希望を持って

この日、春次はるつぐさんは初子はつこさんをさそった。お茶でも飲みに行こうと。私は、胸さわぎがした。もうそのときが来てしまうのではないかと。私はおそれている。

 リビングには、正雄まさおさんと鈴美すずみちゃんが遊んでいた。

「それじゃあ、行ってくるね」

 春次さんは、明るい声で二人に言った。

「お兄ちゃん」

 鈴美ちゃんは、言った。

「お兄ちゃん」

 もういちど言って、鈴美ちゃんはこちらへやってきた。すると、ぎゅっと春次さんを抱きしめた。春次さんは、鈴美ちゃんの視線しせんに合わせるようにその場でしゃがんだ。そして、鈴美ちゃんの頭をなでた。

「気をつけてね」

「うん」

 鈴美ちゃんは、身をはなした。玄関に向かう春次さんのあとをついていった。リビングにいた正雄さんもこちらにきた。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 ふり向いて妹ちゃんたちに手をふった。妹ちゃんの目のまわりはぬれていた。

 前を向いて、何歩が歩いたとき、目の前の視界が、うるうるとぼやけた。春次さんは、それをぬぐった。「俺はもうすぐ死ぬのかな」と、ぽつりと言った。私は、もう悟ってしまった。私だけではなく、春次さん自身や、鈴美ちゃんや正雄さんもだろう。覚悟しなければいけなかった。ああ、悲しいな。

 

 春次さんは、初子さんと会った。

「いい天気だね」と初子さんは言った。空は一色の空の青色。黒くも白くもにごっていない。き通った空には、ひとつやふたつとシュークリームのようなかたまりの雲がかんでいた。

 二人は、仲良く話しながら、喫茶きっさ店へと向かっていた。

 

 目の前には、広い道路の横断おうだん歩道があった。それは、どこかで見たことのあるところだった。そう思って途端とたん、私は慄然りつぜんとした。歩行者用の信号は青だった。二人は横断歩道をわたった。向こうから、車が近づいてきていた。車用の信号は、赤のはずだから、止まると思った。

 ところが、車は止まらなかった。車が横断歩道の白線にみ入れた瞬間、二人は激突げきとつされてっ飛んだ。ちゅうを飛んでいた。そしてまもなく、落下らっかした。目の前が一瞬でやみと化した。


──ああ、死ぬな。


 春次さんの心の声が聞こえた。それは、とても短かった。

 しばらくして、意識が戻った。かのように思えたが、戻ったばかりの意識はもうろうとしていた。あの場面だ。一番最初に見た記憶の場面。初子さんが、顔をのぞかせた。そして泣きさけんでいた。明暗めいあんをくり返していた視界はついに途絶とだえた。


 終わってしまった。ついに。さびしさと悲しみが強くあらわれた。


「そんなに悲しまないで」

 何だ。真っ黒な世界のどこかから声が聞こえた。かと思うと、目の前には一人の青年が立っていた。いかにも優しそうな青年だった。彼はきっと、春次さんなのだろう。いつの間にか、私は春次さんではなくなっていた。

「……春次さん?」

 私がそう言うと、彼はうん、とうなずいて優しくほほえんだ。彼が春次さんだと判明すると、悲しみとともに涙があふれてきた。彼はもう亡くなってしまったのだ。

「春次さん」

 私は足を踏みだした。動けた。私はそのまま歩いて彼のふところの中に飛び込んだ。彼は私を優しく包み込んだ。ぽかぽかとあたたかい。そのあたたかさが私の悲しみや苦しみの氷をじわりじわりと溶かしていた。その水が、さらに私の目からぶわっとあふれでてきた。彼の胸に顔をふせて、わあっと声をだして泣いた。こんなに泣いたのはかなり久しぶりだった。

「そんなに、泣かなくたっていいんだよ」

 泣いている私に春次さんは、言った。

「俺は死んじゃったけれど、気にしなくてもいいよ。大丈夫だから。俺のたましいは、また生まれ変わったんだよ」

「……それって、誰に」

「君だよ」

 春次さんは、はっきりと言った。

「俺の魂は、君に、ゆかりちゃんに生まれ変わったんだよ」

 私は、さらに悲しみの底に突き落とされた気がした。なんで私なんだろう。もっと他にいい人がいたはずだ。

「君が一番いい人なんだよ」

 え? ──今、私の心の声を読んだ?

「俺の理想とぴったり合うからね。君も栗まんじゅうが大好きみたいだし」

 あ、私の無性の栗まんじゅう好きは、春次さんからくるものだったのか。

「俺の魂は、君の中にある。だから俺は、いつも君のそばにいるから、君はひとりぼっちじゃないんだよ」

 春次さんは、ずっと私の心の中に住みついていたみたいだ。私が自分はダメな人間だと強く思い始めてから、ずっと感じていた孤独こどく感。クラスでぽつんと一人でいるとき、グループで動く時間でも私だけ取り残された感がわいたときはもちろんだが、家族で話しているときも、どこか孤独感があった。それは、病院に入ってからもだ。一人ではないのに、独りぼっちになっているような気分の私がどこかにいたのだ。私の心の中にずっと住みついていた春次さんには、気づかれてしまっていたみたいだ。

「私は、独りじゃない」

「うん、君は独りじゃない。だから、希望を持ってもいいんだよ」

 希望。私は絶望しか持っていなかったな。私は、春次さんの体から一歩離れた。

「そうだ、もうすぐ鈴美ちゃんに会えるんです」

「あ、そうだね」

「近いうちに、他の弟さんたちにも会えるかもしれない」

「俺の体はもうこの世にはいないから、みんなのこと、よろしくたのむね」

「はい!」

 春次さんは、にっこりと笑顔をみせた。


 気がつけば、病室のベッドの上にいた。なぜだろう、心の中が奥の方からすっきりしていた。春次さんが、よどんでいた私の心の中をきれいにしてくれたのだろうか。

 私は、ノートに記憶の夢のできごとをしるした。

『春次さんと初子さんは、車に跳ねられた。春次さんは、亡くなった。家からでる前、鈴美ちゃんに抱きしめられた。春次さんが死ぬ予感がしたらしい。

 春次さんが亡くなったあと、私の前にあらわれた。春次さんの魂の生まれ変わりは私だった。

「君は独りじゃない」「希望を持って」と言われた。』

 これが最後だ。記憶の夢は、これでピリオドを打っただろう。つまり、ノートに記すのもこれが最後た。結局けっきょく、二冊目には届かなかった。


 鈴美さんが来た。一目でわかった。でも、記憶の夢での姿とは、大きくことなっていた。第一、大人になっていた。大人になった末っ子ちゃんは、すごくきれいだった。小柄な女の子だが、身は細くて、脚も肌もきれい。髪もおかっぱではなく、おしゃれなポニーテール。全体的にいうと、ファッション雑誌のモデルみたいだ。本当にきれいだ。ただ、幼い頃のおもむきがあるのが、鈴のようなほろほろとした笑顔だ。

「すごい。きれいですね」と言うと「ありがとう」と返された。

「私、春次さんの生まれ変わりなんです」

 と言うと、鈴美さんはおどろきのある笑顔になった。

「そうなんだ。君が」

 たしかに、とささやいた。

 さらに鈴美さんは、私との距離をつめた。

「それで、今までずっと春次さんの記憶の夢を見ていて、このノートに全部まとめてあるんです。ご覧になりますか」

「うん。みせて」

私はノートを鈴美さんにわたした。鈴美さんは、ノートに目をうばわれたかのように、じっとみていた。ときおり、涙を流すときも多々たたあった。なごんで笑顔をみせているときもあった。

 すべて読み終わると、目をうるませながら、笑顔になった。鈴美さんの笑顔は、鈴の音色のように愛らしくて、いやされて、とりこになってしまいそうだ。

「春次さんは、今も私の中で生きているんです」

「そうなんだ」

 と、私をぎゅっと抱きしめた。それは、亡くなる前の春次さんにしたのを彷彿ほうふつさせた。

 鈴美さんの話を聞いた。春次さんを見送ったあと、鈴美ちゃんは泣いたという。予感がしたとのこと。これはいわゆる、虫の知らせというやつだ。春次さんが亡くなったときも、虫の知らせが届いた。鈴美ちゃんにも、正雄さんにも、恐らく他の家族にも。ニュースにも名前がのって、ショックだった。みんなすごく悲しんで、立てないほどに沈んで、泣いて。ついに突き落とされてしまった。悲しみの海の深い深いところまで。

 それをなんとか立ち直らせたのが、春次さんの書いたノートだった。遺書みたいなものだ。一人ひとりにメッセージが送られていて、最後のほうには、生まれ変わったら、必ず会いにいくから、と書いてあった。すごくそれを信じているんだなと、思った。実際、春次さんは生まれ変わって私になった。

「近く、お兄ちゃんたちもくるから」

 と、鈴美さんは言った。へえ、他の兄弟たちにも会えるのか。みんなどうなっているかな。

「明日には、ここをでる予定です」

「そうなんだ」

「お兄さんたちには、家に来てもらえることになります」

「お兄ちゃんたちには、私が言っておくね」

「はい」

 それと、とあるものをくれた。スズランのような花のかざりがついた、ピアスみたいなアクセサリー。

「わあ、かわいい」

「スズランのイヤリング。私が作ったんだよ」

 イヤリングか。鈴美さんが作ったのか。器用だ。

「春お兄ちゃんが、スズラン好きだっていってたから」

 なるほど、たった今、私もスズランが好きになった。

「花言葉は、“幸せはふたたびやってくる” だってさ」

 それを聞いたとき、私の目がキラリとかがいたのかもしれない。

 “幸せはふたたびやってくる” か。こわれて沈ずむだけじゃないんだね。

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