7.帰り道の

 僕は初めから乗り気じゃなかった。はっきりと、嫌だった。

 夏休みの期間にはそこここで祭りがある。盆踊りだの、宵闇祭りだの、花火大会だの。僕はどれも好きじゃなかった。姉の所為だ。姉がいつも連れ出すから。僕はそれが嫌なのだ。

 他の級友はみな、友達同士どこかしらで待ち合わせをして、連れ立って祭りを回る。気の置けない者同士、手に手に綿菓子やりんご飴を持ってそぞろ歩くのは、楽しいに違いない。一緒になって型抜きをしたり、金魚すくいで白熱したり。ハズレばかりのくじ引きだって、子供だましの射的だって、仲間と一緒なら楽しいに決まっている。僕にだって友達くらいは居るのだ。彼らとだったら盆踊りだろうが夜祭だろうが歓迎する。

 だけど僕にはいつでも先約があった。姉だ。姉が言いつけるのだ。一緒に家を出るんだから、今日は早く帰って来なさいよ。そんなふうに。

 姉は実に勝手な人で、そう言って僕を無理やり連れだす癖に、いつの間にか姿をくらます。僕だけを取り残して、喧騒の中に消えてしまうのだ。そうして置き去られた僕に、声をかけてくれる友人は居ない。何故かいつも、ひとりきりだ。友達くらいいるはずなのに、その時に声をくれる友人は、僕が紛れ込める級友の輪は、その場には見当たらない。

 だから、僕はひとりでうちに帰る。

 気が重い。

 僕が本当に嫌なのは、この、ひとりで家路を辿ることなのだ。


 今夜もまた、姉はいつの間にか不在だった。僕は周囲を見回して、誰も見知った顔がないことに落胆する。広場は賑わっていた。だけど、まるで誰も居ないのと同じだ。肉の焼ける匂いがする。フランクフルトか焼き鳥だろう。ソースの匂い。醤油の匂い。焦げた匂い。ピカピカと忙しなく光る玩具。腕輪型のもの、指輪型のもの。ぐるぐると回り続けるスーパーボールの浮かんだ青い桶。ヨーヨー釣り。ミドリガメ。色を塗られた不自然なヒヨコ。

 中央に組まれたやぐらからは、四方八方にケーブルが渡され、丸い形のぼんぼりが熱した夜気に揺らいでいた。暖色の灯かりの連なりは、見る者をぼうっとさせる。

 このままここで待っていたらどうだろう。

 僕は考えてみた。姉が戻ってくるのを待って、共に家路につけばいい。そうすれば、少なくともひとりで帰らずに済む。

 祭りの会場はとても喧しい。人出が多い上に、スピーカーから割れた音楽が流されている。人いきれに混じって煙と匂いも立ち込めている。この日のために箪笥の奥から引っ張り出したのだろう和服に染みた、樟脳の匂いもしている。耳も、鼻も、もう満タンだ。僕にはとても耐えきれない。

 そう考える頃にはもう、僕は夜道に佇んでいた。真っ直ぐな大通り。喧騒は風に紛れて届くだけの広場から離れた道の上。

 仕方なしに家路を辿った。

 歩けば小一時間はかかる道のり。会場へ向かう時は電車に乗った。駅へ向かうべきだったと、後悔しながら足を動かす。この通りは駅へは続いていない。

 時折、車が僕を追い抜いていく。やがて道は入り組んだものになり、車も人も通らなくなった。公園を通り過ぎる。遊具もない、小さな公園だ。ここでは盆踊りも夏祭りもひらかれないことだろう。

 坂道を過ぎて、川沿いを歩く。川から離れて国道に出る。信号を渡って住宅街へ。

 長年閉まったままの居酒屋を右手に通り過ぎた脇道に入れば、じきに僕の家があるはずだった。

 利用者の少ない地元のストア。級友の母親が経営するスナック。枝垂桜のある民家。郵便局。

 ハッと僕は振り返った。

 立ち尽くす。

 家に続く脇道はとっくに通り過ぎていた。

 閑寂とした商店街を僕はふらふらと抜けてゆく。僕の家が遠ざかる。正面には山があった。黒っぽく沈んだ低い塊が。ちろちろと水の流れる音がする。用水路をカブトエビが泳いでいる。時雨のような蛙の合唱。

 進む先に鳥居が見えた。二車線分の道路にそびえる、灰色の大きな鳥居。石なのかコンクリートなのか、有難みも神妙さも感じさせない鳥居だ。その向こうに参道が伸びている。山に向かって傾斜しながら真っ直ぐに社へ続いている。

 左右に電灯が立っていた。等間隔に連なっている。ぼんぼり色の丸い灯かりだ。僕はその間を歩いてゆく。道はだんだんと狭くなる。ぼんぼりがにじり寄ってくる。

「また道に迷ったのかい」

 ひっそりと闇の中から声が掛かった。澱みのない澄んだ声音だ。

 艶やかな黒い髪をした細身の少年が立っていた。真っ直ぐな膝小僧と骨の浮いた手首と、余分な丸みのない輪郭とが、白く闇に浮かんで見える。

「君は迷子になるのが得意だね」

 嘲りのない笑みを含んだ声で少年は言った。僕は頼りなく首を動かす。頷いたのか、左右したのか、自分でもわからないくらいに曖昧に。

「途中まで送ろうか」

 問いかけにまた、僕は首を動かす。

「それとも送り届けようか」

 ひんやりと夜風が首筋を撫でた。白い手が闇間を泳ぐ。手招きにも、追い払う仕草にも見えた。

「姉さんが居ないんだ」

「前に聞いたよ」

「置いてけぼりを食わされた」

「それも聞いたね」

「先に帰ったのかもしれない」

「どうだろうね」

「待っていたほうがいいのかな」

「どこで誰を待つんだい」

 問いかけに、首を傾げた。

 待つなら会場で待っているべきだったのだろう。それより家で待つほうがいいのか。僕は家に帰らなくてはいけないのだろう。だけど道を見失ってしまった。彼に案内を頼むべきだろうか。彼は僕の家の場所を知っているのか。

「君は――」

「ほたるだ」

 不意に告げた少年の声に、僕は言いかけた続きを見失った。代わりに薄緑色の光を見出す。季節外れの小さな虫に気を取られ、僕は明滅する軌跡を追いかけた。参道が遠ざかる。山が遠のく。鳥居を潜る。閉じた静かな商店街を抜ける。ぽつんと佇む郵便ポスト。生け垣に枝垂れる桜の枝葉。

 もうすぐだ。もうすぐ居酒屋の手前の脇道が――


 音楽が流れていた。

 焼けていく肉の匂い。樟脳くさい和服の人々。ぼんぼりの灯かり。二色の垂れ幕。

 早く帰って来なさいよ。

 姉の声が聞こえてくる。僕はまた、上手に家路を辿れない。

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