加害者の家族

昨晩見た夢──春次はるつぐさんの記憶が、もう半分以上が消えてなくなっていた。そのときだ。

二回ほど、扉をノックする音がした。コンコンと。そして少しのあいだ、時が止まったかのように何もなかった。そのあいだ、時の流れをノロマにさせる風か何かが流れてきたのかと思った。

 扉がゆっくり開いた。入ってきたのは、四十代の後半ぐらいの女性。小柄こがらめで、いくつものしわがあるものの、手入れはしっかりしているのか肌自体は綺麗だった。彼女に遅れて入ってきたのが、彼女の夫であろう、彼女と同じくらいの男性と二人の娘であろう、私より少し歳上くらい女の子。家族三人だ。みんな冷えてかたまった溶岩のように、かたくて黒くて冷たい顔をしていた。まるで、たましいが抜け出たみたいに。特に奥さんが一番ひどい。彼女の中では、マグマのようなぐつぐつしたものが今もあふれ出していて、とっくに器などでは受け止めきれないほどに溢れ、顔にまで浸透しんとうしているのだろう。奥さんが一番速くここに入ってきた。彼女には責任感があった。重く重くのしかかるような、強い責任。そんなにも、私に何か伝えなければならないことがあるのか。それは、硬くて黒くて冷たい、ごつごつした重大なことなのだろうか。

 奥さんは、私のベッドの側に立った。口が震えていた。目も。必死に押さえ込んでいる手も。

 大丈夫ですか。そう言いたかった。でも、言えなかった。

 奥さんは立ちつくしていた。

「……ごめんなさい」

 かすれた声。震える口から、のどから、精一杯声をしぼり出していた。

 私はさっしがついた。どうやら、彼女たちは、私を跳ね飛ばした加害者の家族のようだ。加害者当人は、今頃警察署でいろいろとやっているのだろう。大きな責任感があるが、大きなショックと悲しみまともに話せない奥さん。彼女に代わって、夫が口を開いた。

梶尾かじおと申します。加害者の梶尾信士しんじは、うちの長男です。本当に、すみませんでした」

 夫が深々と頭を下げると、それまできまりが悪そうに立っていた娘も、それに続いてぎこちなく、父よりも浅めに頭を下げた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 奥さんは、何度も何度もこれを繰り返す。止まらない。完全にくるっていた。彼女の中にある。悪魔あくまのような強い責任と悲しみがはげしくうずを巻いて、彼女を狂わした。彼女の涙腺るいせんは、ダムのように崩壊ほうかいし、そこから放流ほうりゅうされる水のように、猛烈もうれつな量の涙がぶわっとこぼれ出る。彼女は、持っていたハンカチで、目元をおおう。嗚咽おえつの声と一緒に、肩までもが震えていた。

 そういえば、私は車に跳ね飛ばされたのだ。けれども、その加害者に対して、怒りを覚えたりしたことはなかった。むしろ、加害者のことなど、全く頭になかった。そのご家族が謝りに来たことで、初めて加害者を意識した。だからといって、死んでもいいと思っていたくらいだから、跳ね飛ばされたことの怒りというのはない。事故に遭う前でも後でも、頭にあったのは自分のことばかり。それに、春次はるつぐさんのこともあるのかもしれない。そのことに気を取られていて、その他のことを考えるスペースはなかった。加害者のことなどまったく頭になかった。

「お身体からだの方は、大丈夫ですか」

 何故なぜだろう。どういうわけか、心が軽くなったような、広いスペースができたみたいな、どこかゆとりがあった。

「大丈夫ですよ。加害者のことなんて、まったく気にしていなかったので、気にしなくてもいいですよ」

 私は、ほおをゆるませ、ほわっとんだ。

たんぽぽの綿毛のように、奥さんや旦那さん娘さんに元気をだしてもらえるように。こんな私なんかのために、こんなに顔を暗くする必要も、悲しみにおぼれる必要もないのだ。大丈夫ですよ。気にしなくてもいいのですよ。私のことなんてね。

 私の笑みに、少しほっとしたのか、奥さんの狂いはおさまったようだ。両ひざを付いて、ベッドのはしにあるさくに体をあずけた。体だけでなく、疲弊ひへいしきった心も預けているのかもしれない。旦那さんは、奥さんに寄り添うようにしゃがんで、腰あたりに手をそっとおいている。立ったままの娘さんは、二人を目の前に、自分はどうすればいいかと戸惑とまどっているように見える。この家族は、とても素敵だ。この三人の全員が、人のこと──家族のことを想っている。母は苦しんでいるだろう息子のことを想い、被害者に対する強い気持ちがある。父は加害者になってしまった息子も、大きな責任と悲しみにつぶされている妻のことも、想っている。娘さんも、兄のこと、両親のことを想っている。みんながみんな、家族の誰かを想っていること、それは、私の持つ五感の全てで感知かんちした。なんと素晴すばららしい家族の愛なんだろうと感動するとともに、事故というのは一瞬で人を悲しみと苦しみの海に突き落とす。被害者も加害者も関係ない。深い深いところまで突き落とされて、沈んで、一生上がってこられないから、とても恐ろしいものだ。


春次はるつぐさん」

 明るい声とともに、若い女の子がこちらにやって来た。これは、春次さんの記憶。そして、この女の子。どこかで見たことがあった。何だっけ。あ。そうだ。あのときだ。事故の時とき。春次さんと一緒にいた女性。彼女も怪我けがをしていたが、大丈夫なのだろうか。彼女はあの後、どうなったのだろう。今現在の世界では、何をしているのだろうか。

 ここは、大学? 春次さんの通っていた大学の中の部屋。私はまだ大学生ではないので、大学の中がどうなっているのかがわからない。この部屋は、なんだか映画館のような所だった。前には、スクリーンのみたいに黒板があり、一列八個ある椅子の前には、ちょうど八個分の椅子いすがおさまる長さの机がある。それらがワンセットとなって映画館のような配置はいちでズラーっと規則正しく並べられている。しかし、机が長い。こんなに長い机は初めて見た。これが大学か。春次さんは、その中の一つの席に座っている。そのとなりを女の子が座った。大学生になると、誰と座るのも自由なのか。

「あ、初子はつこさん。俺なにか用でも?」

「となりに座ってもいいかな?」

「うん、いいよ」

 春次さんは、優しくほほ笑む。そして、授業が始まるまでのあいだ、『錦戸にしきど初子』と書かれた札を首からぶら下げた女の子と雑談ざつだんをしていた。たがいに笑顔になって。それは、とても幸せであった。幸せ。

 

 ──幸せというものは、当たり前にあるものではない。

 

 私が生きている今現在、飽き飽きてしまうほど、きらいになってしまうほどに痛感していた。今現在では、悲しみと苦しみしか存在しない。かつてはあったであろう私の幸せも、とっくに消えてしまった。幸せというものは、ある日突然消えてしまう。自分でも気づかない。悲しみと苦しみの海の深くに沈んでいる時、初めて気づくのだ。私の幸せは消えてしまっている、と。この二人の幸せも、いつかは消えてしまうのかな。

 あぁ、やっぱり春次さんは、死んで欲しくない。二人の幸せ、春次さんの家族の幸せは、消えて欲しくない。この笑顔をずっと保っていて欲しい。やっぱり、あの記憶は嘘であってほしい。初子さんの泣き叫ぶ顔なんて見たくない。絶望する姿も見たくない。あの記憶は嘘であれ。それか、記憶ではなくて、夢、空想だと、思いたい。でも、わかっている。でも、いやだった。誰の幸せも失ってほしくない。

 

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