9.5話 従者リオンとお嬢様


 リオンの母ルイナへと、イリスが喘息の薬を渡してから一月ほど経った時のことだ。

 その日もリオンは早起きし身支度を整えると、ルイナの部屋を訪ねていた。


「母上、昨晩の調子はどうでしたか?」

「咳は出ず、朝までぐっすり眠れたわ」


 寝台から身を起こしたルイナは、穏やかな笑みを浮かべている。

 顔色も良く、強がっている様子はなさそうだ。


「良かったです。薬が効いているようですね」


 リオンは安堵を覚え、小さく息を吐きだした。

 最初は薬の効き目に半信半疑だったが、徐々に発作の回数も減り、効果を実感している。


「えぇ、元気になってきたわ。こんなに爽やかな気分で、朝を迎えられたのは久しぶりよ」

 

 ルイナの変化は肉体面だけでは無かった。

 笛鳴り病改善の兆しが見られたことで、精神も上向いてきている。

 明るさと活気を取り戻した母親の姿が、リオンにはとても嬉しかった。


(イリス様のおかげだ……)

 

 感謝と尊敬。

 そして心臓が弾むような、どこか落ち着かない気持ちが、リオンの胸を満たしていった。


「リオン、どうしたの? 何かいいことでもあったの?」

「……なんでもありません」


 母親のルイナは鋭かった。

 リオンは意識して無表情を保つと、ルイナの追求から逃れるため、足早に部屋を出た。

 向かう先は一直線。主であるイリスの元だ。


(イリス様……)


 年下の主と出会った日、リオンはとても驚いたのを覚えている。


『リオンは汚くなんて無いわ』


 そう言ってリオンの手を握った掌は、ほんのりと温かかった。

 小さなぬくもりが、凍えたリオンの心に触れたのだ。


(父上が投獄され、僕が平民になってから、周りは敵ばかりだった)


 罵声と嘲り、容赦なく向けられる悪意の刃の数々。

 仲良くしていた貴族の知り合いには切り捨てられ、平民からも遠巻きにされる生活。

 哀れみの言葉をかけてきた人間もいたが、瞳の奥にはたいてい、隠し切れない蔑みが宿っていた。


 一変した境遇は、幼いリオンから表情を奪っていくのに十分だった。

 心が傷つかないよう、無表情の仮面がリオンに張り付いていったのだ。

 

 そんなリオンだから、イリスに優しい言葉をかけられた時も信じられなかった。


 どうせ口先だけ。

 内心では、自分たち親子を見下しているに違いない。

 ……そう警戒していたのに、イリスはリオンの手を握ったのだ。


『……リオンはリオンでしょう? あなた自身が罪を犯したわけじゃないんだから、私は気にしないわ』


 イリスの言葉は、リオンの心にすっと染み込んでいった。

 理由はきっと、イリスの口調が軽かったからだ。


 同情するでも恩を着せるでもなく、ただ当たり前のことを告げるように、ひょいと投げかけられた言葉だったからこそ、リオンの心に響いたのだった。 


(イリス様は変わったお方だ……)


 優しくて聡明で。

 でも夢中になると周りが見えていなくて、少し迂闊で。

 従者でしかないリオンを守るため、公爵である父親にも意見を唱える、勇敢で危なっかしいお嬢様だ。


 そんなイリスからリオンは目が離せず、気づけばつい、イリスの姿を目で追っている。


(……僕は、イリス様に必要とされる従者になりたいんだ)

 

 イリスの声を聴き、その笑顔をずっと近くで見ていたい。

 そのためにはリオンは、彼女の傍らにあるにふさわしい、優秀な人間にならなければならなかった。

 イリスの魔術、そして人柄はこの先多くの人間を惹きつけ、ライバルはどんどん増えるはずだ。


(すでに母上だって、イリス様を気に入っているし……)


 リオンの胸が少しもやりとした。


『どうしたのリオン? 私がイリス様と仲良しに見えて、嫉妬してるの?』


 ルイナがイリスと初めてあった日のことだ。


 ルイナの指摘通り、リオンは確かに嫉妬していた。

 母親であるルイナを、イリスに取られたように感じたから――――では無くて。

 イリスから楽しそうな笑顔を向けられた、母親が羨ましかったからだ。


(母上とイリス様が仲良くなるのは嬉しいはずなのに、なんでだろう?)


 リオンは疑問を感じつつも、素早く髪と服を整えた。

 一つ深呼吸し、目の前の扉をノックし開いた。


「おはよう、リオン」


 朝の光に照らされ、イリスの薄紫の髪が輝いている。

 キラキラと眩しい視界に、リオンは目を細めた。


(綺麗だ……)


 少しだけ心臓が騒ぐ中、リオンの従者としての一日が始まったのだった。



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