第70話 風邪でぐったりする天使

 結夢のアパートについて、いきなり隠し鍵で開けるなんて事はしない。

 かといって結夢に直接空けてもらう事による体力の問題は懸念されるが、しかし幾ら何でもいきなりカチャリと鍵を開けるのも心臓に悪いので、やはりここはインターホンを鳴らす事にした。

 

「結夢? 大丈夫か? さっきLINE送ったけど、来てみたぞ」


 十分前、ラインは送ったがまだ未読。

 スマートフォンを見れていないのだろうか。それともベッドで心地よく寝ているのだろうか。

 後者だとしたら、寧ろ俺が起こすべきではない。そのまま安静にしてもらうべきだ。

 しかしどちらか判断はつかない。

 不安だけが渦となって回る俺の心を抑える気紛れの一つとして、玄関口の出窓が開いていたので中を覗いた。女子の家を覗くなんてただの変態の所業な気もするが。

 

 ――見てしまった。

 床に密着した、見覚えのある掌を。

 

 いや。

 待て。

 

 俺は最早反射的に水道メーターの隙間から鍵を引き剥がし、ドアを開けた。

 

「結夢!」


 玄関で、結夢が倒れていた。

 玄関に向かって、うつ伏せでその小さな体を地面に伏せていた。

 体中が桜色になり体温が上がっている割には、蒼白な顔面が苦しそうに絶え絶えな息を吸って吐いてしていた。

 

「おい、結夢、結夢!」

「うぅ……礼人……さん」

「制服なんか着て……まさか、学校に行こうとしていたのか!?」

「だって……中間テスト……みんなと……頑張ったから……」


 呂律が不十分で、意識も朦朧としている状態で学校なんか行かせればどうなるか分からない。

 そもそも俺が抱きかかえているにもかかわらず、いつもの恥じらう様子がないこの状態が異常さを物語っている。


「それに……私、行かなきゃいけない所が……今日は、今日は……」

「大人しく寝てろって、まったく……」


 今日が何だってんだ。自分の明日も危ういのに。

 俺はぐったりした結夢をベッドまで運び、横にして体温を測る。

 額と額を合わせて図る。

 こりゃ熱いな……。相当悪い風邪にかかっちまったようだ。


「……ぅぅ……テスト……それに……おか、さんの……」


 最後の譫言はよく聞き取れなかった。

 俺は洗面所でタオルを見つけ、冷蔵庫から氷を持ってくる。

 洗面器に溜めた水に、氷とタオルを入れて、暫くして結夢の額に乗せる。

 

 こんな苦しそうで、哀しそうな結夢を見るのは初めてだ。

 本当にあんなに頑張ってたのに。勉強。

 悔しいよな。気持ちは凄い分かる。

 けれど、俺に出来る一番の事は、結夢を安静にすることだ。

 

 これはきっと先生としても、恋人としてもそう会ってほしいと願っていただろう。

 制服姿のまま布団に被さっている結夢を見ながら、俺は確かにそう思う。

 

 

「礼人さん……ありがとうございます」


 暫くして、朦朧としていた意識が回復したようだ。

 俺はタオルを取り変えながらも、ベッドに横たわっていた結夢の寝顔を撫でた。

 嫌な汗にまみれていた触れた額はまだ熱を持っていた。

 顔を拭いながら、俺は質問する。

 

「こんな熱で外に出ようとしていたなんて。多分、病院に行こうってんじゃないんだろ?」


 病院には既に出掛けた様だ。机には処方箋の袋と、飲みかけのコップがある。

 

「……よ、よくなったと思ったので……中間テスト……受けたくて……」


 結夢は突如目元を腕で拭った。

 いつもなら眼鏡を外すところだが、今は外れていてそのまま涙を拭える。

 横たわりながらの、肩を震わせながらの悔し涙を隠せる。


「……あんなに……礼人さんにも……立川先生にも……教えてもらえたのに……」

「……そうだな。あんなに頑張ってたもんな。満点、とりたかったな」

「でも……行ったらななちゃんとか……初音さんとか…………クラスの皆に移しちゃうから……行かないで、正解でした……」

「それ以前に結夢に万が一の事があったら、絵美も菜々緒も木稲このみさんも浮かばれないからよ」


 勿論、俺もよ。

 そう付け加えて、悔しそうに机の上の教科書を見ながらくしゃくしゃにしていた結夢の頭を撫でた。

 もしかしたら、昨日も夜遅くまで勉強していたのかもしれない。

 迂闊だった。この子は頑張る事に夢中になっていると、自分の体をおろそかにする。

 体調管理をおろそかにするなと、先生としてアドバイスするべきだった。

 

「……礼人さん、早く帰られた方がいいです……か、風邪が……移るので……」

「いいよ。移して直せ」

「そんな……礼人さんへの約束も……守れなかったのに……」

「それよりも守るべき約束は一つだ。結夢。自分を大事にしてくれ」


 極論、入試は留年して何度でも受ければいいけれど。

 自分の命は生憎、人間である限り、動物である限り一つしか持っていないんだから。

 俺はそんな風に思っていた筈の、もう一人の結夢の関係者が作ったであろう御粥が入っていた皿を見つめる。

 

「……お母さん、いい人だな」

「はい……あの、実は……」

「ん?」

「お母さん、今日誕生日なんです……」

「それもか……」


 それもあって。

 結夢は、家を出ようとしたのだ。

 

「中間テスト終わったら……プレゼント、買いに行くつもり、でした……」

「……そうか」

「……そう思ったら……寝てなんか……いられなくて……」

「……」


 俺は少しだけ頷いた。

 結夢の話を、聞いた。

 

「……お母さん、いつもはあんな感じだけど――」


 結夢は、言い淀む様にして少しだけ沈黙して、そっと話す。

 

「――“私と血が繋がってない事”を気にしてるから……」


 ここで一つだけ。

 結夢の本当の母親は――結夢が幼い頃に亡くなっている。

 俺らも知らないレベルの小さい頃に、事故か何かで亡くなっている。

 今の母親は、親同士が再婚したことによる二人目の母親だ。

 結夢と大部分が似ていないのは多分、そのせいだ。

 

「……結夢は母親思いだな」

「……くやしい、です……」

「あのお母さんなら分かってくれるさ」

「……」


 また泣きそうになったので、俺が話題を変える。

 

「……一回、制服を着替えるか」

「は、はい……」

「その際に、もし体拭けたらこれで拭くか……」


 タオルを見せながら、俺が続ける。

 

「さっきからやっぱり体温上がってるからか、全身から変な汗が出てるぞ」

「えっ、あっ、……きたない……恥ずかしい……」


 そこにショックを受けるのか。

 女子は偶に分からない。結夢が偶に分からない。

 

「……もし良かったら」


 そして俺は、ここでとんでもない提案をしていた。

 

「背中とか、手の届かない所、俺が拭こうか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る