8.真白い小部屋の
腫れ物に触れるようにそっとだよ。
彼が言った。
その表現、よく耳にするけどピンと来ないわ。
肩をすくめての返答に、彼は嘆く仕草をしてみせた。
君はニキビができたことがないのかい。そのくらいあるに決まってるでしょう。だけど痛くなんてなかったわ。君の肌がきれいな理由がよくわかったよ。
彼女と向き合う男の顔には、幾つかのあばたがあった。
ニキビをつぶすとこうなるのさ。初めは大したことないのに、つい気になって触っちゃうとさ、酷い腫れが起こって、つぶすと凹んであとが残るのさ。
ふうん、と女は気のない返事をする。
バイキンってやつね。
言いながら、彼女の目線は男の顔を離れた。彼もまた、彼女と向き合うのをやめて視線を落とす。その先に、少年が居た。
正しくは、少年の躰が横たわっている。
もっと正しく言えば、少年を模した人形が仰向けの姿勢で置かれている。よく出来ていた。生きていないことが信じられない精巧な造りである。上下しない胸、呼気を発しない唇。しかし今にも動き出しそうだ。ぴくりと指先が痙攣しても、驚きよりむしろ納得するだろう。
これ、本当に硝子なの?
とてもそうは見えないと、彼女はまじまじと観察する。少年の肌はつるりとして、あばたは愚か、ニキビができる気配すら感じられない。けれどもそれは、モニタ越しのアイドルの肌に毛穴が見えないのや、念入りに化粧した生身の女の肌が均一なのと、殆ど同じ印象だった。確かに作り物めいて現実感が薄い。だが、無機物という感じはしない。
君は、随分とざっくばらんなタイプらしいね。
呆れたふうな声を彼は出した。資料に記載されていた内容を彼女が大雑把にしか捉えていないことを知って、やや落胆した様子だ。
硝子と言えば硝子だけど、セラミック製だ。それとカーボンファイバー。一部にパラフィンも使われている。
古臭い材料ばかりね。
にべもなく彼女は言い捨てる。
石膏に胡粉よりはましだけど。もしくはビスクドールとか。いっとき、シリコン製のお人形が流行ったそうじゃない。あなたもお世話になったのかしら?
ニタリと下世話な笑いが、彼女の赤く塗られた唇に浮かんだ。男は辟易した態度で首を振る。
で、これをどうしろって? 運び出して欲しいんだ。丁重に、腫れ物に触れるようにね。それはさっきも聞いたわ。運んでどうするのか訊いてるのよ。
彼女は詰問口調になる。今度は彼が肩をすくめた。
さあね、僕は単に付き添うよう言われただけだ。これが運び出されるまで、破損がないよう見守って、運び終わったら損傷がないか確認する。それだけさ。君は優秀なエージェントだと聞かされているよ。エージェントって言うのは無駄な質問はしないものだと思ってたけど?
ふん、と彼女は鼻を鳴らす。
そうね、優秀なエージェントは無駄口を叩かないものだわ。
パシュンッ、と気の抜けた音が微かにした。それから鈍く重い音。男が床に倒れたのだった。額に穴が空いている。彼女の手にはペンより小さな銃が握られていた。
呆気ないわね。
彼女は呟いて手の中のものを胸ポケットに戻す。男の亡骸から目線を離した。視線を落とす。少年を模した人形が仰向けに置かれている。
彼女の聞いた話では、これは兵器らしかった。と言って、これが人形であることに違いはない。よくできた少年の人形。空洞となった内側に凶悪な仕掛けが施されている。それが未知の細菌なのか驚異的な爆発物なのか、或いは放射線のような目には見えない化学物質なのか、詳細までは知らされていない。かつての大戦の負の遺産。安易に破壊すら出来ず、永遠に隠蔽し続けるより仕方のない代物。
これをどこに運ぶって?
人形よりも人形じみた死体に問いかける。もちろん、彼は応えない。どこの国の誰なのか、それすら彼女は興味がない。ただどこかの国の誰かさんがこれを欲し、盗みだそうとし、失敗した。それだけだ。彼女の役目は、そういう輩から人形を守ること。必要な手筈は上層部が勝手にやってくれる。彼女は指示に従い実行するのみだ。
せめて死体を運ぶ手伝いくらい寄越してくれると助かるんだけど。
ぼやきながら、彼女は意思のない体を担ぎ上げた。額の穴からは血の一滴も流れていない。小さな弾丸は皮膚を破ると同時に焼ききって傷口を塞ぐためだ。脳幹を一撃。彼女の腕は確かである。自分より背の高い男の体を背負い、ずるずると彼女は部屋を出て行った。
白い、四角い、物のない空間。残されたのは少年を模した人形、ただひとつ。作り物めいて現実感が薄く、しかし無機的でもない肌をした少年。小づくりな唇は今にもほうと淡い息を吐き出しそうにやわらかな造形で、閉じた瞼に青く血管が透けている。均一に並んだ細い睫毛。端整な容貌。青光りする素直な黒髪。華奢な喉首から肩へと続く硬質な線。微動だにしない薄い胸板。細くとも伸びやかな四肢。
スライド式の扉が閉じる。人の居なくなったのを感知して室内の照明が自動で消える。
ぽつり。
黒曜石に似た一対の瞳が、湿り気を帯びて輝いていた。
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