希望を持って
この日、
リビングには、
「それじゃあ、行ってくるね」
春次さんは、明るい声で二人に言った。
「お兄ちゃん」
鈴美ちゃんは、言った。
「お兄ちゃん」
もういちど言って、鈴美ちゃんはこちらへやってきた。すると、ぎゅっと春次さんを抱きしめた。春次さんは、鈴美ちゃんの
「気をつけてね」
「うん」
鈴美ちゃんは、身をはなした。玄関に向かう春次さんのあとをついていった。リビングにいた正雄さんもこちらにきた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ふり向いて妹ちゃんたちに手をふった。妹ちゃんの目のまわりはぬれていた。
前を向いて、何歩が歩いたとき、目の前の視界が、うるうるとぼやけた。春次さんは、それをぬぐった。「俺はもうすぐ死ぬのかな」と、ぽつりと言った。私は、もう悟ってしまった。私だけではなく、春次さん自身や、鈴美ちゃんや正雄さんもだろう。覚悟しなければいけなかった。ああ、悲しいな。
春次さんは、初子さんと会った。
「いい天気だね」と初子さんは言った。空は一色の空の青色。黒くも白くも
二人は、仲良く話しながら、
目の前には、広い道路の
ところが、車は止まらなかった。車が横断歩道の白線に
──ああ、死ぬな。
春次さんの心の声が聞こえた。それは、とても短かった。
しばらくして、意識が戻った。かのように思えたが、戻ったばかりの意識はもうろうとしていた。あの場面だ。一番最初に見た記憶の場面。初子さんが、顔をのぞかせた。そして泣き
終わってしまった。ついに。
「そんなに悲しまないで」
何だ。真っ黒な世界のどこかから声が聞こえた。かと思うと、目の前には一人の青年が立っていた。いかにも優しそうな青年だった。彼はきっと、春次さんなのだろう。いつの間にか、私は春次さんではなくなっていた。
「……春次さん?」
私がそう言うと、彼はうん、とうなずいて優しくほほえんだ。彼が春次さんだと判明すると、悲しみとともに涙があふれてきた。彼はもう亡くなってしまったのだ。
「春次さん」
私は足を踏みだした。動けた。私はそのまま歩いて彼の
「そんなに、泣かなくたっていいんだよ」
泣いている私に春次さんは、言った。
「俺は死んじゃったけれど、気にしなくてもいいよ。大丈夫だから。俺の
「……それって、誰に」
「君だよ」
春次さんは、はっきりと言った。
「俺の魂は、君に、ゆかりちゃんに生まれ変わったんだよ」
私は、さらに悲しみの底に突き落とされた気がした。なんで私なんだろう。もっと他にいい人がいたはずだ。
「君が一番いい人なんだよ」
え? ──今、私の心の声を読んだ?
「俺の理想とぴったり合うからね。君も栗まんじゅうが大好きみたいだし」
あ、私の無性の栗まんじゅう好きは、春次さんからくるものだったのか。
「俺の魂は、君の中にある。だから俺は、いつも君のそばにいるから、君は
春次さんは、ずっと私の心の中に住みついていたみたいだ。私が自分はダメな人間だと強く思い始めてから、ずっと感じていた
「私は、独りじゃない」
「うん、君は独りじゃない。だから、希望を持ってもいいんだよ」
希望。私は絶望しか持っていなかったな。私は、春次さんの体から一歩離れた。
「そうだ、もうすぐ鈴美ちゃんに会えるんです」
「あ、そうだね」
「近いうちに、他の弟さんたちにも会えるかもしれない」
「俺の体はもうこの世にはいないから、みんなのこと、よろしく
「はい!」
春次さんは、にっこりと笑顔をみせた。
気がつけば、病室のベッドの上にいた。なぜだろう、心の中が奥の方からすっきりしていた。春次さんが、
私は、ノートに記憶の夢のできごとを
『春次さんと初子さんは、車に跳ねられた。春次さんは、亡くなった。家からでる前、鈴美ちゃんに抱きしめられた。春次さんが死ぬ予感がしたらしい。
春次さんが亡くなったあと、私の前にあらわれた。春次さんの魂の生まれ変わりは私だった。
「君は独りじゃない」「希望を持って」と言われた。』
これが最後だ。記憶の夢は、これでピリオドを打っただろう。つまり、ノートに記すのもこれが最後た。
鈴美さんが来た。一目でわかった。でも、記憶の夢での姿とは、大きく
「すごい。きれいですね」と言うと「ありがとう」と返された。
「私、春次さんの生まれ変わりなんです」
と言うと、鈴美さんはおどろきのある笑顔になった。
「そうなんだ。君が」
たしかに、とささやいた。
さらに鈴美さんは、私との距離をつめた。
「それで、今までずっと春次さんの記憶の夢を見ていて、このノートに全部まとめてあるんです。ご覧になりますか」
「うん。みせて」
私はノートを鈴美さんにわたした。鈴美さんは、ノートに目をうばわれたかのように、じっとみていた。ときおり、涙を流すときも
すべて読み終わると、目を
「春次さんは、今も私の中で生きているんです」
「そうなんだ」
と、私をぎゅっと抱きしめた。それは、亡くなる前の春次さんにしたのを
鈴美さんの話を聞いた。春次さんを見送ったあと、鈴美ちゃんは泣いたという。予感がしたとのこと。これはいわゆる、虫の知らせというやつだ。春次さんが亡くなったときも、虫の知らせが届いた。鈴美ちゃんにも、正雄さんにも、恐らく他の家族にも。ニュースにも名前がのって、ショックだった。みんなすごく悲しんで、立てないほどに沈んで、泣いて。ついに突き落とされてしまった。悲しみの海の深い深いところまで。
それをなんとか立ち直らせたのが、春次さんの書いたノートだった。遺書みたいなものだ。一人ひとりにメッセージが送られていて、最後のほうには、生まれ変わったら、必ず会いにいくから、と書いてあった。すごくそれを信じているんだなと、思った。実際、春次さんは生まれ変わって私になった。
「近く、お兄ちゃんたちもくるから」
と、鈴美さんは言った。へえ、他の兄弟たちにも会えるのか。みんなどうなっているかな。
「明日には、ここをでる予定です」
「そうなんだ」
「お兄さんたちには、家に来てもらえることになります」
「お兄ちゃんたちには、私が言っておくね」
「はい」
それと、とあるものをくれた。スズランのような花の
「わあ、かわいい」
「スズランのイヤリング。私が作ったんだよ」
イヤリングか。鈴美さんが作ったのか。器用だ。
「春お兄ちゃんが、スズラン好きだっていってたから」
なるほど、たった今、私もスズランが好きになった。
「花言葉は、“幸せはふたたびやってくる” だってさ」
それを聞いたとき、私の目がキラリと
“幸せはふたたびやってくる” か。
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