎と安治に任せる」
「畏まりました!」
「高虎、競争だぞ」
「おう! 負けないからな!」
水軍の将として成長した高虎と安治は、今では津田水軍のナンバー2とナンバー3と目されるまでになっていた。
大型蒸気大型鉄船『津田丸』の同型艦『江戸丸』と『台湾丸』に急ぎ移乗し、津田水軍は三手に分かれながら織田水軍を包囲しようとする。
「バカか? 澄隆は。数が少ないのに我らを包囲だと?」
嘉隆は、澄隆の指揮を見て大笑いした。
船戦のイロハも知らぬと、やはりただ兄というだけで有能な自分を扱き使っていたバカな父親に似たのだと。
「父上、澄隆は九鬼家の面汚しですな」
「あんなアホに水軍を任せるとは、津田光輝も老いたものよ」
嘉隆は、旗艦『日本丸』の甲板で嫡男守隆と共に津田水軍の戦術を笑っていたが、笑っていられたのはわずかな時間であった。
遠方から織田水軍を包囲し、船舷を見せた津田水軍の各艦艇には各船十門以上の大筒が装備されていた。
これらはほとんどが射程距離が長い新型砲であり、織田水軍は一方的にアウトレンジから砲撃を受ける羽目になる。
織田水軍の船は、外縁部分の艦艇から次々と撃沈されていく。
「くっ! 接近戦を挑め!」
慌てた嘉隆は急ぎ接近戦に持ち込もうとするが、津田水軍の艦艇は通常船でも機動力で織田水軍を上回っていた。
距離を縮められれば織田水軍の砲撃を食らうので、当然距離を置いて砲撃を続行する。
津田水軍の艦船に搭載された測量機器によって、一定の距離を保ちながら砲撃がおこなわれ、織田水軍の船は次々と沈められていく。
もはや海戦ではなく、射撃ゲームのような有様であった。
「斬り込め!」
ようやく織田水軍が小早船に兵員を乗せて接近を開始するが、今度は船上からの鉄砲による射撃と、陸戦でも使用されたナパーム壺によって炎上させられてしまう。
消火のために海水をかけた兵士達は、火炎に呑まれて大火傷を負い、そのまま海に転落した。
「そんなバカな事が……」
津田水軍からの一方的な虐殺に、嘉隆は次の命令を出す事すら忘れて呆然としてしまう。
その間にも、次々と織田水軍の船は沈められていった。
「一方的ですね、父上」
「そうだな。だが忘れるなよ、信澄」
津田丸の甲板上で、澄隆は自分の傍に控えていた嫡男信澄に厳しい口調で忠告する。
「何かが間違っていたら、ああなっていたのは俺とお前かもしれなかったのだからな」
澄隆の父は、志摩国において国人同士の争いで戦病死した。
幼くしてその跡を継いだ澄隆は、叔父嘉隆の補佐を受けて九鬼家当主となったが、その関係は複雑という他はなかった。
戦国の世であり、能力も野心もある嘉隆が澄隆を殺して九鬼家の当主になっても何ら不思議ではなかったからだ。
「大御所様と奥方様のおかげで、我らは生きている。お前も生まれて育った。織田水軍には嘉隆叔父、津田水軍には我らと今は亡き大殿に交渉してくださったからだ」
嘉隆は、自分が主家である織田水軍に仕えられてその矜持を保てた。
澄隆は、次々と増えていく新造船に、便利な船具、新しい武器、蒸気機関という新型機関の把握と戦力化、津田水軍の拡大、新しい航路の探索、倭寇や海賊との戦闘と忙しいながらも充実した日々を過ごせた。
津田水軍を束ねる者として名をあげる事もできた。
だが、何かが違えば澄隆の方が日本丸の甲板に立っていたのかもしれないのだと。
「それは重々承知しております。この作戦が終われば、私が一艦隊を率いて殿の作戦をお助けせねばならないのですから」
「ならばよし、徐々に包囲網を狭めていけ。だが、焦るなよ」
結局、織田水軍は半数ほどまで討ち減らされてから降伏した。
その中に嘉隆一族の生存者はおらず、織田水軍自慢の鉄張り大安宅船も、南蛮船を見分して建造したガレオン船も一隻も残っていない。
九鬼嘉隆の討ち死にをもって、織田水軍は組織的な抵抗力を喪失するのであった。
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