第85話ブローノ大渓谷③

 確かに、悠長過ぎたかもしれない。

 ニーナの手前、少しでも緊迫感を和らげたいという気持ちがあった。

 ハーピーの肢体もずっと脳裏にちらついていた。


「押すのかな?引くのかな?」


 罠の有無など何も考えずに扉を開けようとしたら、突然衝撃が走り肩口から右腕が吹き飛んだ。

 腕がもげたくらいでは死に直結しないので、自動魔法パッシブクロノス回避アヴォイド】は発動せず、自分の身に何が起こったのかすぐに理解出来なかった。

 ニーナが爆ぜて散らばった腕を拾い集め、グレモリーは両手で俺の肩口を必死に抑えている。

 アデリッサのお気に入りである赤いドレスがより濃い赤色に浸食されていった。


「何やってんだグレモリー、ドレスが汚れるだろうが」


「何言ってんのよ!結界に無闇に手を出すなんて」


 グレモリーの後ろ、ニーナが持っているモノを見て、自分の腕が無い事に今更気付く。

 激しい痛みが一気に襲いかかる。拙い。

 急ぎ【回復魔法】を掛けると、腕が瞬時に治った。


「ふぇっ?治った?」


 女二人が奇跡的事象に目を点にして驚いている。

 確かに俺もこの圧倒的な回復力には当初から疑問に思っていた。

 強くなってきてはいるものの、そこまで威力の無い【攻撃魔法】【補助魔法】と比べ、【回復魔法】の威力は凄まじいのだ。

 もしかすると【回復魔法】と【時間魔法】には何かしらの因果関係があるのかもしれない。


「いや、すまんすまん。不注意だった」


 出来る男は切り替えが早いという。

 それにしても、結界とは厄介だな……

 無理矢理開けようとするとダメージを受ける。

 結界を解除するのには、聖なる力か大量の魔力が必要だとグレモリーがいう。

 聖なる力って何だよ。天使とか神官とかの力か?

 生憎ここにそんな力の持ち主はいない。

 もう一方の、大量の魔力ならある。

 悪魔が構築した結界は、同じ悪魔であれば干渉出来るらしく、俺に魔力を注がれたグレモリーが結界に手を伸ばした。

 結界魔法陣が浮かび上がり、抵抗するように眩く光りながら右回転をし始めるが、グレモリーが魔力を一気に放出すると左へと逆に回転していく。

 結界がバチバチと軋む音を上げるが、遂にはパリンとひび割れ破砕した。

 ところが、また新しい魔法陣が浮かび上がるではないか。

 結界魔法陣一枚を解除するのに必要な魔力は約五千。計六枚で魔力三万も消費してしまった。

 大した量でも無いんだが、こんなに魔力を使うと分かっていたら、扉が開いてた時間に戻れば良かったか?

 でもそれだと俺一人になってしまうな。怖い怖い。


 ————扉が開いていく。


 グレモリーの背中ごしに内部を覗きこむ。

 ……言葉を失った。

 暗くてはっきりとは見えないが、壁一面にみっちりと大勢の人間が埋まっている。

 呼吸させる為か上半身は露出しているが、身体の殆どが埋まり手足の自由は奪われ、意識が混濁してるのか弱々しい呻き声が響く。

 よく見ると何本もの植物なのか無機質なのか分からない管が絡み付いている。

 その管は天井の正体不明の肉塊に繋がっていた。


「これはこれは、名も知らぬお客人。

 この様な常闇の底まで何用であろうか?

 よもや迷い人とは申すまいや」


 脳内に声が流れると同時に、ピキリと空間が裂ける。

 物理法則を無視して、空中に出来た裂け目から男性が現れた。

 見た目は物腰柔らかそうな老紳士。

 黒革の服の上に足首まではある黒の外套を肩に羽織り、右手には長い杖を持っている。

 その杖を地面に向けて軽く突く。

 すると、俺達の【透明化】が掻き消えた。


「ほぅほぅ……三人もおったか、そこそこの魔力を持っておるのぅ。ほほほ、これは僥倖。

 どれ、素直に従うなら痛みは与えぬでな。

 おとなしゅうせい」


 老紳士は頭髪と同じ白い顎髭を摩りながら、顔を歪めて嗤う。

 赤く光った目が、自然と身体を震えさせた。


「こいつが、人間を攫って魔力を集めていたのか……」


「壁にいる人間はどうやらまだ命があるみたい。

 助ける気があるんなら、注意するべきね」


 グレモリーはとっくに臨戦態勢に入っていた。

 驚くべきことに、今のこいつには人の生命に対する優先順位が確立している。

 アデリッサの影響以外に、俺達と共に過ごす事で仲間意識が芽生えてきているのかもしれない。

 次にニーナを見た。放心状態で立ち尽くしている。やはり俺の懸念は当たっていた。

 これまで、彼女は人生の殆どを死と隣り合わせの闇の中で過ごしてきた。

 今、目の前に絶対的な死の象徴、悪魔が存在している。

 だからこそ今回連れてきたのだ。

 人が人を殺すなど所詮は同族殺しに過ぎない。

 自分の主人がそれ以上の恐怖と戦っている事実を知り、そのスキルは今後人類の為に使わせ、殺人業から完全に脱却させる。

 この子には日の当たる場所で生きる喜びを実感させてやりたい。


「ニーナ、安心しろ。俺達が力を合わせればこいつを倒せる」


 ニーナのハッキリしなかった目の焦点がようやく俺に合ってくる。

 最大限のフォローはするが、気をしっかり持たないと命が危ない。

 老紳士が静かに笑う。


「儂を倒すと申すか?

 ほほほ……、其れは異な事を。

 ここは儂が何百年と過ごす住処。

 谷底に入った人間共は、全て儂への供物。

 供物がある限り儂はここを出ぬ。

 これは遥か昔、儂と人間とが交わした契りぞ」


 そんな馬鹿な契約!

 人身御供なんて時代錯誤な事が……、いや、この世界は今もそういう時代なのか?プレルス領は一体、どうなってやがる。

 ボルストン王はその事を知っているのか?

 だが、俺はそんな契約を絶対に許したりはしない。


「そ、そんな昔の契約はもう時効だ。

 これ以上犠牲者を増やす訳にはいかない」


「犠牲……とな?

 儂は谷底に来る者以外の命は奪っておらぬ。

 古からの契約が未だ途切れぬのは、今なおこの谷に生贄を送り込む者がおるという事ぞ?」


 椅子に腰掛け落ち着いて話す老人。

 椅子?いつの間にか椅子がそこにある。

 いやいや、椅子などはどうでもいい些末な事。

 一体誰が生贄を捧げているんだ?

 この悪魔の手下が攫っていた訳では無かったのなら、人間の仕業という事になる。


「今も昔も、魔力は大事な資源よ。

 人間も国を挙げて同族や魔族から見境なく魔力を集めておるのを儂は知っておる。

 生きていく為に資源は必要であろう。

 それがこの世の在り方ゆえな。儂は咎めはせぬ。

 さて、お主は如何かな?」


 この悪魔は知っている。

 人間が、人間や魔獣から魔力を抽出している事を。

 ……この世界は狂っている。

 俺は、人間が食物連鎖の頂点だった世界しか知らない。

 だが、この世界では魔族、竜族、魔獣など人間より遥かに強い怪物相手に、人間は厳しい生存競争を強いられている。

 お主は如何かな?と言われたとて、一旦持ち帰らせて下さい、とでも言えばいいのか?

 いや待て、この世の在り方など今考える事ではない。

 まずは目の前の悪魔をどうするか、だ。


「例えば、生贄が途絶えたとしたら、ど、どうするつもりだ?」


「契約破棄となれば、この地の領主とその一族は皆殺しにするしかあるまいて」


「そ、それだけか?

 それ以外の人間の命は奪らないのか?」


「儂は無意味な殺生はせぬ。

 ただ必要な資源を採取するだけぞ」


 悪魔にとって人間は所詮資源に過ぎなかった。

 精神を削りながら恐怖を撒き散らすこの悪魔と、懸命に会話をしてきた今までの時間はなんだったのか?

 ただ、不毛の一言に尽きる。

 こんな所にこれ以上居たくない。


「もういい。この人達を救助しよう」


「抵抗せぬなら痛みを一切与えず死なせてやったものを……

 お主らにはこの谷底に来た時点で死ぬ結末しか用意されておらぬわ!」


 老紳士が一喝すると同時に、一気に解放された魔力が空間を震わせる。

 ゾクゾクッと背筋に悪寒が走り、脚が震え出した。

 見た目は老人だが、その内に尋常じゃない強さを秘めていたらしい。

 悪魔を中心に闇が広がり視界が暗転する。

 真っ暗闇の中、恐怖のみが身体を支配していく。

 全身が総毛立つ……悪魔ってこんなに怖かったのか……

 ……何か引っ張られる感覚がして振り返ると、ニーナが両手で服の裾をギュッと握り締めていた。

 彼女は必死に恐怖に打ち勝とうと、身体を震わせながら踏ん張っている。

 俺がしっかりしないでどうするんだ!


ライト防壁ウォール

 

 光が部屋内部に広がっていく。

 一つは視覚確保の為、もう一つは闇魔法対策への防御ではあるが、思ったよりも室内は暗いままだ。

 どうやら、悪魔の発生させる闇がより濃いのだとしか考えられない。

 暗闇の中から赤い目が煌々と光り、ゆっくりと身体のシルエットが浮かび上がってくる。

 長く伸びた白髪を掻き分け、頭から山羊の如き不気味な角が伸びていた。


 ————さぁ、魔宴の幕開けぞ

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