第69話 リレー

 生徒と先生が本来SNSのアカウントを交換しているなんて事は本来はあってはならない。

 しかし緑色の噴き出しでアイコンが構成されているそのアプリのアカウントについては、知ってしまっている。

 結夢とアカウントの情報を、交換してしまっている。


『風邪引いたって聞いたぞ? 大丈夫か?』


 大丈夫な訳がない。

 あの生真面目な結夢が、学校に行けなくなる程に逼迫した状況だ。

 あれだけ中間テストへの勉強を頑張ってきた。大学入試の問題ですら解けるレベルにまで、自分を研ぎ澄ませてきたのだ。

 それが俺との約束を果たしたいからという理由に起因するのかどうか分からないけれど、それでも彼女は頑張った。

 

 努力は報われていい筈だ。

 報われてはいけない努力なんて、少なくとも結夢はしていない筈だ。

 いくらなんでそれはあんまりだろう。神様。

 

「……返事が来ない……」


 そもそも体調不良だから、返事を打ち込む程に余力はないのかもしれない。

 だが『既読』というステータスを見て十分。二十分。

 俺は一つの懸念を抱いていた。

 

「まさかまた手紙みたいに一時間、二時間かけてメッセージ書いてんじゃねえだろうな……」

 

 杞憂ならいいが、結夢には生憎前例がある。

 一時間、二時間かけて手紙のような文章をスマートフォンで書いてしまう子なのだ。昭和時代どころか大正時代のハイカラさんか。

 だから俺はもう一つ、メッセージを付け加えるべきだった。

 そう後悔しながら、俺はそのメッセージを打ち込んだ。


『もし長々と文章を書くくらいなら寝るんだ』


 すると。

 短くなった文章が五分後に帰ってきた。

 五分かかるメッセージの時点で、俺ら現代人にとっては十分長文に違いない。

 

『前略。柊礼人さん 八幡です。この度はご心配とご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。私のご心配ならなさらず。母親に午前中仕事を休んでもらい、看病をしてもらっている為、体調は快調に向かう物と思われます。現在熱は39度で――』


 そこで一旦読むのを辞めた。

 39度って。季節外れのインフルエンザか何かじゃねえだろうな。

 とはいえ、結夢は外見の通り体が強いわけじゃない。子供の頃も結構病気がちだった事がある。

 この前江ノ島に行った時も大丈夫そうだったし、それは子供の頃の個性かなと忘れかかっていたが、やはりここ最近の勉強ブーストは体に応えていたって訳か。

 

『39度はやばいな。お母さんが看病に回れているようで良かった』


 しかし一応は見てくれている人がいるなら安心だ。今のところだ。

 結夢の母親がやっている仕事は、確か穴をあける事が出来ないくらいに大変な仕事だった筈だ。特にここ最近前期末に向けて忙しいとも聞く。その状況で結夢の為に休めているあたり、大雑把ではあるし結夢を男子のいる家に泊めても構わないと結夢とは真反対の人間である一方で、やはり結夢のような母親的優しさを持っている事には違いない。

 

 ……実は、結夢と結夢のお母さんの関係にも実は一筋縄ではいかない事情があるんだが……まあそれはいいだろう。


 しかしやはり、一日仕事に穴を空ける事は出来なかったようだ。

 このメッセージの口ぶりからだと、午後にはお母さんは出ていってしまう。

 

 そうなると結夢は一人か。

 39度の熱で、一人か。


 ……流石に、心配だった。

 

「……午後、結夢の家にいってみるか」


 幸いというべきか分からないが、大学の授業は午前で終わり(というか今こっそりやっている)、午後は塾講師も無い。

 絵美や藤太と遊びにでも行こうかと思っていたが、特に葛藤も無かった。即座に二人に謝罪メールを送った。

 

『あんたがこんな文章、のっぴきならない状態ね』

『まさか……この前言っていたロリっ娘の恋か』


 くそっ、なんで勘付かれた。

 俺は勿論こいつらにも結夢との関係は秘密にしているので、深くため息を着きながらとりあえず誤魔化す。(多分誤魔化せた)

 

 俺は結夢の家に向かいながら、以前結夢の母親が家にお礼に伺ってきた際に交換した電話番号を使い、結夢の母親に電話をかけていた。

 

「ああ、どうも。柊です」

『ああ礼人ちゃん! 久しぶりねぇ! あっ、さては結夢の事聞いたな?』

「はい……結夢、大丈夫かと……」

『まあ、大丈夫ではないけれどね……でも、朝よりは回復した方よ。おそらく、だけど』


 快活な声にも若干の心配が入っていた。

 俺は、提案した。

 

「あのおばさん……午後も結夢さんの傍に居られるのでしょうか」

『……きっとその口調だと、私が午後居られないって知ってるわね?』

「すいません……もし、もし母さんが良ければ――こんな事を言う男を入れたくないのなら、寧ろその通りかもしれませんが……』


 流石に、結夢のお母さんから見れば付き合っている訳でもないのに、弱った娘の下へ赤の他人である男を入れようとするはずもない。必死に頭で言葉を手繰り寄せていた所――。

 

『分かった。結夢をよろしく頼むよ』

「えっ?」

『多分私よりは、礼人君が近くにいてくれた方があの子も安心するから』


 突然のお許し。

 いや、そんなわけがない。

 母親の近くよりも、安心する場所がある筈ない。

 

 例えこの二人の関係が、一般家庭とは違ってにわかに特殊だったとしても、だ。

 普通の男性よりも、恋人よりも、先生よりも、母親の近くにいた方が安心するに決まっている。


『今日は何とか18時には帰れるようにしているから……あっ、そういえば家の鍵、無くした時の為の物が水道メーターの下に貼りついているから! よろしく!』

「あっ、ちょっ……」


 また急いでいたのだろうか。

 一方的に電話を切られてしまった。


 ……もう一度電話しようとも考えたが、俺が出来るのは一つだけだった。

 今は正午。多分結夢のお母さんも今は家にいない。

 一人で苦しんでいる結夢を、救いたい。

 

 だから俺は。

 そっと、走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る