会いたい

  目が覚めた瞬間しゅんかんから、私は身震みぶるいしたらしかった。私の身体の内側のコップは、液体と化した恐怖で満杯まんぱいだった。はみでた液は、ツーとカップの壁の上を走っていた。こわい。コップの液は、もう豪快ごうかいにこぼれていた。

 記憶の夢のメモをした。そのときも、ペンを持つ手の中の軸が、震えていた。私がこんなにも震える相手というのは、死だ。死との恐怖におびやかされていた。死ぬのは、私ではなく春次はるつぐさんだ。それがとても怖かった。私はまた、あの場面を見ることになるのか。あのむごたらしい場面を。あれは、思いだそうとするだけで恐ろしかった。一番最初の記憶だ。悲しくて苦しくて恐ろしい。あのあと、家族のほうは、どうなっただろう。正雄まさおさんやほかの兄妹たち。彼らは、知らせを受けたとき、どんな顔をしただろう。私の目に見える情景じょうけいは、ひどくむごいありさまだ。みんなが、深い深い深い海のそこしずんでいる情景が見えていた。

 だから、怖くて怖くて私は震えていた。

 そのとき、扉がノックされる音がして、母と姉が来た。二人は、私の状態の異変いへんをすぐに察知さっちした。

「ゆかり、どうしたの?」

「大丈夫?」

 二人は心配した。でも、もちろんこれはやまいなどてばなく、強い恐怖からくるものだ。でも、どうやって説明すればいいのか。説明できるようなものではなかった。

「どこかえらいの?」

「ちがう。……なんだろ」

 言葉が思いつかない。そして、私ののどまでもが、ほんのり震えていた。

「あの……春次さんのやつ」

 春次さんの記憶の夢のメモが書いてあるノートをいつも読んでいる姉に言った。

「あー、あれね。それで何かあったの?」

「春次さんが、もうすぐ死んじゃいそう」

「え、なるほど。だからそんな震えているんだね」

ひと間をおいて、でもさ、と姉は言う。

「春次さんて、そもそも何だろ」

 たしかに。春次さんて、何なんだ。一番根本こんぽん的だが、一番不明ふめいで、一番重要じゅうようなことだ。どうして、毎晩まいばん私の脳内のうないあらわれて、ごく平凡へいぼんで幸せな日常を送っているのだろう。そもそも、春次さんは、実際に存在していたかもわからない。それを言えば、家族たちもそうだ。一体何なんだろう。

 姉は提案ていあんした。「春次さんの家族の顔を描いてみたら。実際に顔を知っているのは、ゆかりだけだから」

 下の兄妹たちの顔は覚えていた。ぼんやりとだが、絵に描き出すことはできるだろう。

 兄妹たちの顔の絵を描いた。短髪で、むすっとした表情の正雄さん。長めの髪で、竹のようなのびやかな感じの露文つゆふみさん。坊主ぼうず頭の腕白わんぱくな笑顔が印象いんしょう的な照行てるゆきさん。まるまるとしたあたまの、雪みたいにふんわりとした、かわいらしい雪弘ゆきひろくん。おかっぱあたまの、ほろほろと鈴のようなえがおを見せる鈴美すずみちゃん。だいたいこんな感じだった気がする。

 これを姉に見せる。

「へー、こんな感じなんだ。だいたい想像できたけど」

 姉はうれしそうに絵を見ていた。

「これ、ツイッターにあげてもいい?」

「え、なんで」

「家族を探すため」

「え⁉︎」

「春次さんは死んでいても、他の家族がまだ生きているんだったら、会える可能性があるよ。私、会ってみたい」

 私も会えるのなら会ってみたい。みんな大人になっているんだろうな。

「でも、実在しているとはかぎらないよ」

「いや、実在してるよ。むしろ、架空かくうのほうが無理があるよ。みんな、生きている」

 姉は、写真に収めた、私の描いた絵を姉のSNSにあげた。『こちらの春次さんという方のご家族に会いたいです。心あたりのある方は、ぜひご連絡れんらくしてください』との言葉をそえて。これでOK! と姉は言った。

 あの兄妹たちに会えるのか。ちょっと緊張きんちょうしているのと、楽しみなのが入りじった。

 母が、もうそろそろ帰りたいかと聞いてきた。たしかに、もうずっとここにいる。そろそろ家に帰りたいな。私はそう答える。母が看護かんご師さんに言うと、帰っていいよと許可がでた。あさってに帰ることになった。

 この日の夕方。姉からラインのメッセージがきた。春次さんの下の兄妹の絵をSNSにあげたことだ。早くも連絡れんらくがきたそうだ。

 『ゆかりのとこに来たいってさ。春次さんの妹さん』

 鈴美ちゃん⁉︎ いや、鈴美さんと呼ぶべきか。あのおかっぱ頭のかわいい末っ子ちゃんも、大人になっているのか。そもそも、実在していたんだ。姉曰く、明日にはこれるのだそう。楽しみだ。どんな姿になっているのかな。


  

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