34.5話 フランツとイリス様
「イリス様、この花も喜んでくれるかなぁ」
白のカミツレを手に、馬車の中でフランツは呟いた。
誘拐事件から二か月が過ぎ、フランツ10歳の誕生日が迫ってきている。
今日は誕生会の打ち合わせもかね、イリスの公爵家に向かうところだ。
(カミツレはシオンと形が似ているから、イリス様も気に入ってくれるかな?)
イリスは飛びきりかわいいから、カミツレもよく似合いそうだ。
カミツレを手にした彼女の姿を想像すると、フランツの小さな胸が騒いだ。
(イリス様、最初の最初は目つきが怖い、おっかない子に見えたけど……)
顔立ちは整っていたけど、それ以上にとっつきにくい印象の勝る少女だった。
大人であるフランツの父親相手にも物怖じすることなく話す姿は、自分と1歳しか違わない少女には見えなくて、ますます近寄りにくかった。
おかげでイリスに苦手意識を抱いたフランツだったが、直後にその印象は、あっさりとひっくり返ることになる。
『目を開けてからのお楽しみです』
そう告げた彼女の横に立ち、次に目を開いた時、
『……………フランツ様。もう大丈夫です。目を開けてください』
『わあっ!!』
フランツの世界は一変した。
淡く虹色に揺らめくシャボン玉と、横で楽しそうに笑うイリスと。
胸のわくわくが止まらない、輝く世界がフランツを待っていたのだ。
(イリス様といると楽しくてビックリして、ドキドキの連続だったんだ)
シャボン玉を作り一緒に遊ぶと、イリスが穏やかな性格の、親しみやすい少女だとわかった。
大人びていてしっかりしているけど、どこか抜けているところもあって。
笑うとかわいくて、もっと笑って欲しくて。
最初は怖かった吊り目がちな紫の瞳も、気づけばフランツのお気に入りになっていた。
(だから僕はイリス様を喜ばせようと思って、シオンの花を取りに行ったけど……)
そのせいでイリスを巻きこみ誘拐されてしまったのだ。
怖くて心細くて泣きだしたくて、もしフランツ一人だったら、どうなっていたかわからない程恐ろしい体験だった。
『フランツ様、落ち着いてください』
『私の魔術があります』
そんな絶体絶命の場でも、イリスはとても落ち着いていた。
心の中では怖かったのかもしれないけど、涙を見せることも無く、フランツに寄り添い励ましてくれたのだ。
(あの時のイリス様は、おはなしの英雄みたいですごくかっこよかった……!)
イリスは冷静に大胆に、魔術で誘拐犯たちを倒していった。
小さな体で次々と誘拐犯をやり込める姿は、今まで会った誰より輝いて見えたのだ。
そんな彼女にフランツは頼りきりで、助けられてばかりだった。
支えてくれる優しい手は、とても嬉しかったけれど……それだけでは嫌だと、フランツの心に、強い衝動が生まれたのだ。
『……僕ばっかり守られて、支えられるのは嫌です』
思いを告げる小さな誓いの言葉は、幸か不幸か、イリスには聞こえていないようだったけど。
今もその思いは確かに、フランツの胸に宿っているのだ。
かっこよくてかわいいイリスに、頼ってもらえる存在になりたい。
それが今のフランツの、一番の願いになっていた。
「フランツ様、エセルバート公爵邸に到着いたしました」
「‼」
カミツレを手に、フランツは勢いよく立ち上がった。
早く早く。
はやる心の命じるまま、馬車を降り駆けていく。
「イリス様っ!!」
「こんにちは、フランツ様。今日も元気そうで良かったです」
イリスは不思議だ。
彼女の姿を目にするだけでフランツの視界は鮮やかに、ぱあっと明るくなる気がした。
「はいっ、これ! イリス様に似合うと思うんです!!」
「わぁ、綺麗ね。カミツレかしら?」
イリスが瞳をつぶり、カミツレの香りをかいでいた。
気に入ってもらえただろうか?
フランツがドキドキとしながら、イリスから目が離せないでいると――――
「イリス様、カミツレをこちらに。長持ちするよう、花瓶に生けてきますね」
イリスの背後から進み出てきた黒髪の従者が、フランツを現実に引き戻した。
(やっぱりこいつは、気に食わないな)
むっとした感情を、フランツは表に出さないよう苦労した。
イリスの従者、リオンのことが、フランツは気に入らなかった。
いじわるをされたり悪口を言われたわけではないけど、嫌いなものは嫌いなのだ。
(いつもイリス様と一緒にいて、澄ました顔をしていて……僕が誘拐された時も当たり前のように、イリス様を助けたんだ)
それが一等気に食わなかった。
イリスに助かられるばかりだった自分と、彼女を守ろうとしたリオン。
その差に焦り、彼と顔を合わせるたび、フランツは意識するようになっていた。
リオンには負けたくない。
理由はわからないけど、彼とはきっとこの先も仲良くできないだろう、と。
そんな予感が、フランツには確かにあるのだった。
「フランツ様、どうしたの? リオンが何か気になるの?」
「うぅん、何でもないよ」
イリスの声に、フランツは笑顔を浮かべた。
無邪気で天使のようだ、と褒められることの多い笑顔だったけれど。
その時のフランツは少しだけ、意識的に笑顔を作っていた。
リオンへの焦りや、ついイリスに手を伸ばしてしまいそうな思いを、フランツなりに隠そうとするための笑顔だ。
「カミツレ、こうするといいんじゃないかな?」
「わっ⁉」
フランツはリオンの手からカミツレを取ると、イリスの耳の上へ挿しこんだ。
「ふふふ、今のはイリス様驚いた?」
「もう、いきなり何するかと思ったら、また私を驚かそうとしたのね」
イリスの言葉と共に、白い花弁が薄紫の髪の上で揺れ動いている。
「驚いたし、嬉しいわ。可憐な花をありがとう」
「えへへ、どういたしまして!! イリス様もとっても可愛いです!!」
フランツが礼を言うと、イリスが少し照れたようにしている。
そんなイリスの表情こそが、フランツには何より可愛く映ったのだった。
☆☆☆☆☆
――――フランツ・フロース。
誘拐事件をきっかけとした彼の二重人格化は、イリスにより防がれることになった。
その事実に、イリスは安堵していたのだが……。
誘拐事件は、あくまできっかけの一つだ。
ゲーム中での計算高く冷酷な別人格もその大本は、フランツ本人の持つ可能性の、ある一面の凝ったものに間違いなかった。
フランツはイリスに出会うまで、何不自由なく幸福に生きてきた少年だ。
容姿と才能、家柄に恵まれ、両親も優しく愛情を注いでくれていた。
毎日が楽しくて、求めるものすべてが手の届く場所にあったのだ。
そんなフランツにとってイリスは初めて、自ら手を伸ばした相手だった。
一緒にいたい、笑い顔が見たい、たくさんの表情を独占したい、と。
欲しがる思いは、初めての感情は、フランツに変化と成長を促すことになる。
――――イリスの心を手に入れるためには、強く賢くならなければならない。
そう感じたフランツの変化は言うなれば――――腹が黒くなった。
イリスのためなら自らの容姿さえ利用し、上手く立ち回って見せる、と。
天使のような笑顔のフランツの変化を、イリスはまだ知らないのだった。
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