第56話 信玄の最期

「これは、父からの遺言だと思って聞け」


 甲斐、躑躅ヶ崎館に隣接する要害山城において、真田幸隆は長男真田信綱と三男武藤喜兵衛を呼び出して話を始める。


「武田家は滅びる」


 今は元亀三年の夏、春に武田軍は浜松城を巡る戦いで破れ、東遠江と駿河を失った。

 新地軍の常識を疑う火力攻勢の前に、甲斐に生きて戻れた将と兵は少ない。

 防衛には心許無いところがあり、信玄は要害山城においての籠城策を決めた。


 だが、予想外の出来事が起こった。

 武田家が放棄した駿河の領有を巡って新地軍と北条軍が戦になったのだが、北条軍が大惨敗したのだ。

 当主氏政の弟氏邦が討ち死にし、将と兵の犠牲が大きい。

 調べたところによると、一万人近い討ち死にを出し、報復で伊豆を占領されてしまったようだ。

 苦悩した氏政は、東上野における上杉輝虎の侵攻と関東に点在する反北条国人衆に対応するため織田家と停戦している。


 共に困った信玄と氏政は急ぎ不可侵同盟を結んだが、新地軍の甲斐への侵攻は防げなかった。

 同盟はあくまでも不可侵同盟であって、北条軍が甲斐に救援に来てくれるわけではないのだ。


「北信濃も、羽柴軍と滝川軍の侵攻を受ける。いくら鬼美濃でも守れまい」


 別働隊の南信濃侵攻軍を任されていた馬場信春であったが、今は農繁期で率いている軍勢が少ない。

 甲斐防衛のために大半の甲斐衆も戻っており、その数は半分以下となっている。

 

 これでは北信濃の防衛は難しかろうと幸隆は考えていた。


「甲斐の防衛も難しかろう」


 主だった将の討ち死にが多過ぎた。

 有力な国人衆である小山田家や、一門衆である穴山家の当主までもが討ち死にしているのだ。

 兵の犠牲も多く、しかも新地軍はこの農繁期に兵を動かした。

 信玄は、兵の集まりの悪さに苦慮している。


 『人は石垣、人は城』と、普段からそう言って籠城戦の類はほとんど行った事がないのに、信玄は要害山城での籠城戦を決めた。

 常に打って出て、勝利と領土拡大を行ってきた信玄の戦略が遂に崩壊した。


 だから、勝利の決まりから外れた武田家は滅ぶのだと幸隆は言う。


「真田家の領地は信濃だ。信綱、戻って適切な時期に降伏せよ。喜兵衛は甲斐に残り、家族と共に要害山城が落ちそうになったら降伏せよ」


「兄上と分けるのですね」


「当たり前だ。どちらか生き残れれば真田の血は残るのだから。有利なのは喜兵衛の方だな」


「そうでしょうか?」


 幸隆の考えに、喜兵衛は疑問を投げかける。

 

「新地光輝は、こんな時代に滅多にいない仁将だからな」


「父上、それはないと思いますが」


「そうです、喜兵衛の言うとおりです。あの大量虐殺者が仁将ですか?」


 喜兵衛と信綱でも、新地光輝の評判は知っている。

 伊勢の国人衆、紀伊の寺社勢力、武田軍、北条軍と、一体どれだけの数を種子島で撃ち殺してきたか。

 戦でこれだけの者を殺した奴などそうはいないと、二人は幸隆に反論する。


「確かにそうだな。だが、その後の統治はどうだ?」


 領有した領地の開発を積極的に進め、領民からの評判はいい。

 不満のある国人衆や寺社勢力が蜂起しても、領民にソッポを向かれて少数しか集まらず、逆に通報されて早期に鎮圧されるケースがあとを絶たなかった。


 彼らは、新地家の統治で生活がよくなったので、元に戻るのを嫌がって前の支配者を売ったのだ。


「家臣の顔ぶれを知っておるな?」


 みんな、過去に戦で破れて領地や仕官先を失ったり、三河一向一揆に参加して主君に逆らって国を出たりした者までいた。

 

「そんな者でも、忠節を持って働き能力を示せば重用される。それが新地家であろう」


 筆頭家老の堀尾家、次席家老の山内家、日根野家、不破家、島家、本多家、蜂屋家、岸家など。

 軍事、内政、外交、諜報で新地家を支える重臣家として有名になっていた。


「父上の命に従いますが、なぜ分けるのです? 新地家は織田家の重臣ですが……」


「何をたわけた事を。父を心配させるなよ、信綱」


「それはどういう意味で?」


「将来の話は誰にもわからぬではないか。一体誰が、武田家が滅びそうになるなどと考えた?」


 幸隆は、新地家が大きくなりすぎたと考える。

 信長としては妹を嫁がせた新地家は忠実な家臣で準一門衆だと認識もしているし、それが続いて欲しいと願っている。

 しかし、紀伊と尾張の一部、特に尾張の一部は新地家の本拠地である。

 新しい領地を加増するために、信長はそこを放棄させた。

 新地家が一から苦労して平定し、開発を続けた本貫地をだ。


「断って敵同士になるなどあって当たり前のはずが、新地光輝は受け入れた」


「では、新地家は織田家の忠実な準一門衆では?」


「今はな。織田家は、新地家に関東を取らせて伊勢も取り上げるつもりであろう」


 領地は増やすが、そこには開発の苦労がある。

 織田家は、何もしないで新地家が豊かにした領地をすべて手に入れられる。

 伊勢湾の海運を独占し、そこから上がる利益は莫大なものになるはずだ。


「これにより、畿内を押さえる織田家は天下人ですか」


「織田信長も豪運な男よな。だが、そういう男は得てしてくだらない事で転ぶ可能性がある」


 信長に何かあれば、当然激しい後継者争いが起こる。


「織田家の息子の誰か、新地光輝、浅井長政もそうか。羽柴、滝川、柴田、明智、丹羽……、他にもいるか」


 信玄の傍にいるだけあって、幸隆は織田家の情報に詳しかった。


「勿論このまま信長が天下人になり、新地家が功臣として生き残る可能性もある。だが……」


 幸隆は言葉を続ける。


「天下が纏まらぬ内に、信長に何かがあった場合……」


 再び世は乱世となり、信長の後継者達の間で争いが起こるであろう。

 そう幸隆は予想した。


「見立てによれば、一番可能性が高いのは新地光輝だな。あの男は異様だからな」


「仁将なのにですか?」


「そういう奴でないと天下は取れまい。だが、絶対ではない」


 だから信綱と喜兵衛、真田家を分けて生き残りを図るのだと幸隆は説明した。


「父上、今の私は武藤家を継いだ身ですが……」


「バカ者! 新地家で成功して分家を立てる度量くらい見せよ!」


 幸隆に怒鳴られはしたが、喜兵衛は父らしいと笑ってしまう。


「どうも御館と一緒で、最近は体調が悪い。どうせ長くも生きられぬので、ワシは御館と運命を共にする。ワシは、一度は領地を追われて流浪した身を御館から救ってもらい重用してもらった。武田家に対する最後のご奉公というわけだ。だから、新地家に対して無用な恨みを抱かぬように」


 幸隆は、二人の息子に釘を刺しておく。


「喜兵衛にはもう一つ頼みがある」


「何でしょうか? 父上」


「なるべく若い者は救ってほしい」


 武田家の者や重臣とその家族は無理だが、小者やその家族に罪はない。

 あるとすれば、滅びゆく武田家の領地甲斐で武家に産まれてしまった事であろうと。


「我らもそうだが、強い者を見極めてつき、何とか生き残りを図る。武田家が滅ぶなら、それを滅ぼした新地家に仕えて生活の糧を得ればいい。変に義理立てて、一緒に滅ぶ必要もない」


「わかりました」


 そんな話をしてから信綱は北信濃の領地に戻り、直後に羽柴軍と滝川軍による北信濃侵攻が始まった。

 防衛を任された馬場信春は奮闘し、何度か局地的な戦闘では両軍を退けている。

 だが、全体的な戦況はどうにもならない。


 佐久や旧村上領で反乱が起こり、馬場軍の補給を絶った。

 諏訪党も信玄の四男勝頼との縁切りを宣言し、織田方と武田方に別れていた諏訪家家臣団が合流、これは羽柴秀吉と滝川一益の策によるものであった。


 兵力と食料が不足した信春は、ここで最悪の手を使う。

 現地で強引な調達を敢行、これが北信濃の住民達の怒りを爆発させ、これと呼応して織田軍が侵攻、戦にもならず信春は甲斐衆のみを率いて撤退した。

 その帰路では落ち武者狩りに遭い、馬場軍はまた犠牲を増やす。


 甲斐まで戻れた兵の数は少ない。


 羽柴、滝川両軍は、北信濃と西上野を難なく制圧する。

 上杉輝虎の動きが気になったが、彼は恒例となっている関東出兵のため手が出せなかった。

 羽柴、滝川軍も上杉の勢力圏には一切手を出さず、双方は戦闘になっていない。


 そして甲斐であったが、こちらは南方から侵攻した新地軍によって蹂躙されていた。

 内藤昌豊が最後の抵抗を目論むが、武田軍は以前の精鋭ではなかった。

 浜松城で、最強武田軍を支えた多くの歴戦の将や兵が討ち死にし、経験の少ない若者ばかりを強引に集めたので、新地軍を見ると多くが逃げ去ってしまった。

 

 それを止める下級指揮官もほとんどおらず、昌豊は数少ない家臣達と共に壮絶な討ち死にを果たす。

 昌豊の首を獲ったのは、正信の弟正重であった。


 昌豊の敗北によって、甲斐は一週間もしないうちに要害山城以外を新地軍に押さえられてしまう。

 新地軍は、準備した大砲を並べて朝に夜にと砲撃を開始、篭城している武田軍は碌に反撃もしないまま己の敗北を悟る。


 信玄は度々血を吐き高熱に襲われていたが、自分の置かれた状況は誰よりも理解していた。


「これは駄目だな」


「そのような事を仰りますな!」


 生き残った一族衆の長老格である武田信廉が反論するが、信玄はそれを心の中で嘲り笑った。

 この状況で、まだ何とかなると考えている弟ののん気さにだ。


「一度武田家は滅ぶが、その血を絶やすわけにいかない。そこで、織田家と交渉しようと思う。幸いにして、我が娘松は信長の嫡男信忠の許嫁だからな」


 この事態を見越していた信玄は、既に使者を信長へと送っていた。

 篭城策は、あくまでもこの時間を稼ぐためであったのだ。


 真のリアリストである信玄が、何の策もなしに籠城策など取るはずない。

 

「御坊には腹を切っていただく」


 信玄を恐れていた信長は、彼の切腹を条件に一族の子女を助けるという条件を出した。

 

「ワシのみならず、これより申す者は腹を切れ」


 信玄は最後まで信玄であった。

 弟の信廉、息子の勝頼、重臣で信濃から撤退してきた馬場信春、真田幸隆も指名される。


「御館」


「美濃、何か言いたい事でもあるのか?」


「出来れば討ち死にしたかったのですが、これは北信濃で討ち死にしておけばよかったですかな?」


「美濃らしいの」

 

 信春の言いように、信玄は笑っていた。


「幸隆はどうなのだ?」


「御館には悪いのですが、信綱と喜兵衛は生き残らせましたので」


「別に悪いと思う必要はあるまい。武士とはそういうものだ」


「そう言われて安心しました。実は悪いなどとはまるで思ってもおらず」


「言うわ、幸隆」


 信玄は、幸隆の言いように笑ってしまう。


「勝頼様もですか?」


「あれは年も年だ。諏訪は新当主を立てて裏切ったわけだし、居場所もあるまい。小さい子達を生き残らせたい」


 仁科家の名跡を継がせた盛信、葛山家を継がせた信貞、信清、菊姫、松姫などを生かさないと駄目なので、勝頼には犠牲になってもらうと信玄は断言した。


「非情の決意ですな」


「それにだ。織田家の預かりの方がよかろう」


「なぜそう思います?」


「新地も、扱いに苦慮するであろうからな」


 既に、新地軍からの砲撃はなかった。

 信長からの手紙が届き、攻撃を中止していたのだ。

 そしてその直後に、使者の本多正信から酒、お菓子、その他食料などが届いた。


 籠城の労を労うためと、腹を切る前に楽しんで欲しいという意味であった。


「美味い酒じゃないか」


「透明ですな」


 既に清酒を製造している新地家に、信玄はまた驚いてしまう。

 他の食料も、どれも甲斐では大金を積まないと食べられないものばかりであった。


「負けるべくして負けるのか」


 信玄は、最後の晩餐を楽しみながら己の負けを悟る。


 そして翌朝、武田信玄以下、一族の男子や生き残った重臣達は腹を切り、その家族は織田家預かりとして完成したばかりの安土城に送られた。


「まあ、うちの預かりは嫌だよな」


 そんな風に思っていた光輝であったが、直後に武藤喜兵衛からの訪問を受けた。

 他にも、所領を失った甲斐、信濃衆で小身の者達を家族ごと連れて来ている。


「みな、新地様に恨みはないのです」


「いや、戦で散々討ち破ったからさ」


「その前に、我らには生活の糧という現実がございまして……」


 とにかく働き口をくれと、武藤喜兵衛は言う。


「うちは来る人拒まず去る者追わずだから構わないが、妙な事を考えないでくれよ。あまり好ましくない処置をしないといけなくなるから」


 新地家に仕官し、よからぬ事を企む者はゼロではない。

 そういう者は、潜り込んでいる伊賀者によって始末される事になっている。

 だから変な気は起こすなよと、光輝は喜兵衛に釘を刺しておく。


 彼の父である幸隆は謀将として有名だったので、その息子である喜兵衛も光輝は警戒していた。


「粉骨砕身頑張りますとも」


 武藤喜兵衛の言葉に偽りはなく、後に彼は新地家の軍師としてその名を轟かせる事になる。

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