昔の男

 中学に上がる前後あたりからだろうか。

 母が、あからさまにオレの容姿のことを言い出した。

「何見てるのよ!」

「何も見てないよ」

「アンタのその目、あの男と同じ目! 嫌になる」

 どうやらオレの顔は、母を捨てた男にそっくりらしい。

 それまでも何度か「そっくりだわ」と呟かれたことはあったが、それほど強い言い方でもなかった。

 身長が伸び変声期を迎えると、母には我慢できないくらい嫌な記憶を呼び起こすほど、オレはその男に似てきたようだ。


 酔って帰ると機嫌が良かったはずの母が、真逆のコントロールできない感情をむき出しにする。

「なんて目で見てんだよ。人をバカにして」

「何もバカにしてないよ。さっさと化粧落として寝ろよ」

「うるさい!」と言うが早いか、クリスタルの灰皿が顔めがけて飛んでくる。

「アンタなんか…」

 それ以上、何も耳に入れず、オレは黙ってバイトに出かける。

 オレは、学校で注意されても構わず前髪を伸ばし、母とはなるべく目線を合わせないようにし、確実に母が不在の時に家に帰るようにした。

 完璧なすれ違い生活を送り、連絡事項はお互いテーブルに置いたメモ用紙に書き合った。

 たまには、そのメモに「ファイト!」とか「風邪注意!」とか書かれていて、直接会話するよりも愛情を感じたりもした。

 そして「もう少し待ってて。中学出たらもっと頑張って働いて、ママを守るから」そんな決意を新たにした。


 そんなある日、バイトから帰ってくると、テーブルの上にそのメモがあった。

「結婚するから出てく。人生やり直すから邪魔しないで。バイバイ」

 母の寝室を見に行くと、ほとんどの洋服がクローゼットから消えていた。

「バイバイって… どうすりゃいいんだ…」

 自然と泣けてきた。

「ここまで嫌われていたのかよ… この顔のせいで… なんで生んだんだよ…」

 そんな恨み言を呟く。

 ただ茫然と座り込んでいるしかなかった。


 どのくらい時間がたった頃だろう、鍵の開く音がした。

 母が戻ってきたものと思い、玄関に走り出ると、恰幅の良い男が立っていた。

「君が健君か。今度、君のお母さんと結婚することになった白井しらいだ」

 そう言うと、リビングを指さし「入るよ」と勝手に中に上がる。

 キッチンに立つと、慣れた手つきでお茶を入れてくれた。どうやら、オレの居ない時にこの男を招いていたのだろう。

 完璧なすれ違い生活を遂行していたのは、母も同じだったようだ。

「60も近くなって、彼女のお腹に子供ができてね。結婚することにしたよ。私は再婚なんだけど」

 少し恥ずかしそうに、ニヤついた笑みを見せ、白井は茶をすすった。


「私は君も一緒にと言ったんだけど、彼女が君は新聞配達で稼ぎもあるし、独立させたほうがいいと言ってね」

「僕が母を捨てた男に似てるから、一緒に居たくないんでしょ」

 オレは、ぶっきらぼうに口を挟んだ。

「なんだ、知ってたのか。彼女から一緒に居るのが苦痛だと散々聞かされてね… 私としても、昔の男を目の前にしている気分にならんとも限らないし」

「僕は独りでもいいです」

 オレは精一杯、虚勢を張った。

「まだ中学1年生だしなあ…」

「この4月に2年になります。食事も作れるし何でもできます。新聞配達で生活費も稼げます」


「勉強机はないのか?」

 白井がリビングを見まわして言った。

「このテーブルで… でも、どうせ中学卒業したら働くから、勉強しなくていいです」

「とりあえず、もう少し狭いアパートを借りて、勉強机とベッドだな」

 白井は、リビングの隅に丸めた布団と毛布を見て言った。

「でも金が…」

「君からお母さんを取り上げるんだから、そのくらいはするさ。毎月の家賃と生活費は払わせてもらう。それから勉強はしなさい。高校は行ったほうがいいから。もちろん費用も払う。こちらにも世間体があるからね」

 白井は茶をすすると、「それでいいかな」と鷹揚おうように微笑んだ。


「そろそろ帰るよ。彼女がイラついて待ってるから」

 そう言って立ち上がる白井に、オレは深々と頭を下げていた。

「母を… どうか母をよろしくお願いします。幸せにしてあげてください」

 白井は、オレの肩を起こしポンポンと叩いた。

「君はいい息子だな」

 そう言って一度背を向けた白井が、「ああ、忘れてた」と、胸ポケットに手を入れ、茶封筒を取り出した。

「君名義の通帳と印鑑が入ってる」

「何ですか… そんな、これ以上ご迷惑かけられません」

「いや、君の金だ。小学校5年生から新聞配達してきた金。彼女が君からもらった金は、全額積み立ててたんだよ」

 白井はその封筒をオレの手に握らせると、部屋から出て行った。


 オレは力なく崩れ落ちた。

「何なんだよ、一体… ママ、あんたはいい母親なの悪い母親なの… どっちだよ… もうわからねぇよ…」

 オレの頭に、あの日見た母の白い裸体がよみがえる。

「クラーケンだ。正体不明のクラーケン… 理解不能のバケモノ…」

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