君の記憶が幸福なものでありますように(短編)
雨傘ヒョウゴ
君の記憶が幸福なものでありますように
外はお日様がぽかぽかしていて、気持ちがいい。ゆっくりと窓を開けると、ふわりと外の匂いがただよった。金木犀の香りがした。長く息を吸い込んで、それから吐き出す。いつもの庭だ。でも、私が大好きな庭だった。あの人と一緒に選んで、たくさん頭を悩ませた。でも、この家を見たとき、すぐにここだと決めたのだ。
びっくりするほど大きな家ではないけれども、可愛らしくて、落ち着いて、ほっとする場所だった。
二人で選んだ家具を家の中にしきつめて、これからたくさん、たくさん過ごして行こう、と互いに手のひらを握った。
私は腰につけたエプロンを結び直して、素足でぺたぺたと縁側を歩いて、腰掛けた。お行儀悪くぶらぶらしてみる。部屋の中から、ちくたくと時計の音がきこえた。時間ばかりが過ぎていく。そろそろスーパーに買い出しに行かなければいけない時間だ。さて、と気持ちを準備させて、ふわあ、と伸びをしたそのときだ。
「真澄!」
あの人の声にびっくりした。
瞬いて正面を見ると、玄関でもなんでもなくて、庭の真ん中に立っている。ひらひらと桜の花びらが散っている中に立っていた彼は、いつも着ているスーツはボロボロで、靴は片一方履いてない。ネクタイはどこかに消えてしまっているし、髪の毛だってぐしゃぐしゃだ。その上頭の上には、たくさんの葉っぱがついていた。一体どこを通り抜けてきたというのか。驚きすぎて、おかえりなさい、とまずはいつもどおりに言ってしまったあとに、そんな場合じゃなかったわ、と慌てて首を振って、彼に問いかけた。
「翔? 一体どうしたの。お仕事は?」
私の言葉を遮るように、翔は大股で近づいた。それから、力いっぱい私を抱きしめた。少しだけ痛いのに、優しい彼の体温がよくわかった。大好きな彼だ。互いの薬指には、きらきらとした指輪がある。「なあ、なあ、真澄。とっても大切なことがあるんだ。きいてくれるか」「うん、うん、どうしたの?」 優しい彼の声をきくことが好きだ。だから、びっくりしたけど、抱きしめられながら、静かに頷いて聞いた。
私は、こうして彼に抱きしめられることが、一番の幸せだった。だからそれは、今までも、これから先だって、変わらない。ずっと、ずっと。
***
ただ俺は、呆然として小さな丸い椅子に座っていた。真っ白いカーテンや、扉や、床を見ると、なんだかここは現実ではないようで、電子音ばかりが響き渡る狭い部屋の中には、すでに物言わぬ真澄が、静かにベッドの中で眠っている。いや、眠っているなら、どんなにいいだろう。
いくつも、いくつも記憶を思い返した。実感がないままに、話ばかりが進んでいく。その記憶を、ゆっくりと自身のものにしていった。呆然としている場合ではないことはわかっている。
彼女を見届けたのは、目の前の男だ。医者だか、技師だか、わからない。男は白衣に通した袖を片手はポケットに突っ込みながらも、俺の前で小難しげな話を繰り返して幾枚もの書類に記入させた。
そう、俺は間に合わなかったのだ。
「さて、時間はありません。死者の記憶の改ざんには、様々な制約があるのです。時間との戦いでもあります」
旦那様もご存知のことかと思いますが、と彼は前置きをした。
「昨今、この日本にて新しい技術が生まれました。それは、死んだ人間の、魂の記憶を書き換えるという技術です。畳の上で、家族に囲まれ幸せに死ねる人間など数えるほど。だからこそ、死者の最後の記憶を書き換える、というこの技術は、それこそ世界中に激震が起こったことは、旦那様の記憶にも新しいことでしょう」
カツカツと、男は俺が書いた書類をペンで叩く。
「この技術を使用が可能な人間は限られています。それこそ倫理的にも、技術的にも、多くの制約があるのです。しかし奥様はその条件全てに見合うことができました」
俺はじっと両手を握りしめてうつむきながら、科学者の言葉をきいた。いや、やはり医者だったかもしれない。どれだけ動揺していたのか、よくよく自身を理解した。顔を上げると、男は隈だらけの瞳をこちらに向けて重々しく告げた。
「しかし、この技術には大きな制限があります。記憶を書き換えることが可能な時間は、最後の5分だけ。あなたは、その5分の時間を有意義に使わなければいけない」
聞いた言葉に、長く息を吐き出して、頭をぐしゃぐしゃにひっかいた。
たったの5分。まったく足りない。時間なんて、いくらあってもいいくらいだというのに。
「科学においては、この技術は間違いがない、と証明されてはおりますが、それでも信じることができないと断られる方も多くいらっしゃいます。なんていったって、相手はもう亡くなってしまっているのですから。本当に記憶が書き換わったかどうかなんて、本人の口から確かめようもない」
それでも、俺は少しでも可能性にすがりたかった。
迷いなんて、あるはずもない。
「お願いします、どうか、俺に彼女との時間をください」
彼女をもう一度抱きしめたかった。たくさんの感謝の気持ちを言わなければいけなかった。たったの5分で足りるだろうか。不安で、がたがたと指先ばかりが震えた。とっくの昔に枯れていると思っていた涙であったのに、次から次に溢れてくる。出した言葉は、嗚咽が入り混じっていた。「お、俺は、もう一度彼女に、愛していると伝えなければいけない」 それがたとえ、嘘ものの記憶でも。
よろしい、と医者は頷いた。ならばすぐさま準備せねばと急かされて、俺は用意された機械の中にもたれかかった。カプセルの中はひやりとしていて、たくさんのチューブに繋がれている。医者だか科学者だかは忙しく機械を動かして、俺と真澄の記憶をつないだ。
「はっきりと、イメージをしてください。まずはあなたの姿。それから場所、時間。彼女はどこにいますか? どんな格好でしょうか。さて、瞳を閉じてください。あなたが踏み出した一歩には重さがある。あなたは眠ってなどおりません。立っています。もしかすると、走っているのかもしれない」
医者の言葉で、一つ一つ思い描く。俺は彼女に向かって走っていた。着ていたスーツはぐちゃぐちゃで、知らせを聞いて走っている間に、靴も片方なくなっていたけれど、そんなことはどうでもいい。とにかく速く向かいたかったから、むちゃくちゃな道を通り抜けた。苦しくなったネクタイは、道に捨てた。
そして走りながらも、何度も、何度も考えた。どうやって、彼女に想いを伝えよう。たくさんの言葉がある。選んでなんていられない。機会は一回きりだ。失敗なんて許されない。
俺はどこに走っているのか。そうだ、家だ。二人で過ごしたあの家だ。飛び込んだのは玄関ではなくて、庭だった。季節が入り乱れた、色とりどりの花と木々の中に彼女はいた。真澄が、驚いた顔つきで、こちらを見ている。なのに、おかえりなさい、と言ってくれた。俺の名前を呼んでくれた。
気がついたら、彼女を抱きしめていた。これはただの機械で作られたデータだから、温かみなんてなにもない。なのに、本当に彼女を抱きしめているみたいだった。声を出そうとすると、ひどく震えた。でもいけないと、必死で息を飲み込んだ。
どうか、どうか。愛していると。一緒にいてくれてよかったのだと、伝えなければ。少しでも、彼女の最期が幸せになりますようにと、ただそれだけを願った。これが俺たちの、最期の5分になってしまうけれど、そんなことも気づかないくらいに、真澄に笑ってほしかった。
「なあ、なあ、真澄。とっても大切なことがあるんだ。きいてくれるか」
どうか、少しでも彼女にこの想いが伝わりますように。幸せに笑ってくれますように。
君の記憶が、幸福なもので、ありますように。
君の記憶が幸福なものでありますように(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo
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