ママはバケモノ
ひろり
寝室のバケモノ
まだ幼い頃の話だ。
子供が一人で出かけても、さほど神経質に心配することもなく、隣近所のどこかしらの大人の目が行き届いていた時代。
いつものように公園で、友達と時間も忘れて遊んでいた。
「クラーケンって知ってる?」
その日は、
「イカとかタコのバケモノなんだ。今も海の底で、じーっとしてるんだって。パパが言ってた」
そう言って見せてくれた何枚かのカードには、イカやタコのバケモノの絵があった。
「すげーッ!」
「クラーケン、こえーッ!」
オレたちは、一気に興奮の渦に包まれる。
「悪いことしたら海の底から出て来て、何本もある足でひゅるひゅるって巻き付けて、海の底まで連れて行かれちゃうんだ」
修が、ふざけてオレの体に手を回した。
背筋にゾクッと寒気が走り、「きゃーッ」と悲鳴を上げると、伝播するように皆悲鳴を上げる。
修のカードには、暗黒の海面から何本も大蛇のような足がクネクネと伸び、わずかに日の光が差している暗い空へと、突き出しているバケモノの姿が描かれていた。
初めて見るバケモノへの好奇心と恐怖、ぬめぬめとした肌質まで感じ取り、その気持ち悪さに皆興奮が止まらず騒ぎ立てた。
「まあ君、もう帰る時間よ」
友達の母親が迎えに来た。
一人、また一人と、友達が母親に手を引かれ帰っていく。
気がつけば、オレと修だけになっていた。
その修の母親も迎えに来て、
「
誰も誘ってくれなければ、来もしない母をわずかな期待を持って待ちながら、しばらくは独り公園で遊ぶ。
そのうち「ぼうず、もう暗くなってきたから帰れよ」と、顔見知りの爺さんに言われ、とぼとぼと家路につく。
その日は、修の母親と3人で帰った。
「健君のママは大変ね。一人で健君育てて偉いねって、みんなで言ってるのよ」
修の母が優しい笑顔で言う。
母親が褒められるのは悪い気はしない。
言葉通りに受け取って「ママは偉いんだ」と、心に刻み付ける。
「ママが夜、お出かけしても健君はさみしくないの?」
「うん、ぼく一人でもちゃんとお留守番できる」
「偉いわねえ、健君は」
母親ばかりか、オレまで偉いと褒められ、上機嫌で帰った。
玄関には母のパンプスがそろえてある。
まだ出かけてはいない。きっと寝室の鏡台の前で化粧をして、香水を振りまいている最中だと、気持ちがはずみ駆け出す。
勢いよく寝室のドアを開けると、そこに母の姿があった。
ベッドの上に座り、しなやかな裸体を大きくくねらせ揺らしていた。
顎を突き出し、半開きの目と大きく開いた口。
汗で光る白い体は激しく動くたびに、自ら発光しているように、ぬめぬめとした輝きを放っている。
「ああ…あぅ…あッ…」
聞いたこともないようなうめき声を発し、細く白い腕が上へと、ゆっくり伸びる。
そして、それまで目に入らなかった別の腕が、白い体にまとわりついている。
クラーケンだ!
そう思った瞬間、それまでカチコチに固まっていた体が、反発するように後ろへと倒れ、尻もちをついた。
立ち上がろうにも立ち上がれず、赤ん坊のように四つん這いになり、ようやっと自分の部屋へたどり着くと布団の中に潜り込んだ。
自分の部屋と言っても、押し入れに布団を敷いただけの空間だが、ふすまを閉めればオレだけの部屋になる。
十分成長した後、あれは同伴客とベッドでよろしくやっていただけだと理解したが、あの時のオレには、恍惚の表情で何かをつかむように、上へ上へと伸びていく白い腕と奇妙に動く指、母の体にまとわりつき乱暴に動く指が一体となったバケモノにしか見えなかった。
「ママがバケモノになった… どうしよう…ママが…」
そう呟きながら、布団にくるまり眠ってしまった。
しばらくして目が覚めると、いつものように母はいない。テーブルの上にはアンパンとコーヒー牛乳が置かれていた。
翌朝には母はいつもの母に戻り、不機嫌な顔で眠そうにオレの目の前にいた。
あまりにいつも通りなので、「あれは夢だったのかしら」と思い、「夢だったような気がする… 夢だった」と自ら信じ込ませた。
母は黙って食パンを出し、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注いで、オレの前に置く。
もう少し背が高かったら、ママが起きなくても、ぼく一人でパンもミルクも出せるのに…
眠そうな母の姿を見るたびに、けな気にもそう思ったものだ。
「行ってきまーす」と、元気よく玄関のドアを開けても、返事はドアにカギを掛ける音だけだった。
スクールバスの停留所には、友達とその母親たちが立っていた。
友達のところに駆け寄ってじゃれ合っていると、後方でひそひそと話す声がした。
「
「今日はって、いつものことじゃない。夜の仕事してるから、きっとまだ寝てるのよ」
「健君、1週間くらい同じ服着てるし…」
「夜は一人でお留守番してるんですって。信じられないわ」
それは修の母親の声だった。
あの時から、大人の前では無口になった。
友達の母親どもが何と言おうと、オレはママが好きで好きでたまらなかった。
いつもは不機嫌な母も、酒が入ると感情豊かで優しくなった。
酔って帰ってくると、時々夜中に起こされ気まぐれに抱きしめられ、酒とタバコの匂いに包まれながら母のベッドへと運ばれた。
「健、ママには健だけだから」
「うん、ぼくにもママだけだよ」
「早く大きくなって、ママを守って」
「うん、ぼく、早く大人になってママを守る」
「健、健…」
オレの名前を呼びながら、時には涙を流して息苦しいほど抱きしめられ、そのうち眠ってしまう。
夜中に起こされどんなに眠くても、全く苦にならないどころか、至福の時間だったと思う。
小学校高学年になると、ほとんどの家事は一人でできるようになり、周りの同級生と比べて、一端の大人になったような気でいた。
もうすぐママの代わりに働いて、ママに楽をさせられると、本気で思っていた。
新聞配達のアルバイトを始めたのもこの頃だった。
ちょうど母が酔って帰ってくる時間と、バイトに出かける時間が重なって、「いってらっしゃ~い」と、送り出してくれることもあった。
バイトに出かけようと起きてくると、帰ってきたまま玄関で眠り込んでいる母に遭遇した時は、母を起こして抱きかかえベッドまで連れて行く。
「もっとデカくなったら、ママをお姫様抱っこして運べるのに…」
「嬉しいわ… 健…」
そんな会話を交わしながら。
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