暖かな記憶

 『つゆふみさん──春次はるつぐさんの弟。女性ファッションに興味がある。まわりの目を気にしている。その下の弟、てるゆきさんがバカにする。春次さんが注意する。

 春次さん──つゆふみさんのところに行く。つゆふみさんは、末っ子のすずちゃんの相手をしていた。春次さんは、つゆふみさんと話をする。すずちゃんもつゆふみさんをなぐさめた。』

 ふう。書きおえると、一息ふいた。書いている途中も、書きとえた今も、胸の内側がぽかぽかとあたたかい。ヒーターでも置いてあるみたいだ。感動した。ああ、なんて素敵な話なんだろう。ここ最近は、あたたかい想いをしたことなんてなかった。だから、より温度を感じた。暖かい。涙腺るいせんから温かい泉がき出そうだと強く思ったが、それは絶対にないことは確定した。

 その時、とびらが二回ノックされた。扉が開いた。母と姉がやってきた。

「やっほー」と姉が軽い挨拶あいさつをした。後から入ってきた母も「おはよう」と言った。私は「おはよう」と母に返した。

 姉は、開いたままの記録ノートに目を向けた。

「あ、はるつぐさんのやつ。まだ見てるの?」

「うん。毎日夢に出てくるの」

「やっぱ、はるつぐさんとゆかりは、何らかのつながりがあるんだよ。うん、絶対そう」

 自身満々じしんまんまんに言う姉。その勢いに押され、私の心も揺れた。春次さんは、私の前世? 

 ……やっぱり、それはないと信じたい。

 あんな素敵な良い人が死んで、私みたいな木偶の坊に生まれ変わってしまうなんて、想像するだけでもつらい。周囲の人たちに申し訳ない。

「……そんなの、ありえないよ」

 私は、ぼそりと姉の主張を否定した。そんなのありえない。ありえないでほしい。姉は、知らないのだろう。今の私の気持ちなんて。じっさいに夢を見ていないから。

「え?」

「ありえないの。だいたい前世なんて、存在するわけがないし、この世に存在していない人とつながっているだなんて。お姉ちゃん、漫画の読み過ぎなんじゃないの?」

 春次さんと私では、まったくちがうんだから。

「えー、じゃあゆかりは、なんだと思うのさ」

「知らない」

 知りたくない。春次さんが何者なにものなのかって知ってしまったら、わかってしまうから。信じたくない。

「もう、どうでもいい」

「……どうでもいいって」

 姉はこまっていた。ちょっと申し訳ないなと思った。でも、私は悲しい思いをしたくないから、曲げなかった。病室の空気がどんよりと暗くなってきた。

「ちょっと、やめなさい。そうだ、ゆかり。そろそろ立てる? 一回、立ってみて」

 母が仲裁ちゅうさいに入り、私に立てるかと聞いてきた。そういえば、ここに運ばれてきてからずっと、ベッドの上にいる。ほとんど降りていない。母に言われた通り、立ってみようとした。体の軸を九十度きゅうじゅうどに回して腕の力も借りてあしをふんばってこしを上げる。

 すると、今まで眠っていた痛みが、目を覚ました。私は少し顔をゆがませ、腰をベッドの上に下ろした。

「あー、無理だね。ちょっとくるま椅子いす借りてくるわ」

 そう言って、母はこの部屋を後にした。

「ちょっと、大丈夫なの?」

 姉も心配そうにたずねてくる。

「えぇ……」

 これには私もショックだった。ずっと大丈夫だと思っていた。心の中では、平気だと思い込んでいた。立つぐらい簡単にできる。と思っていたのに、できなかった。立つことができなかった。私の体は、心が思っているほど大丈夫でも平気でもなかった。私は重傷だ。それをたった今痛感つうかんした。


 母が車椅子を借りて、部屋に戻ってきた。

「ゆかり、ここに座って。ずっとベッドの上じゃ、つまらないでしょ。気分転換に屋上おくじょう行こっか」

 母と姉にささえられながら、痛みにおそわれながら、何とか車椅子に座ることができた。

 母に押してもらい、屋上へ向かった。


 カレンダーの日付ひづけは、いつの間にか、秋っただなかになっていた。芸術の秋。今日の空模様もようは、芸術性がある。一面いちめん青色のキャンバスに白の絵の具で何かを表現していた。何を表現しているかは分からない。しかし、唯一ゆいいつ分かることは、近いうちに雨が降るということだ。テレビがよく言っている情報を思いだしたのだが、雲が多くあると、それだけ空にある水分量が多いから、雨がふる。

 太陽の存在がとても強い。どこからか、そよそよ吹く風は、冷たい。これからやって来る季節を感じた。冷たいけれど、どこか暖かかった。屋上には、花壇かだんからあって、花が植えられていた。あざやかで、ほのぼのしていて、癒される。

 外はとても心地ここちの良いところだ。リラックスできるし、心がおだやかになる。前までは気づかなかった。外がこんなにも心地良いところだなんて。前までは外は息苦しく感じていた。心が息苦しかったからだ。私は今、それから解放されているのだ。心が自由だ。のびのびしていた。暖かい。冷たい空気が暖かい。

 母と姉は、花壇のそばにあるベンチに腰を下ろした。

「まだまだ大変そうね。しばらくはゆっくり休んでね」

「うん。ありがとう」

 正直、ずっとこのままでいいと思った。嫌なことから解放されて、のんびり過ごせるから。でも、そういう訳にも行かなかった。そういう歳になったから仕方がない。それでも、何も気にせずに時を流していたい。


 病室の照明は消され、真っ暗になった。

でも、漆黒しっこくにはならなかった。今夜こんやは満月ではないが、それに近い形の月が出ていた。だから、とても明るい。月がきれいだ。

 数秒間、月を見つめて目に焼きつける。そして、正面を向いて、まぶたを閉じる。次はどんな記憶の夢を見るだろうか。

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