6.個室の(Y)
彼はゆったりと身を沈めていた。
気に入りのソファだ。
伸縮するなめらかな生地に微細なビーズがたっぷりと詰まっている。
単体ではそら豆に似た形をとるが、人が掛けると重みに応じて形を変える。
彼はそれを縦長に使っていた。
殆ど仰向けに臥していると同じ姿勢で、腰も背中もとっぷり沈め、四肢をぞんざいに投げ出している。
そうしていても丁度いい具合に足の裏が床に触れる厚みが気に入っていた。
彼は深く眠り込んでいるかのように目を閉ざしている。
瞼の薄い切れ長の目元だ。
睫毛が
鼻筋はすうっと筆でひと撫で描いたように浅く、唇の色は淡い。
端整ではあるが美貌とは言い難い面立ちは、雛飾りの金屏風の前に鎮座する白々とした澄まし顔を彷彿とさせる。
要するに地味だ。
彼はそのことを少し気に病んでいる。
不細工だとは思わないまでも、パッとしない、華やぎのない、平面的で味気ない風貌。
それは顔に限ったことでなく、体つきにしても同様だった。
細い手足と薄っぺらな胸、凹んだ腹。
肉付きが薄いだけではなくて骨そのものが細いのだろう。
筋骨隆々とは真逆であり、背丈も低くはないが高くもない。
およそ主張とか特徴とかいったものを持ち合わせない、平凡な、格別の印象を残さない容姿だ。
――ああ、つまらない。
ふっと息を吐き出して、彼は少しばかり寝返りを打った。
仰向きと横向きの間くらいの半端な寝姿勢で左手を伸ばす。
目は開けないまま手探りでぬいぐるみを掴み取った。
胸に抱く。
くったりとしたタオル地の、耳の長いテディベアのような顔をした兎のぬいぐるみだ。
さんざん抱いて寝ているうちに頸の部分が細くなり、今にもボロンと頭がもげそうに古びてきている。
時々洗濯乾燥機に放り込む乱雑な手入れも良くないのだろう。
いつの間にか釦が取れて片目になってしまっている。
大層お気に入りなのだった。
両腕の中に程よく収まるのを絞め殺すように抱きしめて、
彼はまたうつらうつらと微睡んだ。
彼はけして熟睡しない。
深々とソファに身を沈めても、深く眠りに沈み込むことはない。
ぐっすりとは眠らない。
殊に一人きりでは、絶対に。
眠ると怖い夢を見るから、
怖い夢から起きた時、悪夢の余韻に一人ぼっちで取り残されるのが嫌だから、
『パンがなければお菓子を食べれば良いのよ』と言ったどこかのお姫さまみたいに、
悪夢が嫌なら眠らなければいいのだと、彼の理屈はそうだから、
だから彼は熟睡しない。
嫌な出来事は早々に忘れ、嫌な経験は避けて通り、嫌いなものは寄せ付けず、嫌いな食べ物は口にしない。
そういう主義を彼は掲げることにしている。
であるからして、
彼の沈むソファの周囲には、好きなものだけ散りばめられていた。
そこは彼に与えられた個室で、小さな彼の王国だ。
ソファは寝椅子を兼ねている。
眠らない彼の部屋にベッドは不要。
代わりに大ぶりのキャビネットが窓際の壁面を埋めている。
深い色合いの木目が美しいローズウッドのキャビネットだ。
細かな彫刻と滑らかな猫脚、抽斗には真鍮の取っ手。
重厚さと華奢さを備えた上等の品だ。
ふらりと立ち寄ったアンティーク家具屋で見つけた。
天面にはラグラン織の重たくて豪華な布を被せてある。
その上にはたくさんのガラクタが載っていた。
ロケット型のペン立てがついたインク瓶を置く木製の皿。
和風の名前が素敵なインク、ラベルの絵が可愛いインク瓶。
それを使うための万年筆が数本。
カリグラフと言う飾り文字を書くための専用のものもある。
どれも使ったことはない。
ガランガランと中東風の音のする銀色の錫の鈴。
表紙がひしゃげて栞の紐が寸足らずになった分厚い童話の全集。
サイケデリックな彩りのレコード盤のジャケット。
中身はどこかに行ったか知らない。
機嫌の悪い時に引きちぎって、後悔して縫い合わせたけれども元には戻らなかった耳の付け根から綿の飛び出たネコのぬいぐるみ。
夜店の安い万華鏡。
宝石入りの高価なカレイドスコープ。
ビリジアンのアクリル絵の具。
プルシャンブルーとカーマイン、ウルトラヴァイオレットの油絵具。
惑星柄のブランケット。
プードルみたいな色と手触りのひざ掛け。
幾つかハリの飛んだオルゴール。
戦隊ものの怪獣を象ったビニル製のお風呂で遊べる玩具。
どこの民族のかわからないヘンテコな仮面。
永遠に転がり続けるという煽り文句の箱に入っていた七色の卵。
水玉模様のイースターエッグが入った籐編みのバスケット。
イースターがいつかは知らない。
西洋のお城の模型と枯山水の庭園のジオラマ。
黒猫柄の傘、黄色の鮮やかなケープ型の雨がっぱ、虹のかかった空色のブーツ。
太陽電池で口がパクパクさせるプラスチックの蛙。
動いているのを見たことはない。
ガラスに埋まった水中花。
ガーネットに似た砂利だけ敷かれた空っぽの水槽。
割れない素材の金魚鉢と、尾の欠けたガラス細工の金魚。
気泡入りのラムネ瓶。
綺麗なオレンジ色の詰まったジュース瓶。
スイッチを入れると即席のプラネタリウムが楽しめる濃紺色の天球儀。
金ぴかの千手観音像。
手のひらサイズなのに精緻で、そのくせセルロイドみたいに軽い。
雫型の白熱球の連なりに蝶が舞うデザインのお洒落な電飾。
植えっぱなしのポトスとパキラ。
透明なサイコロ。ジグソーパズル。ゆらゆら偽物の炎が揺れるランタン。
扉を開くと電子音が流れるカボチャの馬車のジュエリーボックス。
土産物屋でよくある星砂の小瓶。スノードーム。イルカの鳴くポールペン。
とうに光らなくなったサイリウムの腕輪。萎んだ風船。
金魚すくいで使うポイの束。
真ん丸な毛糸。ブリキのネズミ。価値を知らない外国のお金。陶器のブタ。
キャビネットに置ききれないものは隣の棚に押し込められたり床に散りばめられたり。
煩雑に、乱雑に、氾濫する気に入りのものたち。
それに囲まれて彼は微睡む。
目を閉じて、うつらうつら。
ソファに深く身を沈め、意識は深く沈めずに。
植物柄のカーテンと、果物柄のカーテンと、ひとつの窓にかけられた、
高級なアンティークキャビの隣に、白木の図太いいかにも手製なやけに武骨な棚の置かれた、
床には楕円形のや四角い縞々のや羊の色と形のや毛足の長いフカフカの複数のラグがバラバラに敷かれた、
薄暗い、広くない、狭くもない、片隅に唐突に真っ白な冷蔵庫がある彼専用に与えられた一室。
そこは彼一人の王国で、
宝箱で、玩具箱で、
ガラクタ入れの屑箱だった。
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