9話 ちょっとした違いで
「私は、もうすぐ儚くなる身です。残されるリオンを私の分も、イリス様が見守ってくれませんか?」
予想外のお願いに、咄嗟に返事を返せなかった。
ルイナさんは頭を下げ、とても真剣な様子だ。
「いきなり何を言うんですか……?」
「出会ったばかりのイリス様に頼むなんて、厚かましいことだとわかっていますが、どうか叶えて欲しいのです」
「いや、そうじゃなくて……。ルイナさんは、そんなすぐには死にませんよ。断言はできませんが、たぶん」
「ふふ、お優しいのですね。……でも、私の体は、自分自身がよくわかっています。笛鳴り病が始まったのは5年ほど前ですが、ここ1年で急速に悪化し、改善の兆しはありません。咳をするたび、体力が奪われ死の足音が近づいてきているのがわかります。きっと、次の冬はこせません」
ルイナさんの言葉に、一気に空気が重くなる。
リオンは無表情だが、ぐっと拳を握り込んでいた。
「ルイナさん、悲観しないでください。笛鳴り病が悪化した原因には、心当たりがあります。原因を取り除き治療をすれば、咳を抑えられるはずです」
「……優しい嘘はいりません。何人もの薬師に見てもらいましたが、治療法な、ど――――」
「ルイナさん?」
ひゅい、と。
笛の鳴るような音が、ルイナさんの喉から響いた。
「――――っ、はっ、ごほっ、はっ、ごほがほっ、あっ、はっ……!!」
猛烈な勢いで、ルイナさんが咳き込み始める。
喘息の発作だ。
「母上‼ こっちだ!!」
リオンがルイナさんの体に手を添え、長椅子へ寝かそうとした。
「っはっ、ごほがほっ!!」
「逆効果よ!!」
「なっ⁉」
ルイナさんの体を支え、長椅子に座らせる。
「何をするんですかイリス様⁉ 早く母上を寝かせてください‼」
「駄目!! それじゃ悪化するわ!!」
「がっ、はっ、はっ、ごほっ、はっ、はっ、っ………」
ルイナさんの咳が、徐々に小さくなっていく。
夜間で無いこともあり、軽い発作だったようだ。
「っ、はっ、はっ、っは、イリス、様、ありが、っはっ……」
「無理に話そうとしないで、落ち着いて息を吸ってください」
注意深く見守っていると、ルイナさんは呼吸を取り戻した。
笛鳴りの音――気道狭窄はまだ残っているようだが、ひとまず発作は落ち着いたようだ。
「イリス様、どういうことですか? 母上の咳が、こんなに早くおさまるなんて……」
「座らせたからよ」
具合の悪い人がいたら、体を横に寝かしてやる。
感覚的には間違っていないが、喘息に対しては逆効果だ。
「仰臥位……体を横にすると、立ったり座ったりした時は足先の方にある血が、胸部に戻ってきてしまうの。そうすると血で胸部にある肺が圧迫されて、呼吸しにくくなってしまうのよ」
医学用語で言うところの、静脈還流量の増加による肺うっ血の助長だ。
健康なら特別意識する程の変化ではないが、喘息では話が別になってくる。
「呼吸しにくくなると、ますます咳が悪化しておさまらなくなるわ。咳が出始めた時は、座らせてあげると楽になるの」
「そういうことだったのね」
ルイナさんが会話に加わってきた。
おおよそ、平静を取り戻したようだ。
「具合が悪い時は横になるのが一番だと言われ、今までそうしてきましたが……。座るだけで、大分楽になりました」
「改善して良かったです。次からも発作の時は、座るようにしてください」
「はい。イリス様の助言通りにしたいと思います」
頷くルイナさんへと、更に畳みかけることにする。
「ルイナさんは先ほど、治療法も無くもうすぐ死ぬと言っていましたが……。そんなことはありません。ちょっとした対処で楽になることは、今実感してもらえたと思います」
「…………私は、どうすればいいのですか?」
「まず第一に、間もなく死んでしまうと思いこなまいようにしてください」
喘息の悪化原因の一つに、心理的ストレスがあった。
夫を亡くし、貴族から平民になったルイナさんに、ストレスを感じるなと言うのは難しいけれど……。
それでも、死の恐怖に囚われず前向きに治療に励めば、多少なりとも改善ずると思いたかった。
「ルイナさんにはリオンがいます。リオンのためにも私の言葉を信じて、気を強くもって欲しいんです」
「リオンのため……」
ルイナさんが、ぐっと拳を握り込む。
「私も、笛鳴り病の治療に協力したいと思います。必ず治ると、そう約束はできませんが……。この薬を飲んでもらえませんか?」
魔術を使い、薬を作り出す。
喘息の治療薬としては吸入ステロイドがメジャーだけど、吸入タイプの薬は専用の器具が必要になるので難しい。
代わりに喘息患者向けの、飲み薬をいくつか作り出した。
「この薬を服用すれば、徐々にですが、笛鳴り病は改善していくと思います」
「…………」
ルイナさんが戸惑っているのがわかった。
当然だ。
お父様は鉛中毒の治療薬を飲んでくれたが、それは娘である私への信用があったからだ。
先ほど私と出会ったばかりのルイナさんが、8歳の小娘でしかない私のことを、信用できないのは当たり前だった。
「大丈夫です。毒なんかじゃありません、よっと」
「飲んだっ⁉」
薬を一つ、口に入れ嚥下した。
今作り出した薬、ロイコトリエン受容体拮抗薬の副作用として、吐き気や腹痛の消化器症状があったが、重篤になる例は稀だから、きっと大丈夫なはず。
……必要でも無いのに薬を飲むなんて、良い子は真似しちゃ駄目だけどね。
「……わかりました」
私のパフォーマンスに、ルイナさんの心も動いたようだ。
迷いながらも、薬へと手を伸ばした。
「イリス様の薬、飲ませていただきたいです」
☆☆☆☆☆☆
「イリス様には、驚かされてばかりです……」
ルイナさんに服薬指導をし、自室に戻ってもらった後。
リオンがぽつりと口を開いた。
「まさか自ら、毒見をなさるなんて……」
「毒見……」
言われてみれば、確かにあれは毒見の一種だ。
リオンには少々、刺激が強かったのかもしれない。
「次からは、あんなことはやめてください。……心臓に悪すぎます」
ほんの少しだけど、リオンが眉を寄せていた。
貴重な表情の変化だった。
「イリス様……? 急に笑って、どうしたんですか?」
「リオンが感情を顔に出してくれたからよ」
「っ……!!」
指摘するとあっという間に無表情に戻ってしまった。残念だ。
まだ9歳のリオンには無理に感情を押さえつけず、表に出して欲しかった。
「……僕の表情の変化に、なんの意味があるんですか?」
「私が歓迎するわ」
「……ますます意味がわかりません」
ぷい、っと。
リオンに視線をそらされてしまった。
その反応自体が、多少なりとも私に心を開いてくれたようで嬉しかった。
「母上を助けてくれたのは、心から感謝していますが……。もし今度毒見をする時は、代わりに僕に申し付けてください」
アッシュブルーの瞳が、ひたと私を見据えた。
「……イリス様は僕の手を握り、母上を助けてくれました。そんなイリス様をお守りすること。それが、従者の僕の役割ですから」
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